正体と解決

その日も、私は香と話していた。

「今日はちょっと疲れちゃった…」

『へー、やっぱちゃんと学校に行くのって大変なんだね。』

「…まぁね。でも香もたまには学校に来なよ?」

『うーん…やだ。めんどくさい。』

「私も居るのに?」

『それ以外の子も沢山居るでしょ。』

「そう、だけど...」

『じゃー行かない。そもそも学校あんま好きじゃないし』

まるで何でもない選択のように、軽くそう口にする香。...私にその選択は出来ないというのに。

「...いいよね、香は自由で。」

心の中にモヤっとした感情が生まれて、思わずそんな言葉が飛び出す。少し罪悪感が生まれたが、私は見ないことにした。羨むような視線を送っても、香はただ曖昧に微笑むだけ。その笑顔はどこか切なげで...私は思わず先程まで抱えていた思いも忘れ見入ってしまった。

『私は__』

香が口を開いた、その時。

がちゃりと音がして部屋のドアが開いた。

「お母さん...」

一気に心が重くなる。それを悟られぬよう、私は意図的に口角を上げた。なんだか突然水の中に突き落とされたみたいだ。息苦しくて、冷たい。

「ちょっとここに座りなさい。」

お母さんの声は固い。...理由は分かっている。この前のテストだ。

「...はい」

言う通りに床に正座すれば、一気に言葉が降りかかって来た。

「あの点数はどういうこと?ちゃんと勉強してたんじゃなかったのかしら?まさか、私に黙ってどこかに遊びに行ったりしている訳?」

胃がキリキリと痛む。言葉が、重い。香の放つ透明な言葉はふわふわと軽くて心地よかったのに、今は言葉に押しつぶされてしまいそうだ。

「違うよ...ただちょっと、集中出来なかっただけで」

「言い訳しないの!」

大きな声で怒鳴られる。思わず猫背になって、下を向いてしまった。

「どうするの?このままじゃ良い学校に行けないわよ?学校の勉強が分からないなら塾に通えばいいじゃない。...ええ、名案だわ。今度進学塾に連絡して__」

「嫌だ!」

そんな事になったら、香と話す時間が少なくなってしまう。それだけはどうしても、嫌だった。

しかしそんな私の気持ちなど母親が知っているはずもなく。さらに機嫌を悪くして、眉間に皺を寄せるのだった。

「そんな事言ったって、勉強出来ないのならそうするしかないじゃない。それとも勉強なんてしなくていいとでも思っているの?」

「違う...今回は、ちょっと出来なかっただけ...次はちゃんとするから...お願い」

消え入りそうな声で言えば、母親は眉間の皺をさらに深くして、まあいいわ、と呟いた。

「次のテストでいい点を取らなかったら塾に入ってもらいますからね。」

パタン、とドアが閉まる音。それを聞いて思わず息を吐く。心は重いまま、私はただその場に寝転がった。

『何やってるの。埃が付いちゃうよ。早く起き上がりなさい。勉強しないと。お母さんにもそう言われたばかりでしょう?』

...香の言葉じゃない。「ちゃんとした私」がまた顔を出したんだ。

『ほら、早く。そんなことしても、時は止まらないし学校は待ってくれないよ。』

「ちゃんとした私」は、なんだか母親に似ている。重い言葉で、私を押しつぶすのだ。

「...うるさい」

思わず呟けば、「ちゃんとした私」は目を吊り上げた。

『うるさい!?うるさいですって!?誰のために言ってあげてると思ってるの!そうやってまた逃げようとして...空想ばかりしているからそんなことになるのよ!』

「違う!!...私は」

その先の言葉は見つからなくて、私はただ耳を塞いでその場に縮こまることしか出来なかった。__透明な言葉は、空気の振動で伝わるわけじゃない。だからそんな事をしても無駄だというのに。私はただそうやってその場で小さくなるばかりで、また「ちゃんとしたわたし」に怒られるのだった。



「ほら、早く早く!」

___ふと気づくと、私は香とどこまでも続く草原を駆けていた。香は私の前を走っていて、時々私の方を振り返って楽しげに笑っていた。体が軽い。先程からかなり走っているというのに、足は重くならず、それどころか息さえ全く上がっていなかった。どこまでも走れそうな気さえして、私はただ足を前に前に動かした。

