第五話 PTSD治療薬


 授業がすべて終わると、サクヤとヒバリは学校を出てニューステラの中心街まで歩いた。何でも昨日の夕方、サクヤが立ち寄った場所があるという。


 昨日の自分が残した位置情報を辿りながら、凍結した路面を歩いた。

 大陸の北に位置するこの街は、日が早く落ちる。空を流れる雲は、うっすらと茜色に染まっていた。

 人が疎らな大通りから細い路地に入り、ひび割れた雑居ビルの壁面を眺めながら黙々と歩く。迷路のように蛇行や分岐を繰り返す路地を地図を頼りに進むと、目的地が見えてきた。


「ここみたいですね」


 ヒバリが足を止めた先には、地下へと繋がる階段があった。

 階段の手前にはシックなデザインの看板が設置してあり、そこに瀟洒なフォントで店名が書かれていた。

 ヒバリが首を傾げた


「あれ、ここって・・・・・」


 そこは、明らかに酒場だった。

 サクヤの背中に冷や汗が滲む。サクヤは未成年だ。それなのに、行き先は酒場。ということは──


 警官の少女が温度のない瞳でサクヤを見た。首筋のあたりに寒気を感じる。


「未成年飲酒ですか」


「……ほんとにここであってるのか?」


 何かの間違いということもあるかもしれない。


「間違いないです」


「トイレを借りただけかもしれないぞ」


「十五分もいますけど?」


「うーん。余程の激戦なら、あるいは・・・・」


「最低です」


 ヒバリの一睨みから逃げるように、サクヤは階段を下りた。

 『名誉信徒歓迎』という札が掛かった木製のドアを開けて、中に入る。


 暖色系の照明が控えめに灯る店内には、カウンター席とテーブル席があった。

 テーブルの一つは、三人の客で既に埋まっている。

 三人の客は全員が男で、民間警察のレイドジャケットを羽織っていた。テーブルに顔を突き合わせて何やら話していたが、サクヤの視線に気づいてこちらを振り向く。


 三人の表情は訝しげだった。

 それもそうだ。サクヤとヒバリはどう見ても未成年だ。酒場ではひどく目立つ。

 相手は勤務外とはいえ警官だ。注意されるかと覚悟したが、三人はすぐに談合を再開した。

 サクヤとヒバリはほっと息をついて、カウンター席に座る。すると、ヒバリがバーテンダーに黒い《オズワルド》を見せた。


「民間警察です。少しお話を聞かせてください」


 バーテンダーはあからさまに面倒そうな顔をした。


「今は営業時間中です。出直してください」


 現在の時刻は十七時だ。

 もうそろそろ本格的に客が入り始める時間帯だし、店側からすれば今から聞き込みが始まるのは迷惑極まりないだろう。 

 バーテンダーの仕事を止めてまで話を聞く権利は、もちろんこちらにもない。困ったように黙るヒバリの横で、サクヤが言った。


「注文します。俺たちが一杯飲み終わるまで、客として話を聞いてください」


 店員は困ったように眉を下げた。


「そういう問題では・・・・・・」


「長居はしません。約束します」


 逡巡した様子のバーテンダーは、少し悩んだ末に小皿に乗ったチョコレートを出した。

 これは・・・・・・お通しというやつだ。どうやら、サクヤとヒバリを客として扱ってくれるらしい。


「一杯だけですよ」


 カウンターに出されたメニュー表を眺め、サクヤとヒバリは同時に頼んだ。


「「オレンジジュース」」


「……まぁ、いいでしょう」


 バーテンダーは微妙な顔をしながらも頷いた。

 もっと単価の高い飲み物を頼んであげたいが、高い飲み物はすべて酒だ。警官が店内にいるのに酒を頼む勇気はない。


 オレンジジュースがカウンターに置かれると氷がカラカラとグラスにぶつかる音がした。

 オレンジジュースとチョコレート。

 夕方の酒場に、まるで託児所のおやつのような品が出揃っている。露骨に子供らしくて、何だか頬が熱い。


 ヒバリは場違いなことをしている気恥ずかしさに顔を赤くしながら、本題に入った。

 ヒバリがサクヤの肩に手を置く。


「こ、この人に見覚えはありませんか? 昨日の十六時ごろ、この店にきたはずなんです」


「憶えていますよ。少しカウンターを外していたら、アルバイトの子が通しちゃっていたみたいで。未成年なのでお引き取り願ったら、待ち合わせだと言うんです」


 「そうですよね?」と店主はサクヤを見た。

 そんな風に確認されても、曖昧に頷くことしかできない。その記憶があったら、そもそもここに来たりしないのだ。

 ヒバリは次の質問に移った。


「常連客とは誰ですか?」


「セレーさんです。ヴィンセント・セレーさん。民間警察の方です」


「それは自称ですか?」


「ええ、まあ。でも、確かだと思いますよ。黒い『オズワルド』を見ましたし、ここには民間警察の方しか来ません」


 黙って会話を聞いていたサクヤが、そこで口を挟んだ。


「どうして普通の人は来ないんですか?」


 尋ねると、バーテンダーもヒバリも少し気まずそうに口を閉じた。ヒバリが質問に答えたのは、数秒の沈黙の後の事だ。


「トラブルを避けるためです。名誉信徒は協約の元関係者で、今は統一政府側の人間です。元からのオズの信徒から見れば私たちは仇敵で、マギの信徒から見れば裏切者なわけなので、両方から恨まれてるんです」


 仲間を殺された恨みと、信仰する神を裏切った恨み。

 両者の感情は、戦争が終わったというだけで割り切れるほど安くないのだろう。親統一政府側の人で考えれば、名誉信徒に他の人間と分け隔て無く接するような人は、きっと少数だ。


「だから私達が使う店には、普通の人は近づいてきません。もちろん私達もトラブルは避けたいので、仲間が少ない店には入りません。そうやって、棲み分けがされているんです」


