第12話 焼死体刺殺事件
立花先生、島本刑事、浜田さんと一緒に駅前の喫茶店に入る。奥のテーブルに四人で座り、飲み物を注文すると、さっそく立花先生が話しかけてきた。
「一色さん、追いかけて来たみたいでごめんね。君が帰った後、島本刑事から突然電話がかかってきたんだ。君の知恵をどうしても拝借したいってね」
「そうでしたか」
「連休明けまで待つように言ったんだけど、どうしても早く意見を聞きたいと請われてね。君からこの町の中華料理屋が実家だと聞いたことを思い出して、駄目元でここまで来てみたんだ。まさかすぐ会えるとは、予想だにしてなかったよ」
「私もびっくりです」と私は答えた。
頼んだ飲み物が運ばれて来る。立花先生と島本刑事はホットコーヒー、私はミルクティー、浜田さんはミルクセーキだ。
「じゃあ、さっそく説明するよ。飲みながら聞いてくれ」と島本刑事が言って警察手帳を開いた。本物を見るのは初めてだ。
「被害者は七十歳代男性、木造の平屋で一人暮らしをしていた。その自宅で数か月前に火災が発生し、焼け跡のがれきの下から遺体が発見された」
遺体という言葉を聞いて私は息を飲んだ。探偵小説で人が死ぬ描写はよく読むが、現実のこととして話を聞くのはちょっとした衝撃だった。
「遺体は黒焦げ状態だったが、左胸にノミが深く刺さっていたんだ」
「ノミというのは大工道具の
「そう。ちなみにその人は大工さんではなかった。昔も今も」
「じゃあ、その人は焼死でなく、誰の物かわからないノミで胸を刺されて殺害されていたんですか?」と浜田さんが尋ねた。
「いや。死因は焼死で、死後、胸にノミが刺さったということが解剖で判明した」
「刺されたのが生前か死後か、わかるのですか?」と聞く浜田さん。
「生きている時にけがしたら出血するよね?それは心臓が動いていて、血管の中を血液が流れていて、血管の傷ついたところからどんどん血が出て来るからなんだ。ところが死後は心臓が止まっているから、死んだ後に血管が傷つけられても、その血管内に元々あった血液がわずかに漏れ出すだけで、生きている時のような量の出血は生じないんだ」と立花先生が説明した。
「ということは、胸にノミが刺さっていたのに、出血してなかったんですね?」と私は聞いた。
「そう。ノミは体内で肺を貫いていたけど、目立った量の出血はなかったんだ。体の中は焼け残っていたから、出血があればすぐにわかるんだ」
「焼死の鑑定はどうなされるのですか?」
「火災現場では炎が燃え上がり、同時に大量の黒煙が発生する。その黒煙の中には、不完全燃焼で発生する一酸化炭素が高濃度含まれているんだ。火災現場に人がいれば皮膚にやけどが生じるけど、やけどはその程度によって四段階に分けられるんだ。
まず、皮膚が赤くなり痛みが生じる紅斑性熱傷、水ぶくれが生じ、やはり痛みが強い水疱性熱傷、皮膚の細胞が死んでしまい、痛みを感じなくなる壊死性熱傷、そして黒焦げになる炭化性熱傷の四段階さ。このうち、死体を焼いても生じないのは紅斑性熱傷と水疱性熱傷なんだ。
この火災の被害者は仰向けで倒れていて、体の前面は真っ黒に焦げていたけど、床に接していて焦げなかった背中には、紅斑性熱傷と水疱性熱傷が認められたんだ」
「なるほど、生きている時にしか生じないやけどが認められたんですね」
「そして気管内・・・のどから肺に通じる管の中には大量の煤が付着し、血液からは一酸化炭素ヘモグロビンが検出された。これらも火災が発生した時にまだ死んでおらず、呼吸をして一酸化炭素を含む煙を肺に吸い込んだ痕跡なんだ」
「火災現場で亡くなっていた人には皮膚に赤くなったところと水ぶくれが生じており、さらに肺に通じる管に煤が付いていて、血液中に一酸化炭素が含まれていたから、火事が発生するまでは生きていた、言い換えれば火事が起こって死亡した、つまり焼死したということになるんですね?」
「そう、その通り」
「一酸化炭素はどうやって測るの?」と浜田さんが聞いた。
「死体の血液は通常は赤黒い色をしているんだけど、一酸化炭素を吸っていると鮮やかな紅色になるんだ。赤血球中のヘモグロビンに一酸化炭素が結合して一酸化炭素ヘモグロビンができるとそういう色になるのさ。一酸化炭素ヘモグロビンの濃度を測る方法はいくつかあるけど、簡単なのは濃度ごとの色に合わせた液体と血液の色を目で見て比較する方法かな?」
「それで亡くなられた方の死因は焼死と鑑定され、胸に刺さっていたノミは死後に刺されたものだとわかったんですね?そしていつどうやってノミが刺されたかわからないと・・・?」と私は聞いた。
