39.彼に賭ける
昔の事だ。今や神秘科の冠位代理、なんて偉そうな役職についているミステアが未だ満足に魔法を使えなかった頃の事である。
彼女は戦争孤児だった。世界が平和なのは表側だけで、ポーロル大陸ではよく内乱や戦争が起きていたのだ。彼女は何も珍しくない、両親を失った子供達の一人だった。
彼女は孤児院の中では年長者で、自分より下の子の面倒をよく見ていた。子供たちからは慕われていたし、大人たちからは認められていた。
それは彼女が誰よりも利口だったからだ。時には大人すら分からないような話を直ぐに理解し、陰ながら孤児院を支えてくれていた。
「俺と一緒に来い、ミステア。」
運命が変わったのは、世界を旅する魔法使いがその孤児院に訪れた時の事だ。その人は子供たちの為に食べ物だったり、衣服だったりを持ってきてくれたいい人だった。
ミステアは知っていた。孤児院の院長が自分を連れて行くように彼へと頼んだ事を。ミステアは頭が良いから、それをこの孤児院で腐らせるのは勿体ないと、そう思ったらしい。
だけど、その時のミステアにとってそれは大きなお世話だった。
「私はいいです。他の子を置いてここを離れるわけにはいきませんので。」
この孤児院で働く大人は年寄りばかりだ。いつ体を崩すか分からないし、そうなったら苦しむのはまだ幼い子供たちだ。それを放って孤児院を出るなんてミステアにとっては有り得ない事だった。
「そうか、ならしょうがねえな。だから無理だって言ったんだがよ。」
頭をかきながら、困ったように男はそう言った。もうちょっと粘られると思っていたから、拍子抜けでミステアは驚く。
「俺は無理って言う奴にやれ、なんて言わない主義でな。お前がどうしても行きたくねえなら強制するつもりはない。」
ただ、と男は言葉を続ける。
「一つだけ、年長者らしくアドバイスをしてやろう。これを聞いて、一晩じっくり考えてみて、それから決めると良い。」
男の人生は何も順風満帆というものではなかった。多くの人に負けた、多くの人の悩みを見た、多くの葛藤を得た。だからこそ、未だ動乱の中にあるポーロル大陸まで足を伸ばしたのだ。自分を見つける為に。
「人生にはいくつもの安定した選択がある。危険な確率が低かったり、絶対に安全な選択が確かにある。ただ、その選択肢はいつか腐る。」
その言葉には実感がこもっている。それは、20年足らずの男の人生が辿り着いた経験則だ。
「安全な選択肢を選ぶ度にほんの少しずつ、何かを捨てていくんだ。それは誇りであったり、金であったり、時間だったりな。そしていつか、手元には何も残らなくなる。つい最近まで背中が見えていた物が、遥か遠くに行ってしまうような感覚だ。」
怖いだろ、とおどけるように男は言った。
「この孤児院に残ったとして、最初は上手くいくかもしれない。ただ、5年後はどうだ。この孤児院の経営は限界だ。俺がいくらか金を落としてもいつかは潰れちまう。」
「……だから、捨てて逃げろと?」
「いや、だからそうじゃねえって。いつかお前は、人生をかけた大博打をしなくちゃいけない。それは何年も先かもしれないし、数ヶ月先かもしれないし――明日かもしれない。決めるのはお前だ。」
男が訪れる孤児院はここだけじゃない。一つだけを救うなんて事は男にはできないのだ。だから、ここを救う人がいるとするのならば、それはここの孤児院の誰かしかいない。
何か策を練って金を手に入れるか、もっと安全で住みやすい地域に移り住むか、ここで男について行って、孤児院が潰れる前に金を稼いで守るか。どの選択をとっても失敗する危険性がある。
「あなたは、そんな大博打をした事があるんですか?」
「――いや、まだだ。偉そうに言ったが、俺は賭けから逃げたんだよ。そんな自分が嫌で、今は世界を放浪している。」
思い出すのは学園での苦く、楽しい日々だ。二人の親友と共に高め合い、その二人ともに敗れた己の姿だ。