 被差別集団は、自衛のために同族で集まる傾向がある。

 名誉信徒もその例に漏れず、無用なトラブルを避け、身を守るためにできるだけ仲間と行動するようだ。

 その結果が『名誉信徒歓迎』店の誕生という事だろう。


「そういえば、セレーさんはあなたにメモを残して行きましたよね?」


 再びバーテンダーがサクヤに確認を取った。確認されても、記憶がないからわからないのに。

 チョコレートの最後の一かけらをジュースで流し込んで、ヒバリが口を開いた。


「メモを残したって、セレーさんとサクヤさんは会わなかったんですか?」


「なんでも急用ができたとかで、セレーさんは伝言だけ残して出ていきましたよ。その後に、この少年が来たんです」


「そのメモの内容は?」


「お客様の物なので、内容を確認したりはしませんでした。でも、セレーさんは新しい待ち合わせ場所だと言っていましたよ」


 ヒバリは顎を手で支えながら唸った。それからサクヤの方を向く。


「うーん。何かおかしなところはありますか?」


 サクヤは首を横に振った。


「情報があまりにも足りないから、何とも言えないな」


「ですよね・・・・他に何かセレーさんに関する情報はありませんか?」


「あ、情報ではないんですが、セレーさんの忘れ物で、預かってほしいものがあります」


 バーテンダーが屈んで、カウンターの影に隠れる。しばらくガシャガシャと棚を漁ると、バーテンダーは小さな袋を取り出した。

 袋の中には、プラスチックの包装が施されたオレンジ色の錠剤が入っている。

 ヒバリは袋から錠剤を取り出した。包装には、商品名と製造業者名が書いてある。一見して、違法な薬には見えないが。


 店主はそこから声を潜めて言った。


「おそらく、仕事で押収した物だと思います。ここら辺では有名な薬なので」


「有名な薬? これが?」


「PTSDの治療薬です。過度に使用すると麻薬と同じような効果が出るということで、戦後の貧しい時期に巷で流行ったんです」


 サクヤは検索エンジンを使ってPTSD治療薬に関する情報を見た。


 PTSDとは、生死に関わる強いストレスを受けたときに発症する精神疾患のことを指す・・・・・・らしい。

 死の危険に直面し、過度のストレスを受けると、その出来事の記憶がふいにフラッシュバックしたり、同じような体験をする悪夢を見るようになる。

 深刻なケースでは、緊張感や不安感が続き、日常生活を送るのが難しくなることもあるそうだ。


 戦時中は多くの兵士が戦場で大きな心的外傷を受け、この病を発症した。

 そのため、両陣営はPTSDに対処するべく治療薬をいくつも開発し、大量に生産したそうだ。

 いま違法薬物として出回っている治療薬は、このとき製造されたものらしい。


「ヒバリ。これか? 記憶障害の原因の薬は?」


 ヒバリは頷いた。


「PTSD患者は、過去に強いストレスを受けた出来事を無意識の内に思い出してしまうそうです。この治療薬は、PTSDの原因になる出来事の記憶を一時的に消すんです」


 フラッシュバックも悪夢も、元の出来事を忘却すれば起こらない。この治療薬は病気を根本的に治すことはできないが、一時的に症状を止めることはできるわけだ。


「なるほど。ならセレーに事情を聴いた方がいいな」


 この薬はセレーの持ち物だ。

 サクヤが自分で薬を飲んだ可能性も捨てきれないが、現状で最もサクヤに薬を飲ませた可能性が高いのは、セレーだろう。

 バーテンダーは、微妙な顔をしてこちらを見ていた。