「そういうこと。ちなみにノミも柄の部分が焦げていて、火災現場にずっとあったと思われるんだ」と島本刑事が言った。
「火災で死亡した直後に火災現場にいた別の人が刺し、すぐにその場から逃げたんじゃないですか?」と浜田さんが言った。
「いやいや、死亡した時には周囲に炎が燃え盛り、黒煙が立ち込めているんだ。そんな所にいればその人もその場で死んでしまうよ」と立花先生。
「じゃあ、鎮火した後の現場に誰かが現れて、あらかじめ焼いておいたノミを胸に刺したんじゃないですか?」と浜田さん。
「消防車が来て消火して、その後消防隊員が何人も現場に入るんだ。遺体が見つかれば警察官も臨場する。そんな所へ第三者が忍び込めるはずがない。第一、なぜ既に死んでいる人の胸をわざわざ刺しに来るんだい?その意図がわからない」
「それにいつ火事が起こるか予測できないから、焼いたノミをわざわざ用意することもできませんね」と私も言った。
「念のために聞きますが、放火ではなかったんですよね?」
「消防と警察による現場検証の結果、ストーブからの失火が原因で、放火の可能性はまずないと判断されたよ」と島本刑事。
「じゃあ、被害者が心臓が止まった時に最後の力を振り絞って、たまたま手元にあったノミを持って自分の胸を刺したんですよ。その理由は、死の苦しみを早く終わらせるため。・・・あるいは推理小説の愛読者で、捜査をかく乱させてあの世でほくそ笑むためですよ」と浜田さん。
「既に心臓が止まっているのに胸を刺して何の意味があるんだい?捜査を無意味にかく乱させようという動機もかなり苦しいね」と島本刑事。
「一酸化炭素を吸って一酸化炭素中毒に陥るとまず運動神経が障害される。死の直前まで意識があったとしても、手は動かせないよ」と立花先生も否定した。
「それじゃあもう私にはわかりません。お手上げです」と浜田さんが降参した。
「建物は、屋根も焼け落ちていたんですね?そういう現場でどうやってご遺体を捜すんですか?」と私は島本刑事に聞いた。
「まず鎮火した現場に消防隊員が入って鎮火の状況を確認するんだ。同時に被害者がいないか捜して、発見したら熱が冷めてきた現場に警察官が入って遺体の状況を調べるんだ」
「いわゆる検視ということですか?」
「そうだね。遺体を写真撮影してから、その状態を詳しく調べるんだ。ただし現場での検視が難しければ、別の場所に運び出してから検視することもある」
「遺体の状況はどうだったのですか?」
「焼け落ちた天井や屋根のがれきの下敷きになっていて、がれきを取り除いたら胸にノミが刺さっていたんだ」
「一色さんはどう考える?」と立花先生が私に聞いた。
「情報を整理しますと、火事になる前までその人は生きていた。おそらくその人の周囲には普段はノミがなかった。火事が起こってその人は焼死した。鎮火前にその人の胸にノミが刺さり、さらに遺体の上にがれきが落ちて来た。消火後、消防隊員が遺体を発見した。・・・ということになりますね?」
「そう」とうなずく島本刑事。
「火事が起こっている最中に他人が現場に入って遺体を刺して出て来ることはまず不可能と聞きました。となると、誰かがノミを刺したのではないということになります」
「人じゃないとなると、遺体の上にノミが降って来たということかい?」と立花先生が私に聞いた。
「そうです」
「どこかに置いてあったノミが偶然落ちて来て刺さった、という可能性は我々も考えたんだ」と島本刑事。
「でも、普通の家の中でノミが上から降って来るなんてことがあるだろうか?」
「新築の家の屋根裏に、その家を造るときに使用したノミやカンナを祭っておくという習慣があったと何かの本で読んだことがあります。全国で行われていたかは知りませんが、
「というと、屋根裏に祭ってあったノミが、天井が焼け落ちた時に遺体の上にたまたま落ちて来て胸に刺さったということかい?」
「そうです」
「仮に遺体の上にノミが落ちてきたとしても、深々と突き刺さるものかな?遺体を解剖した時に見たけど、力を込めて突き刺したかのように刺さっていたよ」と立花先生が疑問を呈した。
「そうですね。ノミの先端から落下し、うまく胸の表面に刺さったとしても、屋根裏の高さだとせいぜい三メートル前後ですね。どのくらいの力を込めなければ胸に深く刺さるかわかりませんが、屋根裏から落ちたくらいではそこまで深く突き刺さるほどの落下速度にはならなかったでしょうね」
「なら、どう考えるんだい?」
