第15話 二人乗りオートバイ事件

「ところでみちるちゃんにわざわざ来てもらったから、喫茶店にでも寄って冷たいものでも飲もうか?」と立花先生が言った。


「いいんですか、お仕事中に?」と私が聞くと、


「大丈夫、大丈夫。大学の研究室ってね、急ぎの仕事がなければ割と自由なんだ」と立花先生が答えた。


みちるさんはいい?」と私が聞くと、みちるさんはうなずいてくれた。


三人で医学部棟を出て、近所の喫茶店に入る。メニューを見て、立花先生はアイスコーヒー、私はアイスレモンティー、みちるさんはクリームソーダを頼んだ。


「今日は研究室のインスタントコーヒーじゃないんですね?」


「島本刑事にはお世話になっているからね。・・・島本刑事は家ではどんな様子なんだい?」と立花先生はみちるさんに聞いた。


「帰宅するのは夜遅いことが多いですし、大きな事件が起きると帰って来ないこともあります。母さんや私が作った夕食が無駄になることもしょっちゅうですけど、気にしないようにしています」


「刑事は忙しいからね。心配だろうけど、多分浮気する暇はないよ」


「そうでしょうか?」とみちるさんは言って私の方を見た。まだ疑っているのかな?


「僕たちと食事をした時だって相談事があったから時間を作っただけで、浮気をする暇があったら家で休みたいんじゃないかな」


「とりあえずその件については納得したことにします。」とみちるさんがとうてい納得していないような顔で言った。


「ところで、立花先生にお会いできたので、相談したいことがあるんです」


「僕にかい?」


「はい。ほんとうは父さんに相談しようと思っていましたけど、今回の疑惑の件があってなかなか相談できなかったんです」


「相談内容って法医学的な問題かい?」


「まあ、そうです。聞いていただけますか?」と言ってみちるさんはメモ帳を取り出した。


「役に立てるかわからないけど、聞いてみるよ」


「実は私の友だちのお兄さんが起こした交通事故のことです。そのお兄さんは今二十一歳の大学生で、去年オートバイを購入しました。もちろん免許は持っています」


「それで?」と促す立花先生。


「数日前の夜に友人どうしの飲み会があって参加したのですが、友だちのお兄さんはオートバイに乗って来たので飲酒はせず、食事だけしていました」


「交通標語の『飲んだら乗るな!乗るなら飲むな!』を守るいいお兄さんだね」


「その飲み会がお開きになった時、お酒を飲んでいたお兄さんの友人が『オートバイで家まで送ってくれ』とお兄さんに頼んだんです。お兄さんは快諾し、その友人と二人乗りをして帰って行きました。そして帰る途中で交通事故を起こしたんです」


「飲酒運転はしてなかったんだね?どんな事故だい?」


「交通事故の目撃者がいました。タクシーの運転手です。その人が運転するタクシーの前をお兄さんとその友人が二人乗りをしているオートバイが走っていました。最初は普通に直進していましたが、Y字路にさしかかって斜め右に進む時にオートバイが急に蛇行運転を始めました」みちるさんはメモを見ながら説明した。


「左右に大きく揺れ出したんだね?」


「はい。・・・後に乗っていた友人はお兄さんの腰に抱きついてましたが、オートバイから落ちるんじゃないかと思うほど体が左右に大きく揺れていたそうです。そしてオートバイは歩道側の縁石に衝突し、お兄さんと友人は路上に放り投げられました」


その事故の状況を聞いて私は息を飲んだ。


「タクシーの運転手はすぐに停車して救急車を呼びましたが、救急車到着時に友人は既に死亡しており、お兄さんは今なお意識不明のまま入院しています」


「事故の目撃者がいるんだね?なら状況は明らかで、問題はないんじゃないのかい?」


「警察の取り調べに対して、タクシーの運転手はオートバイで蛇行運転をしたことからお兄さんは飲酒運転をしていたんじゃないか、と言ったんです。飲み会に参加していた他の友人たちは、お兄さんは一滴も飲んでいなかったと証言しているんですが、その友人たちは飲酒していたので、酔っぱらってお兄さんが飲んでいたのに気づかなかったんじゃないかってあの人たちは言うんです」


