18.幻惑の森
魔界には自然環境は存在しない。あったとしてもそれは、強大な悪魔によって作られた偽物の自然だ。
幻惑の森もその例外ではない。アスモデウスによって作られた広大な森林地帯、それこそが幻惑の森である。特筆するべきはその範囲の広さだ。アスモデウスの領地は丸ごと森林に覆われており、その領地を通るならば避けては通れない。加えてそれを生み出したアスモデウスの実力も想像できるというものだ。
それでも三人はこの森の中を行くしかなかった。他の道を知らない上、案内役がいなくなればそうするしかない。
「不気味な森ッスね。」
幻惑の森を見て、一番最初にヒカリはそう言った。荒野の中に突然現れた森林は確かに不気味だ。ある境界線から突然草木が生い茂っていて、緩やかに森が形作られた形跡がないのである。
これ程の大森林が誰かの手によって作られている、という違和感は大きい。何も知らない者でも、ここは危険だと本能が告げてしまう。
「ここにはお日様がないし、コンパスも使い物にならへん。通るのは大変やろねえ。」
「それでも、行くしかないわ。ヒカリはいつでも聖剣を抜けるようにしておいて。」
フィルラーナがまず森の中に足を踏み入れる。それに二人はついて行く。
「森の中やと方角を見失いやすい。うちが歩きながら杖で線を引くさかい、それを目印にして進もか。」
森林の中で真っ直ぐ進むというのはそれだけで難しい。本来なら地図とコンパス、それと日の動きを見て判断して進むものだが、そのいずれも存在しない。
線を引くというのはプラジュが出した苦肉の策だ。後ろを定期的に振り返って、曲がっていれば戻って真っすぐ進み直す。原始的且つ面倒だが、やらないよりは幾分かマシだ。
その線を頼りに、三人は森の奥深くまで進んで行った。
幸いにも、森の中で魔物は現れなかった。
しかしこの森に来るまでに休憩しながらも一日近く歩き続けており、更にそこから森の悪路も重なって疲労は限界に達していた。特にフィルラーナの体調は悪かった。
顔色は青白く、いつもは力強い眼差しも今は濁っている。歩く歩幅も少しずつ小さくなっていた。それでも弱音一つ吐かないのは彼女の強さだが。
「……休憩にしよか。ヒカリちゃん、テント張るの手伝うてもらえるか?」
「勿論ッス、任せてください!」
プラジュとヒカリはテントを張り始める。それにフィルラーナは沈黙をもって肯定を示し、その場に座り込んだ。服は汚れるが今更そんなことを気にしない。
テントを張り終えるとヒカリはフィルラーナの所に戻って来る。くたびれてはいるものの、幾分か体調を取り戻したようだ。
「……こうなるんだったら、もっと鍛えておくべきだったわね。」
「流石にこんなの予想できないですし、仕方ないッスよ。それよりも体調は大丈夫そうッスか?」
フィルラーナは首を縦に振る。別にフィルラーナは病弱というわけではない。少し休めば体調は落ち着いた。
「ベレトの領地と同じくらい広いなら、直進し続けたとしても2日はかかるわ。こういう時、アルスがいれば楽なのだけれど。」
そればかりは仕方ない。シルードに行かせたのはフィルラーナ自身であるし、アルスがいない時をどうせ狙うのだからこの事態は避けられない。
重要なのは今、この3人でどうやって森を抜けるか、だ。
フィルラーナも魔法は人並み以上に使えるが、遭難時に活用できる魔法に覚えはない。加えて、どうやら魔界では加護の力が弱まるようで、いつもは身近に感じる神の気配は薄くなっていた。
「最悪、私の加護を利用して森を出る。出た場所がバアルの領地の方角かまでは保証できないから、あまり信用しないでおいて。」
理想は真っ直ぐ森を抜けて悪魔王の領地に辿り着き、そのまま魔界を出ることだ。バティン曰く黒い城が目印らしいから、領地に入れば分かるはずである。