「ここからは私の想像ですが、ノミのすぐ後から屋根などが崩れ落ちて来て、浅く刺さったノミの上に落ち、より深く突き刺さったとか、消防隊員が現場を調べている時に、遺体に気づかずに刺さっているノミの上に落ちていたがれきを踏んだために深く刺さったとか、誤ってノミの上にさらにがれきを落として深く刺してしまったとか、そういう状況が考えられるんじゃないでしょうか?」
私はそういうと島本刑事を見つめた。
「ところで、数か月前に起こった火事とおっしゃいましたね?なぜ今頃私の意見を聞きに来られたのですか?それも連休中に、わざわざこの町まで」
「やっぱり一色さんはごまかせないね」と島本刑事が言った。
「さっき言ったように死因は明らかに焼死であると鑑定されたんだ。放火でもない。胸に刺さっていたノミは、屋根裏にあったかもしれないというところまでは考えが及ばなかったけれど、家屋が崩れた際にどこか家の中にあったノミが、たまたま遺体の上に落ちて突き刺さったんじゃないかということで、殺人事件ではないと判断して報告書を書いて捜査は終わるはずだったんだ。ただ、ノミのことがどうしても気になって個人的に被害者のことを調べていたら、隠れて高利貸しをしていたことがわかったんだ」
「お金を貸して高い利息を取り立てていたのですか?」
「そう。やむにやまれずお金を借りた人は高い利息の支払いに苦しみ、被害者を恨んでいた人が少なからずいたらしい」
「それで捜査を継続されるんですね?」
「そうしたいところだけど、警察としては一応捜査を終える事件だから、これ以上おおっぴらに捜査はできないんだ。だから一色さんの意見を聞きに来たんだ」
「私の意見ですか?」
「一色さんが何か気づいたら、その点に沿って調べよう、特に何もなければこれで捜査を打ち切ろう、と考えたんだ。報告書の〆切まで時間がないから、非番の今日、迷惑をかけるかもと思いながらも立花先生に連絡を取って、一色さんに会いに来たんだ」
「それはちょっと私のことを買いかぶり過ぎだと思いますが・・・。私は偶然の出来事と考えましたので、これで捜査は終わられるのですね?」
「いや、消防隊員の行動がノミが深く刺さった原因かもしれないという意見を聞いたから、遺体を発見した消防隊員と発見時の状況を調べなおしてみるよ」
「お休みのところ悪かったね」と立花先生が改めて謝罪した。「それから、両親がまた遊びに来てくれって言ってたよ」
「あの、私の家に寄られますか?今日は店は休みですが、昼食ぐらいご用意しますけど・・・」立花先生との仲を両親に誤解されたばかりなので、家に連れて行くことは若干ためらわれたが、誤解を解くいい機会かもしれない。
「さすがにそこまでお邪魔はできないから、これで帰るよ。ほんとうにありがとう」そう言って立花先生と島本刑事は私たちの飲み物代を払って駅に戻って行った。
「本物の刑事さんから相談されるなんて、さすがは私の一色先輩です!」と浜田さんは感激しっぱなしだった。
後日、下宿に戻ってから立花先生と島本刑事に夕食に誘われ、その後の捜査結果を聞かせてもらった。
「遺体を発見した消防隊員は、崩れ落ちたがれきの上を歩いたから、遺体の上のがれきを踏んでノミがより深く刺さったかもしれないと言っていた。ただしわざとではないと言い張っていたよ」
「そうですか」と答える私。
「ただ、その消防隊員の周辺を調べたら、懇意にしている女性が火事の被害者からお金を借りていたことがわかった。かなり厳しく取り立てられていたそうだから、その消防隊員も被害者を恨んでいたのかもしれない」
「じゃあ、被害者の胸にノミが刺さっていることに気づいて、遺体を冒涜するために、より深く刺さるよう故意に踏んだ可能性もなきにしもあらずと言ったところですね?」
「そう。だけど死体の傷を深めただけだから殺人じゃないし、状況から死体損壊罪に問えるかも難しいところだね。物的証拠も目撃証言もないから・・・」と島本刑事。
「殺人事件なら容疑者を厳しく取り調べて自供を取るところだけど、最近じゃ自供だけじゃ有罪にしにくい風潮だからね」と立花先生が言った。
「そうなのですか?」
「昭和二十年代に静岡県で発生した
「ありがとうございます。読んでみますので、よろしくお願いします」
「とにかくこれで自己満足のための捜査は終了だ。一色さんには迷惑をかけたね」と島本刑事が言った。
「いえ、殺人のような大事件でなくても、疑問点を最後まで追求する島本刑事の態度はとても立派だと思います。刑事の
私が島本刑事を褒めると、照れながらも嬉しそうに微笑んでくれた。
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