「あの人たち?」


「死亡した友人の親族です。お兄さんが飲酒運転したために友人が死亡したので、賠償請求すると息巻いています」


「飲酒していたかどうかは血液中のアルコール濃度を測ればわかるけど、お兄さんは調べられてないのかい?」


「はい。お兄さんはすぐに緊急手術を受けて入院しました。その間に血液をアルコール検査用に採取するということはしなかったようです」


「亡くなった友人は解剖されたのかい?」


「はい。都立医大で司法解剖され、死因は頭部打撲による脳挫傷、アルコール濃度は血液一ミリリットルあたり一・六ミリグラムだったそうです」


「オートバイは車と違って運転者の周りをフロントガラスや屋根ルーフやドアで囲まれていないから、容易に投げ出されて地面に転落し、頭部を打撲しやすいんだ。ヘルメットの有無が生死を分けることがある」


「二人ともヘルメットをかぶってなかったそうです」


「ヘルメットをかぶらずにオートバイに乗ってもいいんですか?」と私は立花先生に聞いた。


「昭和四十年に高速道路でのヘルメット着用努力義務が道路交通法に追加されたけど、昭和四十四年現在、一般道での規制はまだないんだ。近い将来義務化されると思うけどね」と立花先生。


「お兄さんの場合、運転していたお兄さんよりも同乗していた友人の方がより重傷だったんですね?」


「高速で走るオートバイが障害物に正面衝突すると後輪が跳ね上がるんだ。オートバイの二人乗りはシートに前後に並んで座るから、後に乗っている同乗者の方がより高く放り投げられ、路面により強く激突するんだよ」


「なるほど。・・・で、問題はお兄さんが飲酒していたかどうかなんですね?」と私はみちるさんに聞いた。うなずくみちるさん。


「お兄さんの友人たちの証言ではお兄さんは飲んでいなかった。ただしその友人たちは飲酒していた。タクシーの運転手の目撃では事故直前にオートバイが大きく蛇行していたので飲酒運転を疑われた。タクシーの運転手は飲酒しておらず、しかも事故の直前に蛇行運転を目撃していたから、このままだとタクシーの運転手の証言が確かなものとされてしまいますね?」


「そうだね。だけどお兄さんの無実を証明するためのアルコール検査は行っていなかった。何日も経てば、血中のアルコールは代謝されてなくなってしまうから、今お兄さんの血中アルコール濃度を測っても何の証明にもならない」


私たちの言葉を聞いてみちるさんは落ち込んだ。


「亡くなった人はもちろんお気の毒ですけど、その親族に私の友だちの家族が責められて、友だちも気落ちしてるんです。お兄さんが飲酒してないことがわかれば、責められることはなくなると思ったんですけど。・・・無理みたいですね、ありがとうございました」うなだれるみちるさん。


「ちょっと待って、みちるさん」と私は彼女が結論を出すのを止めた。


「立花先生、お酒を飲むとどのようになるか教えてもらえますか?」


「え?ああ、わかった。


 血中アルコール濃度が一ミリリットルあたり〇・五ミリグラム以上になると顔が赤くなり、陽気になっておしゃべりになる。


 一・〇ミリグラム以上で判断力が低下し、気が大きくなって大声を出し始め、立てばふらつくようになる。


 一・五ミリグラム以上で作業能力や反射能力がより低下し、歩けば千鳥足になるし、話そうとしてもろれつが回らない。吐くこともある。


 二・五ミリグラム以上で動けなくなり、眠りがちになる。


 三・五ミリグラム以上で昏睡状態となり、体温が低下して、放置すれば死ぬ危険がある。


 四・五ミリグラム以上で心不全、呼吸不全を起こして死亡する、と言ったようにアルコール濃度に応じて症状が変わるんだ」


「アルコールをたくさん飲んだら死亡するのはなぜですか?」


「アルコールは中枢神経、つまり脳を抑制する作用があるんだ。アルコール濃度の上昇とともに脳の機能が抑制され、最終的に脳幹というところにある循環中枢や呼吸中枢が抑制され、心拍や呼吸が止まって死ぬんだ」


「お酒を飲み始めるとたいてい興奮しますよね?アルコールには興奮作用はないのですか?」


「アルコールは脳の高度な機能から抑制していくんだ。脳の一番高度な機能って何だと思う?」


「大脳による思考能力ですか?」


「思考能力、判断能力を含めた『理性』だよ。お酒を飲むとまず理性がなくなるから、普段はおとなしいまじめな人が騒いだり、破廉恥行為や犯罪行為を犯したりするようになるんだ」