「その薬に関わるのは控えた方がいい。それに関わった人間は軒並み命を落としています」


「どういうことです?」


 ジュースをすべて飲み切って、ヒバリが尋ねた。

 ──早いよ。一杯までって約束なのに。もうちょい時間を稼いでくれよ。


「最近、この薬を捌いているギャングの倉庫が、何者かに襲われています。襲われた倉庫には、血溜まり以外何も残っていないという話です。この薬を追っていた警官も、民間・公営問わず失踪者が多い。何を企んでいるのか知らないが、その薬に関わる人間を消して回っている人がいるんです」


 後ろに何かが迫ってくるような不安感が、急にサクヤを襲った。

 拘禁者の失踪と同じような、気味の悪い話だ。


 何だか落ち着かない気持ちになって、無意識にオレンジジュースに手を伸ばす。

 そのとき、サクヤの《オズワルド》に着信が入った。


「おわぁあああ⁉」


 サクヤが悲鳴をあげ、飛びのいた勢いでグラスが倒れてしまった。まだ一口も飲んでいないジュースが盛大にカウンターに広がる。

 ・・・・・・失態だ。


「す、すいません」


 謝るサクヤに、バーテンダーは力の抜けたように笑った。


「ちょっと脅かし過ぎましたかね」


「いや、別にびびってないですけど」


「サクヤさん、手が震えてますよ」


 バーテンダーからタオルを受け取り、カウンターの上をふき取る。

 サクヤが顔を赤くしてカウンターを拭く横で、ヒバリは話を戻した。


「でもマフィアはともかく警察関係者は失踪でしょう? まだ死んだかどうかわからないんじゃないですか?」


「現場にはいつも争った後と、大量の血だまりが残っているそうです。調べてみると、その血は失踪者のものだとか」


「現場に残される血だまり・・・・・・拘置所の失踪と同じですね。サクヤさんも放置したら血だまりになってたんですかね?」


 血だまりが広がった独房が脳裏に浮かんで、背筋が凍った。


「怖いこと言うなよ」


「怖いんですか?」


「いや、怖くないけど」


 危ない。つい誘導されそうになった。


「あなた方は若い。この件からは手を引く事をおすすめします」


 店主の忠告は誠実な響きを持っていた。

 おそらくは未知の存在に対する純粋な恐怖と、自分よりもいくつも若い警官達に対する同情心が、心の中にあるのだろう。

 真っ暗な森へ迷い込もうとしている子供を見れば、誰だってそれを止める。森の怖さを知る者なら尚更だ。


 バーテンダーの忠告に、ヒバリは笑みで答えた。


「ありがとうございます。でも、これが仕事なんです。使命から逃げれば、私達に存在意義なんてないんですよ」


 サクヤがグラスを倒したことで、これですべてのグラスが空になった。

 もう質問の時間は終わりだ。


 少し違和感がして、サクヤは空になったグラスを見た。


「けっこう長居したみたいだな。もう氷が全部溶けてる」


「ほんとだ。時間を取らせてごめんなさい」


 すまなそうに言うヒバリに、店主が微笑んだ。


「大丈夫ですよ。最近安い氷に買い換えまして、溶けるのが早いだけです」


 会計を済ませ、サクヤ達は店を出た。その後、すぐに着信履歴を確認する。

 不在着信は一件。着信元は「弱竹 文月」だった。

 孤児院の院長だという人物だ。

 

サクヤは三度折り返してみたが、文月は電話に出なかった。



※※※※※



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