もし森を出てそれが見えなければ、森を沿って更に歩く必要が出てくる。当然、歩く量は大きく増える。先を急ぐために森に入ったのに、歩く量が増えるのでは本末転倒だ。それだけは避けたいところである。
「バティンさんがいれば、楽だったんスかね?」
「……いえ、どうかしら。あの車がこの森の中でも走らせる事ができるとは思えないし――何より信用できないわ、あいつ。」
その言葉にヒカリは驚いた。まさかフィルラーナがバティンを警戒しているとは考えもしなかったのだ。
「あまりにも都合が良過ぎた。それに、バティンはあれ程の機動力があるのに森を迂回する話を一回もしなかった。ただの馬鹿なら良いのだけれど、そうでないなら何か裏があると考えた方が納得できるわ。」
言われてみれば、そうかもしれない。複数の領地を跨ぐ事になったとしても、この森を通るよりは楽な気もする。しかしこの道しかないような言い方をバティンはしていた。
だからフィルラーナはあっさりとバティンを捨てて幻惑の森まで辿り着いた。もしかしたら、ベレトはそのバティンの魂胆を見抜いていたのかもしれない、と思いながら。
「それなら、森は避けた方が良かったんじゃないんスか?」
「そう思ったのだけれど、運命神はそうは思っていないそうよ。回り道の事を考えると頭痛がするの。体調が悪くなったのはそのせいもあるわね。」
たまに、フィルラーナと運命神の考えはズレる事がある。フィルラーナはそういう時、真っ先に自分の考えを捨てることに決めていた。だからこそ切り抜けて来た局面だっていくつもある。
「運命神の加護って凄いんスね。」
「私のは祝福ではなくて寵愛だから。少し特別なのよ。」
その言葉にヒカリは首を傾げる。
「……折角だから教えてあげるわ。魔界まで来た賃金と思って聞きなさい。他の人にはあまり言わないように。」
幸いにもプラジュは付近の地形を調べていて近くにいない。だからヒカリになら良いか、と思ってフィルラーナは口を開く。
「神の加護には二種類ある。一つは気紛れで与える祝福、もう一つはこの世に一人だけ、その権能の一部を分け与えられる寵愛。加護の力も強力だけど、寵愛は比べ物にならないわ。」
運命神の祝福であれば、悪い出来事を察知できるという程度だ。確かに有用ではあるが、フィルラーナの加護には遠く及ばない。
常に神の愛が降り注がれ、行動や思考一つにすら干渉してくる。それこそが運命神の寵愛である。
「正直、寵愛なんて呪いと大差ないわ。私は運命神に呪われてるの。」
「……そんなこと言っちゃっていいんスか?」
宗教観に疎いヒカリでも、そのフィルラーナの発言が良くないことはわかった。神々が与える権能を呪いと称すなど教会に聞かれればどうなることか。
それでもフィルラーナは気にしない。それは本心から思っていることだし、客観的に考えたとしてもそうだと思ったからだ。
「神の与える愛は無償の愛よ。私が私として信念を変えない限り、どれだけ嫌われようが私への寵愛はなくならない。ほら、呪いみたいでしょう?」
加護にオンオフなんてない。どれだけ逃れたくとも、自分が自分であり続ける限り死ぬまでその権能からは逃れられない。
――大いなる力には、大いなる責任が伴う。
古くからそのような格言があるように、それは世界が変われど通用し続ける真実だ。力があるからにはそれを振るう上での責任が存在してしまう。
「この事は他言無用よ。特に私が寵愛を呪いと言っていた辺りは。」
「それは、先輩にもッスか?」
「アルスにも、お兄様にも、陛下にも。あなたに言ったのは……ヒカリも似たようなものだから、かしら。」
フィルラーナは立ち上がり、我が物顔でテントの中に入っていく。
何故だか質量を持たないはずの勇者の力が、少し重く感じた。
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