「なるほど。理性が抑制されると、見た目は興奮しているように見えるんですね?」


「そういうこと」


「それが何の意味があるんですか?」とみちるさんが口をはさんだ。


「まさか、お兄さんが少しだけ飲んでしまって、理性がなくなって飲酒運転をしたって言いたいんですか?」


「そうじゃないよ」と私はみちるさんに言った。


「ただ、アルコールの作用について教えてもらっていただけよ。そしてそのお兄さんが事故を起こした理由が何となくわかってきたわ」


「ええっ!?」「えっ?」立花先生とみちるさんが同時に聞き返した。


「お兄さんが飲酒運転を起こしていないって証明できるんですか?」


「証明とまでは言えないけど、飲酒運転の根拠を薄弱にできるかも」


「どういうことだい?」


「お兄さんは友人たちの証言では飲酒していませんでした。しかしタクシーの運転手は、お兄さんが運転するオートバイがY字路を右斜め前に緩やかに曲がる時に急に蛇行運転するのを見ました。そしてお兄さんの後に乗っていた友人の体が左右に大きく揺れました・・・ですね?」


「そうだね。みちるちゃんの話を聞いたところでは」


「ここで気になったのが、友人の体が左右に大きく揺れたのは蛇行運転が始まる前か後かということです」


「ええっ!?」「えっ?」立花先生とみちるさんがまた聞き返した。


「少なくとも友人は飲酒していました。アルコール濃度は血液一ミリリットルあたり一・六ミリグラムでした。この濃度は、立花先生の説明では、歩けば千鳥足になる濃度です」


「そうだね」


「友人は酔っていたため、オートバイが右斜め前に曲がる時の横向きの力で体が揺れました。その時、友人は千鳥足と同じように体を左右に揺らし始めたのかもしれません。お兄さんにしっかり抱きついている状態で体を揺らしたので、お兄さんは正常な運転ができなくなり、友人の揺れに引きずられて蛇行運転になってしまったのかもしれないです」


「なるほど。運転していたお兄さんは酔ってなくても、酔っていた友人が不用意な動きを始めたためにハンドル操作が妨げられたのか!」と立花先生が叫んだ。


「もちろんそれを証明することはできませんが、法医学者がそう言うことが起こり得ると証言すれば、お兄さんが飲酒していたという根拠であるタクシー運転手の証言は不確実になります。その結果、お兄さんの友人たちの『飲酒していなかった』という証言の方が確実視されるでしょう」


「そうか。じゃあ、みちるちゃん、お父さんに言って交通課の方から有田教授にでも話を持って行って、そういう可能性があることを証言してもらおうよ。そしてお兄さんが意識を取り戻して、『友人が体を揺らしたせいで運転を誤った』と供述すれば、飲酒運転の疑いは晴れるかもしれない!」と立花先生が力強く言った。


「はい!帰ったらすぐに父さんに頼んでみます!」とみちるちゃんはにこやかに言った。


後日、お兄さんが意識を取り戻し、上記のことを警察に供述したと立花先生から聞いた。


さらに、事故が起きる直前に信号で停止していた時に、お兄さんは警察官に職務質問されたそうだ。


二人乗りしている友人が酔っぱらってふらふらしていたので、飲酒運転を疑われたようだ。しかし息をふきかけてアルコール臭がしなかったので、お兄さんは警察官から解放され、その直後に事故にあったそうだ。


職務質問をした警察官の証言により、お兄さんの飲酒運転の疑いは晴れるようだ。


「酒酔い運転の罰則を定めている道路交通法は、九年前の昭和三十五年にできたばかりなんだ。昭和三十九年、つまり五年前には東京オリンピックの開催に先駆け、国連のジュネーブ道路交通条約に加盟した。それに伴って道路交通法も一部改正され、酒酔い運転の罰則が重くなったんだ。その流れを受けて警察官は飲酒運転に厳しい目を向けるようになってきたから、お兄さんは飲酒運転をしていなかったけれど、たまたま酔った友人を見た警察官に飲酒運転の疑いをかけられ、職務質問された。そのことが結果的には良かったけど、友人の命はもう取り戻せない。お兄さんも後遺症が残らずに治ればいいね」と立花先生が言った。


「そうですね。オートバイに乗る時には運転者も同乗者もヘルメットの着用を義務づけるとか、同乗者も飲酒してはいけないとか、法律をもっと厳密にすべきかもしれませんね」


「事故や事件が起こらない社会になればいいね。もっともそうなれば、僕らも警察も仕事がなくなるだろうけど」と立花先生が笑いながら言った。

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