「この先に海があるんだ!」

香が大きな声でそう言う。私の頭の中に、白い砂浜とどこまでも続く青い青い海の姿が浮かんだ。

「いいね、海。楽しそう。」

そう言えば、でしょう?と、香が嬉しそうに笑った。つられて笑顔になる。

心がどうしようもなく軽かった。ただただ幸せで満たされていて、この時間がいつまでも続けばいいのに、なんて思った。

ふと、足がもつれる。

「あ」

私は小さく悲鳴を上げて、その場に転倒してしまった。柔らかい草が潰れる感触。すぐに起き上がろうとして...私はその場から動けなくなった。

いつの間にか、私は小さな檻の中に居た。

「え...なん、で」

『ちゃんとしなさい。こっちに来なさい。勉強しなさい』

その声にはっとして振り向けば、黒いもやが私に襲いかかってきた。

「やめて!」

振り払えば、呆気なく消えていく。しかしそれはまた現れて、私を押し潰そうとし始めた。

『ちゃんとしなさい、何やってるの、良い学校に行けなかったらどうするの?』

「やめ...香、助けて...!!」

檻の外、私に気づかず走っていた香が、その声に気づいてこちらを見る。

「ほら、そんな所さっさと抜け出して、早く海に行こうよ!」

香の声は、ただ楽しげだった。

「でも...檻の中から出られないの!このままじゃ、そっちには行けない...」

もやを必死で振り払いながらそう言えば、香は少し笑った。

「何言ってるの。その檻の鍵は、貴方がちゃんと持っているでしょう?」

「え__?」

手元を見れば、いつの間にか私は小さな金色の鍵を握りしめていた。目の前には、鍵と同じくらいの大きさの鍵穴。

『____!!__!?____!』

もうもやの声は殆ど聞こえなくなっていた。私は震える手で鍵を鍵穴に差し込んで、回した。


かちゃり、と音がして____



「っ!!」

飛び起きれば、私は見慣れた自分の部屋にいた。窓の外はまだ薄暗い。

夢...だったのだろうか。香が夢に出てくるなんて珍しい。目を閉じて夢の中の光景を思い出せば、重いままだった心が少しだけ軽くなった。広大な草原、青い空、それから...。

『おはよう』

ふと声が聞こえて目を開ければ、香が窓に腰掛けてこちらを見ていた。

「おはよう、香。...ずいぶん早いね」

そう返せば、香は小さく笑った。

『鍵は、開けられた?』

その言葉に思わずどきりとする。あの黒いもやの声は...間違いなく母親だった。ならば、あの檻は...。

「...まだ」

私は、まだこの檻の中から抜け出せずにいるのだ。ただ囚われて、言葉に従うだけ。

『...そっか』

ただ香は、そう言って曖昧に微笑んだ。

「私...ちゃんと鍵を開けてみせるよ。」

そう言えば、香は小さく頷く。

『楽しみにしてる。』

鍵は、私が持っている。心がある限り、自分の気持ちがある限り、それは時に姿を変えながらもそこに在り続ける。

___今こそ、それを使う時だ。

いつの間にか辺りは明るくなっていた。...香と話していた時がまるで夢だったかのように、部屋の中はしんと静まり返っている。

「...。」

少し目を閉じて、夢の世界を思い出す。香の笑顔、草原、黒いもや、金色の鍵、そして...

「...よし。」

私は立ち上がって、残る眠気を追い払う。リビングへ行けば母親はテレビを見ていた。...もうそんな時間なのか。

「おはよう、お母さん」

「おはよう」

「...」

母親の機嫌はまだ直っていないらしい。昨日のこと、まだ怒っているのだろうか。...私は部屋に逃げ帰りたい気持ちを押し殺して、口を開いた。

「お母さん、あのね」



あれから香の姿は見ていない。透明な言葉も、今はほとんど使わなくなった。

それでも私は、まだ追いかけ続けている。自分の足で走り、迷いながら、あの子の姿を探している。一刻も早く、追いつけるように。

香に___「理想の私」に、なれるように。

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