第4話


 かちゃん、とティーカップがソーサーに当たって音を立てた。俯くと、フルーツティーに情けない顔をした自分が写った。

「……雪くんと、喧嘩したのか?」

 椎は頬杖をつき、一花を見つめた。白い陶器のような頬にかげが落ちる。

「……喧嘩じゃないよ」

 むしろ、ただの喧嘩ならどれだけよかっただろうと思う。

 沈黙が落ちる。

 かちゃり、と再び音が響く。椎がティーカップをソーサーに置いた。

「一花?」

「……雪くんが好きなのは、やっぱり私じゃなかったの」

 口にすると、その言葉は何十倍もの威力を持っていた。

「でも、雪くんは一花の告白を受け入れてくれたじゃないか」


 一花が雪に想いを告げたのは、文化祭から一週間経った放課後だった。

 帰り道、たまたま駅のホームで居合わせた雪と一緒に帰ることになったのだ。

 一花はそこで、思い切って告白をした。

 といっても、付き合うためではない。一花は、振られるために告白したのだ。

 どうせ雪の中での恋愛対象が女性でないなら、諦めるしかない。それならば、告白して振られればきっぱり諦められると思ったのだ。


 ――けれど。

 一花の告白を受けた雪は、『いいよ』と言ったのだ。

 振られるものと思っていた一花は、予想外の返事に戸惑って、しばらく言葉が出なかった。

 そしてそのまま、一花と雪は付き合うことになった。

 雪のひとことで、一花は救われた。

 一花の予想は間違っていたのだと、心からほっとした。

 茜と雪は、ただの友達だったのだ。当たり前だ。だって、二人は異性じゃない。男の子同士なんだから。

 一花は、そう心の中で何度も言い聞かせて、胸の内にあった違和感を払拭した。


 恋人としての雪はすごく優しくて、かっこよくて、そばにいればいるほど、一花は雪をどんどん好きになった。


 ……でも。

 一花は俯き、涙が落ちるのを堪えるように唇を噛んだ。

「一花」

 椎がそっと一花の頭を撫でた。

「椎ちゃん……」

「うん、ゆっくりでいいから話して。今日、なにがあったんだ?」

 一花はこくりと頷き、息を吐いた。

「今日の放課後……見ちゃったの」


 一花は雪と付き合い始めてからというもの、ほぼ毎日一緒に帰っていた。

 今日の放課後も、いつも通り雪の部活が終わるまで、一花は教室でひとり読書をしながら待っていた。

 しかし、部活が終わる時間になっても雪は教室に来なかった。あらためて時刻を確認するが、やはり部活はとうに終わっている時間だ。仕方なく、一花は雪を迎えにバスケ部の部室がある体育館裏へ向かった。

 今は、行かなければよかったと後悔している。


 一花はそこで、言い争うふたりを見た。

 茜は少し怒っている様子で、雪は困ったように俯いていた。

 一花は足を止め、咄嗟に体育館の陰に隠れながら様子を窺った。

 茜の手が、雪の肩に伸びる。遠目から見ても、それは同級生同士が触れ合うような感じではなかった。

 茜の手はまるで壊れ物を扱うように丁寧で、どこか切実で、焦がれるように雪に伸びていた。

 肩にあった茜の手がすっと上に伸び、雪の頬に触れる。雪は頬に伸びた茜の手を取ると、ゆっくりと顔を上げ――そして、ふたつの影が重なった。

 ――あぁ、やっぱり、と思った。

 雪は、茜と想い合っている。一花に、その心に入る隙はないのだ。

 雪が一緒に帰りたいのは、本当は一花ではなく茜なのだ。本当は毎日部活なんてしてないで、ここでこうして、ふたりで会っていたのかもしれない。

 そんな、黒い感情が一花の心を支配した。

 これまで気付かないふりをしていた現実が、一花の心臓を抉った。

 苦しくて、悲しくて、一花は逃げるようにその場を後にした。


「……どうしても帰る気にならなくて、そのまま海辺を歩いてたら、いつの間にかここに」

「……だったら中に入ってくればよかったのに。女の子ひとりで外に立ってたら危ないでしょ」

 椎は困ったような微笑を浮かべ、フルーツティーのおかわりを一花に差し出した。

「……雪くんね、前に言ったんだ」


 あれはたしか、初めて雪と手を繋いだ日だった。

 ふたりは、付き合い始めてからも付かず離れずの距離感を保っていた。


 隣に感じる雪の気配に気を取られ、ちょっとした段差でつまずく一花に、雪は小さく笑ってそっと手を取ったのだ。

 心のどこかでそういう触れ合いはないものと思っていた一花は素直に嬉しかったし、やはりすごくどきどきした。

 雪の手はさらさらしていて、力を緩めたら簡単に解けてしまいそうだった。まるで、砂のようだと思った。それが危うくて、一花はその手をぎゅっと握り返したのだ。

 そうしたら、雪は唐突に言ったのだ。


 ――どうやったら、普通になれるんだろう、と。

 見上げた雪の横顔は今にも泣き出してしまいそうで、一花は心臓を直で握り潰されたように苦しくなった。

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