11.神の道徳
随分と久しぶりだろうか。懐かしさすら感じてしまう。
俺は沈んでいた。果てのない水の底に、ありとあらゆる物と一緒にだ。
疲れていたせいか精神が緩んでしまったんだろうか。だからあいつがこっちに干渉できてしまった。
『久しぶりだね。私の力を好き勝手に使っているようじゃないか。』
「家賃だ。俺の中に住んでいるのならそれぐらい承知しろ。」
『おかしなことを言う。家賃と言うのは同じ人に払うものだ。家に払うものじゃない。』
相も変わらず、俺のことを見下している。
それも最早仕方ないとさえ納得する。ツクモは神であるのだから、人間の尺度で測ること自体が間違いだ。
「何の用だ。」
『用はないさ。君が勝手に疲れて、不意にここに落ちてきただけ。むしろそれはこっちの台詞だよ。』
「そうかい。ならさっさと帰らせてくれ。」
『それは気に食わない。私がお前に対してどんな感情を抱いているか、知らないわけじゃないだろ。』
要は、馬鹿にしに来たということか。相変わらず俺と同じく、性格が悪い。
『それに、疑問ができた。君らしくもないことをしているな、とね。』
「……?別にいつも通りだろ。」
『私の知っている君は、もっと盲目的だ。自分の思う正義の為に、見知らぬ人間のために最善を尽くそうとする。』
そうだったろうか。個人的にはあまり釈然としない。
俺は自分のことを劣悪な人間だと思っているし、正義なんていう言葉が似合うとも思っていない。見知らぬ人間の為に命をかける、というのは本当かもしれないけど。
それだって、過去のトラウマが大きい。俺は救いたいから救う、なんていう生粋のヒーローではない。
『君が抱えてる問題を、一気に解決できる手段を教えてあげようか。』
「……聞くだけ聞いてやる。」
『ストルトスを殺せばいい。そうしたら全て上手くいく。』
その言葉がこの世界に響いた瞬間、その瞬間が、永遠に切り取られたように長く感じた。
背筋に、べっとりと汗がこびりつく。
「……無理だ。そのために、ディオが雇われている。」
王城にいた巨漢の男。アレはきっと、俺より強い。俺がそういう手に出るかもしれない一手を読んでだろう。
『何を恐れる。あれは魔法使いじゃない。護衛には向かない戦士だ。隙を見て殺すぐらいわけないはずだろう。』
「それでももし、失敗してしまったら――」
『それは言い訳だ。それに自身でも理解できているはずだ。君が最高速を出せば、地球上のどの生物でも、君には追いつけない。むしろ暗殺は、君の得意分野と言っていい。』
頭の中で必死に言い訳を考えようとしている。そんな自分がいるのに気がついた。
俺がそれをしないのは、考えすらしなかったのは、論理的な理由がないということを、心の奥底で理解していたのだ。
「人は、殺したくない。俺にはまだ、その勇気がない。」
本音だ。きっと如何に悪人でも、殺せば永遠にその感覚は残る。一度話した者が、物に成り果てる感覚に、俺は絶対に耐えきれない。
『なら連れ去って幽閉してしまえ。事が済んだら開放すればいい。』
ツクモは俺が逃げることを許さない。俺の甘い考えを理解しているのだ。
どこまでも嫌な奴だ。
こうやって俺を追いやって、あわよくば精神的に壊す。それがこいつの目的なのだ。ただ、間違ってもいない。
「……できれば、理解して、ストルトスには引いてもらいたい。乱暴な手は取りたくない。」
『何故だ。奴は何十年来の親友か? それとも心血注いで自分を育てた父母か? 違うだろ。情を抱く理由はない。』
「お前には、血縁なんてものはないかもしれないからわからないかもしれないが、人にとってそれは重要なことなんだよ。」
『ああ、私には理解できない。家族というのは他人だ。私にそういうものがあったとしても、邪魔であるのなら迷いなく殺すであろうな。』
神の尺度は、当然ながら人間とは違う。だからこそ絶対に、俺はこいつと分かりあえない。
ただ、こいつの発言は間違いなく正論ではあるのだ。人と道徳観が致命的に差異があるだけで、狂っているわけでも、頭がおかしいわけでもない。
だからこそ、ツクモの言葉は俺に現実を突きつける。
『君や人間は、本当に愚かだ。群れなくては生きられない癖をして、個人の利益を追求し、そして遂には滅ぶ。あんな群れを乱すだけの存在など、捨てれば良い。不要なものは淘汰され、有用なものだけが残る。それが世界だ。腐ったものを残せば周りまで腐ってしまう。』
「……お前には、わからないさ。」
『そうやった理解への拒絶こそが、人を腐らせるのだよ。そうやって諦めるからこそ、君は人形から前へ進めない。』
本当はわかっている。この国の人間ではない、俺が、グレゼリオンの後ろ盾を持つ俺が、ストルトスをどうにかできる唯一の人間なのだ。
だが、少なくともこいつの前でそれを認めるわけにはいかない。
いくら今は力を失っていても、こいつは俺の体を一度乗っ取った。こいつに隙を見せ続ければ、魂が揺らいでしまって、また体を奪われてしまう。
『もし、君ができないのであれば、代わりに私がやってあげよう。完璧に終わらせてみせるとも。』
「却下だ。絶対に体を返さないだろ、お前。」
『心外だな。まだ私は何もしていないじゃないか。全て未遂で終わっている。』
こいつに任せれば大抵のことは間違いなく上手くいく。だが、何があってもこいつは信用してはいけない。
もしそれに頼る時が来たとしても、最終手段でなくてはならない。
『……おや、そろそろ限界か。』
俺の体が浮き上がり始める。水面に辿り着けば目が覚めるだろう。
「この国は、俺がなんとかする。なんとかしてみせる。だからお前の出番はない。黙って寝てやがれ。」
『できるのならやるがいい。私はそれを見ていよう。君の人生は、見ている分には面白い。特に君が苦しみもがく様は、最高のエンターテインメントさ。』
「趣味が悪いな。」
『君にだけには言われたくないよ、道化師みたいな生き方をしている君にはね。』
道化師でいいとも。俺の夢を成せるのなら、誰の手の上でも踊ってやる。手の上に収まらないぐらい熱烈にな。
『また会おう、アルス・ウァクラート。次は当分先だろうが、その時には私がお前の体を貰う。』
「お前にやる体はどこにもねえよ。母親に誓ってな。」
俺は、水面から弾き出た。
目の前には天井が広がる。既に窓の外からは光が消えて、夜になったことがわかった。
部屋に張られた結界を解除して、体を伸ばす。
アースに色々と相談せねばなるまい。ツクモがやったことをやるにも、情報を引き出した後だ。それまでは知略戦が主となる。
「ああ……帰りたい。」
王城にて一人で、そんな本音をこぼした俺を、誰が責められるだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます