第13話 夫婦喧嘩殺人事件
五月の半ばになって私はまた島本刑事と立花先生から夕食の招待を受けた。
前回と同じように医学部棟の入口で落ち合い、先日行った同じ小料理屋に連れて行かれた。
「悪いね、一色さん。また意見を聞きたくてね」と島本刑事が私のコップにオレンジジュースを注ぎながら言った。
「また娘さんのことですか?それとも新聞に載っていた事件のことですか?」と私は聞いた。新聞に載っていた事件というのは、一週間ほど前にある会社員が自宅で包丁で刺し殺され、その妻が事情聴取を受けているという事件だった。
「その事件のことだよ」と島本刑事に言われて私は驚いた。
「まだ捜査中の事件ですよね。私に話して大丈夫ですか?」この前の焼死事件は、もう捜査を終える時点での相談だった。しかしこの事件は、まだ犯人の逮捕に至っていないので、捜査情報を私のような第三者に話して問題にならないかと危惧された。
「もちろん上司や他の刑事には内緒だよ。でも一色さんは信頼できるし、何かしら参考になることを言ってもらえると期待して相談に来たんだ」と島本刑事。
「法医学教室の関係者ということにしておけば問題ないよ」と立花先生も言った。
「それならお聞きします。お役に立てるかわかりませんが」
「お願いするよ。まず、事件の概要を話そう」
島本刑事の説明は、当然のことながら新聞記事よりも詳しかった。
被害者は三十五歳の会社員で、普段から頻繁に浮気をしていた。浮気の相手は職場の同僚、取引先の職員、飲み屋の姉ちゃんなど手当り次第で、独身女性もいれば既婚者もいた。特定の相手との長い付き合いはせず、関係は一回かせいぜい二回程度だった。妻はそのことを以前から知っていて、夫との喧嘩が絶えなかったらしい。
一週間前の午後八時頃、住宅街にある一軒家の自宅から一一九番通報があった。夫(被害者)が血まみれで倒れて息をしていないということで、すぐに救急車が現場に到着したが、遺体の状態から助からないと判断して搬送はしなかった。現場には両手に血が付いた妻が立ち尽くしており、救急隊員はすぐに警察に通報した。
被害者は居間に仰向けで倒れていて、左胸にその家で使っている文化包丁が刺さっていた。包丁の柄には布巾が巻き付けられ、包丁の刃は被害者の頭の方を向いていた。
妻は、夫の浮気で喧嘩をして五日前から実家に帰っていた。妻は両親に『離婚なんて体裁が悪い。夫ともう一度話し合いなさい』と説得され、自宅に帰って来たところ、夫が上記の状態で死亡していた。
「妻が夫を殺害したのかもしれませんが、夫が浮気相手ともめて刺されたのかもしれませんね。浮気相手は全員わかっているのですか?」
「そこは聞き込み捜査を続けているところだ。何人かは浮気を認めているが、それで全員かはわかっていない」と島本刑事。
「所轄警察署に捜査本部が置かれて捜査を続けているけど、妻が犯人と目星をつけて裏付けとなる証拠、証言を探しているところなんだ」
「目撃者はいましたか?」
「ひとりいる」と島本刑事が言って私は驚いた。
「なら、妻が犯人で確定ですか?」
「その目撃証言だけどね・・・」と島本刑事が説明を続けた。
目撃者は、現場の家の向かいにある喫茶店の窓際の席に午後七時過ぎから座って軽食を食べていた客で、午後七時半頃に現場の家からワンピース姿の女性が出て来るのを見た。手に風呂敷包みを持っていたように思うが、街灯が近くにあったものの窓越しにちらっと見た程度なので、はっきり覚えていなかった。そして八時前に同じような服を着て風呂敷包みを手に抱えた女性が家に入って行った。その後すぐに救急車が来て、まもなくパトカーも来たという話だった。
「だから捜査本部では七時頃に実家から帰って来た妻が夫を口論の末殺害し、いったん外に出て、八時頃に初めて帰って来たふりをしたのではないかと考えている。喫茶店の窓際に客がいるのに気づき、偽装工作をしたんじゃないかと」
「家を出て行った女性と帰って来た女性は同じ人で、同じ服を着て、同じ風呂敷包みを抱えていたのですか?」
「そのあたりははっきり覚えていないそうだ。注意深く観察していたわけではなく、視界の片隅に入った程度だったらしい。ただ、別人とも断定できないと言葉を濁していた」
「その風呂敷包みは?」
「警察が来た時には居間の入口あたりに落ちていた。中には妻の着替えと、実家で作って持って来た弁当が入っていた」
「妻が実家を出た時刻から、おおよその帰宅時間がわかりますか?」
「まっすぐ家に帰れば午後七時前には帰宅できたはずだ。しかし妻本人は、実家に戻っていた手前、夫が待つ自宅に帰りづらく、一時間近く住宅街を歩き回っていたそうだ。それを証言する目撃者は見つかっていないけどね」
「なぜ凶器の包丁の柄に布巾を巻いていたのでしょう?犯人が妻以外の人物で、指紋を残さないためですか?」
「妻が犯人だとして、第三者の指紋が付いてなければ自分が疑われるから、一色さんが言ったように犯人は別人だと思わせるための偽装工作かもしれない」
「状況からは妻が犯人だとも、そうでないとも、断定できないんですね?妻の体には夫が刺される前に抵抗してできた傷や痕跡はなかったのですか?」
「その点に関しては僕が司法解剖の結果を教えよう」と立花先生が言った。
「被害者の後頭部には頭皮内出血があった。いわゆる『たんこぶ』だね。頭蓋骨や脳には異常はなかった。だから喧嘩している時に、何かの拍子で被害者が後方に転倒し、床で後頭部を打ったと考えられた。もしその時脳震盪を起こして気絶したのなら、抵抗されることなく犯人は包丁を刺せたと思うよ」
「なるほど。台所から包丁を持って来て、柄に布巾を巻く余裕があったということですね?」
「そう。そしておそらく犯人は被害者の体に馬乗りになって、包丁を
「
「包丁の普通の持ち方が順手。柄を握って親指の側に刀身が来る持ち方だね。そして
「なるほど。・・・刺し傷は一か所でしたか?」
「いや、二か所だった。一か所は左胸の肋骨に刺さって止まり、心臓や肺には達していなかった。もう一か所は肋骨と肋骨の間を貫いて、体内で心臓に突き刺さっていた致命傷だ。発見時には二か所目の刺創に包丁が刺さったままだったんだ。・・・ただ、妙なことがひとつ」
「何でしょうか?」
「二か所目の刺創は包丁の刃が上向き、つまり被害者の頭の方を向いている状態で刺さっていた。しかし一か所目の刺創は、刃が下向き、つまり足の方を向いていたんだ」
「包丁が刺さっていなくても、刺した時の刃の向きはわかるのですか?」
「うん。包丁のような片刃の刃物を突き刺すと、その傷口は細長い
「ということは、最初は刃を下向きにして刺したけど、
「そういうこと。その理由がわからないんだ」
「凶器の文化包丁というのは普通の包丁ですか?」
「そうだよ。刃渡りが十七センチくらい、刀身の幅が四センチ余りの、一般の家庭で使われているような包丁だよ」
「左胸の二か所の刺し傷は、その包丁で刺されたと考えられるのですね?」
「二か所目の刺創にはその文化包丁が刺さっていた。一か所目の肋骨で止まっている傷は浅いから、刺した刃物の大きさはわからないけど、先が
「別の凶器を使ったと考えているのかい?」と島本刑事が聞いた。
「いいえ、そういうことを考えているのではありません。同じか、同じような刃物を使ったということが知りたかったのです」と私は答えた。
「何かひらめいたんだね?」
「はい。文化包丁を刃を下向きにして逆手で持つと、刃の手元側の角、いわゆる『あご』が手のひらの小指側の近くに来ます。『あご』は、ジャガイモの芽を取る時に使う刃先です。
その状態で包丁を左胸に突き刺し、肋骨に当たって止まったとしたら、柄を握っている手が滑って『あご』が犯人の手のひらに刺さります。柄の部分に布巾を巻いていると、余計に滑りやすくなるでしょう。
犯人の手のひらが傷つきましたが、まだ夫に致命傷を与えていません。でも、同じ持ち方でもう一度刺せば、さらに手のひらを傷つけるでしょう。そこで二か所目を刺す前に、刃の向きを上向きにしたのです。この場合、『あご』の上の部分が小指に当たるかもしれませんが、そこには刃は付いていないので、けがをする可能性は低いでしょう」
「なるほど。・・・ということは!?」と言って島本刑事が身を乗り出した。
「犯人は右の手のひらを負傷している可能性があります。被害者の妻の手に血が付いていたと言われましたが、けがをしていたのでしょうか?」
「いや、両手の血は夫の体に触った時に付いたもので、手を洗った後の手に傷はなかった」
「浮気相手の中に手のひらに傷がある人がいたなら、その人が犯人である可能性が考えられますね」
島本刑事はがばっと立ち上がった。「電話をしてくる!君たちは食事を続けてくれ!」
そう叫んで個室をあわただしく出て行った。
「なるほど。・・・包丁で刺した犯人自身がけがをするなんて思いつかなかったな。よくわかったね」と立花先生がビールをすすりながら言った。
「先日の焼死の事件のお話で、強い力を加えないと刃物が体に深く刺さらないって教えていただいたことを思い出して考えついたんです」
「今度は僕の方が勉強になったよ」
その時個室のふすまが開いて、この店の仲居さんが顔を出した。
「お連れ様はお帰りになりました」
「ええっ〜!?」驚く私と立花先生。
「お支払いはお済みですので、お二人はごゆっくりお召し上がりください」そう言って仲居さんはふすまを閉めた。
「またごちそうになりましたね」
「もし君の推理で犯人を捕まえることができたなら島本刑事の手柄になるから、気にせずにごちそうになろう」
立花先生がそう言って、二人で三人分の料理をいただいた。
後日、島本刑事から聞いた話では、右の手のひらをけがしていた職場同僚の独身女性を連行して事情聴取したところ、犯行を自供したとのことだった。
「本人が言うことには、死亡の一月前に被害者と関係を持ったけど、その後相手にされず、やきもきしていたらしい。そんな時に本人の自宅の郵便受けに切手の付いてない封筒が投函されていた。中の手紙は被害者からで、『お前は最低だった。二度と誘わないから、職場で近づくな』というような、かなりひどい内容が書いてあった。
そこでかっとなったその女性は被害者の自宅に乗り込んで口論したらしい。元々激昂しやすい性格だったようだね。もみ合っているうちに被害者が転んで気を失ったので、明確な殺意を持っていた女性は台所にあった包丁の柄に布巾を巻いて持ち出し、一色さんが推理したように刺したと言っている」と島本刑事が説明してくれた。
「刺した時に服に血が付いたので、その家にあった妻のワンピースに着替え、血が付いた自分の服を風呂敷に包んで逃げ出したらしい」
「それでたまたま奥さんと同じような服装で、同じように風呂敷包みを抱えていたので、奥さんが疑われたのか」と立花先生。
「布巾や家の中からは犯人の指紋は検出できなかったけど、凶器の包丁の『あご』の部分についていた血痕の血液型を調べたら、被害者とは異なり、その女性の血液型と一致したよ」
「でも、なぜその女性の家に神経を逆撫でするような手紙を投函したのでしょうね?」と私は疑問を口にした。
「え?・・・それは手っ取り早く関係を絶つためじゃないのかい?妻としょっちゅう喧嘩していただろうから」
「関係を絶つためなら、むしろ接触を極力減らして自然消滅を図る方がもめ事が少なくて良いのではないでしょうか」
「そ、それは・・・。どう考えたらいい?」と島本刑事は立花先生に聞いた。
「僕がわかるわけないよ。なぜ被害者は、浮気相手にそんな手紙を送ったのかい?」
「もし夫からの手紙でなかったら?」
「え?」
「もめればいいなと思って、最近の浮気相手に奥さんが手紙を送ったのかもしれません。自分は離婚したくても、親に止められ、我慢を強いられることだったでしょう。そこで、せめて喧嘩にでもなればいいと思って、その手紙を書いたのではないでしょうか?・・・もちろん、夫が殺されるとまでは想像できなかったでしょうが」
「じゃあ、妻がまるっきり犯行と無関係というわけではないんだね?」と立花先生。
「下手をすれば自分が犯人として逮捕される可能性もあった。一色さんの推理で解放されるまで、気が気でなかったことだろう」と島本刑事も言った。
「まさに『人を呪わば穴二つ』だね」と立花先生。
「さんざん浮気していた夫は因果応報だけど、奥さんは後悔しているのかな?」
「そうかもしれませんね。夫婦の仲は他人には窺い知れませんから」と私は言った。
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