「だけど、俺はいつか冠位に至る。ついてこなかったとしても、ラウロ・ウァクラートの名前は覚えておきな。後悔はさせねえよ。」
ラウロは、そう言って大見得を切った。
「……こう考えれば、似ているな。」
賢者の塔第48階、数が減っていく魔物たちを見ながらミステアはそう呟いた。
服は少し汚れていて顔には疲労が浮かんでいる。アルスが四天王の一人であるエダフォスを倒したのが少し前、名も無き組織に所属するシトロンが逃げ帰ったのがついさっきだ。厄介な手合だと判断して追うことはしなかった。
ミステアは無傷であるが魔力の消耗は少なくない。少なくとも、そう簡単に仕留め切れないぐらいにはシトロンは強かった。
「おお、いたいた! 大丈夫かミステア!」
少し遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえる。それは同じ神秘科のレーツェルだ。
「遅い、お前が早く来ていれば確実に仕留め切れていた。」
「その調子なら大丈夫そうだな!」
ミステアの棘のある一言をサラリと流し、レーツェルは大きな声で笑った。それを見て呆れたようにミステアは溜息を吐く。
「……お前はいつまで経っても変わらないな。」
「そりゃそうだ。俺は俺だからよ。」
学園に卒業した時からずっと、レーツェルは変わっていない。完成したと、そう言っても良い。変わらない自分をレーツェルは見つけたのだ。
「それより、下の魔力感じたか。ありゃアルスの魔力だぜ。」
「知っている。それがどうした?」
「それがって……お前、まだアルスと揉めてんのかよ。」
ミステアはレーツェルから目を逸らす。
「そろそろ認めていいんじゃないか。ずっと工房に籠もって研究をするぐらい真面目で、こんなに規格外の魔力を持ってるんだ。俺は棟梁の息子として相応しいと思うぜ。」
「……別に、認めていないわけではない。」
「それなら尚更何で、そこまでアルスと距離を置くんだよ。」
ミステアは直ぐに口を開く事もしなかった。レーツェルも、無理に聞き出そうとはしなかった。
だけど、ミステアは元々中途半端を嫌う人だ。時間が経てば己の中で答えも定まり、観念して口を開く。
「棟梁は愛する人を守る為に、誰よりも早く冠位になった。簡単な事じゃなかったのはお前も知っているはずだ。」
ラウロの妻、つまりはアルスの母親であるフィリナはリクラブリアの王族だ。一国の姫を連れ去るには、それ相応の身分が必要だった。その為に最も近かったのが冠位だったというだけの事である。
当然、簡単な道のりではなかった。共に道を歩んだ、仲の良い2人だったからこそよく知っている。ラウロの努力と研鑽を。
「あれ程の熱は、アルス・ウァクラートにはない。文字通り命を賭けて冠を掴み取ったあの後ろ姿は、もうこの世にどこにもないんだ。」
「……ミステア。」
「認められるわけがない。アルス・ウァクラートはラウロ・ウァクラートに遠く及ばない。私も、お前も、決して届かない場所に棟梁はいた。」
だからこその冠位代理、誰もがつけぬ
それはレーツェルも、十分に理解していた。
「それでも、俺は賭けるぜ。席は座られる為に存在する。いつまでも空席のままじゃ、俺達はずっと前に進めねえ。」
「もっと他に適任がいるはずだ。」
「そのいるかも分からねえ奴を探し続けて何年経つ。俺はアルスを信じた。棟梁みたいに強い目じゃなかったかもしれないけど、フィリナさんみたいに優しい目をしていた。それだけで俺にとっては、十分だったぜ。」
ミステアは目を閉じて、記憶の中に意識を落とす。思い起こすのはあの日、ラウロと共に孤児院を出て世界へ旅立った日。間違いなく人生を賭けた日だ。
あれから、正確にはラウロが死んでからずっと、ミステアは進んでいない。
「……たまには、賭けてみるべきか。」
レーツェルに聞こえないぐらいの小さな声で、ミステアはそう言った。
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