第9話 立花家白詰草事件

「玄関前に四つ葉のクローバーが置かれているんだって?」と立花先生が母親に聞き返した。


「そうなの。玄関前の石畳の脇に、毎日のように四つ葉のクローバーが一本ずつ置かれてるの」


「そんなの、近所の子どものいたずらじゃないのか?」


「私も最初はそう思ったけど、毎日のように置かれているのよ。たまに一日置きの時もあるけど。子どもがそんなにしつこくするのかしら?」


「遊びだと思っていれば、大人の想像を超えて執拗に繰り返すことがあるんじゃないか?・・・一色さんはどう思う?」


「先生が言われるように子どもの遊びもしくはいたずらの可能性もあると思います。でも、何らかの合図のために置いているのかもしれません」と私は言った。


「合図?・・・何の?」


「『アリババと四十人の盗賊』というお話では、盗賊たちが後でアリババを襲うために家の戸口に印を付けます。押し売りとか空き巣狙いとかが、カモになりそうな家の玄関に何らかの印をつけて同業者に知らせるという可能性も考えておかなければならないでしょう」


「まあ、恐ろしい!」と叫び声を上げる立花先生の母親。


「押し売りが来たり、空き巣に入られたりしたことはあるの、母さん?」


「そんなことはありませんわ!」


「でも、自分で言ってなんですが、その可能性は低いと思います。目印なら表札とか玄関の隅にこっそり付けておけばいいわけですから。風に吹かれたり枯れたりしてなくなりそうな四つ葉のクローバーを目印にするのはおかしいですし、しかも毎日のように四葉のクローバーを置くような手間をかけるとは考えられません」


「それもそうだね」と立花先生が言って、母親はほっと胸をなで下ろした。


「それに四つ葉のクローバーは幸運の象徴ですから、災いをもたらすというよりは、この家に幸運を呼び寄せる意図で置かれたと考える方が自然ですね」


「我が家に幸運を?・・・それはありがたい話ですが、誰がそんなことを?」と母親が聞いた。


「考えられるのはこの家に恩義を感じておられる方でしょうか?心当たりがありますか?」


「看護婦や主人の仕事の関係者はこちらではなく診療所の方に出入りしてますから、普段この家に来るのは、私たち家族を除けば節子さんくらいですわね」


「先ほどの方ですね?・・・節子さんとはどういう方ですか?」


「元々は近所に住んでおられて、正樹や一樹の幼馴染のお嬢さんでしたのよ。お父様は会社の重役をしておられて、昔は裕福に暮らしておられましたわ」


「昔は、ですか?」


「ええ。数年前に大きな借金をされて、ご両親は夜逃げをするように出て行かれたの。その直前に、娘の節子さんについては、我が家でお手伝いさんとして雇っていただけないかと頼まれたので、うちで引き受けたのよ」


「節子さんは喜ばれましたか?」


「最初は感謝していましたわ。地方に流れて貧しい暮らしをしなくてすんだと。・・・今では家事をきっちりしていただいてますし、このまま正樹か一樹のお嫁さんになっていただけたらと思ってますの」


「な、な、な、・・・急に何言ってるんだよ、母さん!」と立花先生があわてて言った。顔が赤くなっている。ひょっとして立花先生は節子さんに憧れているのかな、と思ってしまった。


「まあ、あなたが一色さんとおつき合いされるのなら、正樹が節子さんと一緒になればちょうどいいわね」


「えええ?」今度は私があわてる番だった。立花先生と知り合ってまだ一月も経ってないし、立花先生が私をそんな風に思っているはずはない。立花先生に好きな人がいるのか・・・節子さんが好きなのか・・・知らないが、母親に私との仲を勘ぐられたら迷惑だろう。


「わ、私なんかしがないラーメン屋の娘ですから、とても釣り合いませんよ」


「そんなに家業を卑下されることはありませんわよ」と立花先生の母親が言った。


「確かにお嫁さんの家柄を気にする家は多いですわ。でも、家柄ばかり気にして結婚相手を選んでも、そのお嬢さんが頭がいいとは限りませんわ。まして顔だけで選んだようなお嬢さんですとね、将来生まれた子どもの頭があまり良くなくて、教育や就職に難儀するとよく聞きますの。やはりお嫁さんは頭がいい方が一番ですわ」・・・医者の家の奥さんだからなのか、合理的な考え方をするなと感心した。


「ですから、ご両親がしっかりした方であればかまいませんから、どうか気兼ねなされないで」


私は苦笑するしかなかった。後で立花先生に謝っておこう。お母様に誤解させてしまって申し訳ありませんでしたと。


「そ、そんなことより、四つ葉のクローバーが置いてあったという玄関脇を見に行こう」と立花先生があせって言った。話題を変えてもらって私もほっとする。


三人で玄関を出る。玄関前を改めて見ると、大きな石畳が敷いてあった。


「この石畳の端の方によく四つ葉のクローバーが置いてありますの」と立花先生の母親が教えてくれた。今は何も落ちていない。


「四つ葉のクローバーが毎日のように置いてあったそうですね?見つけられたらどうされていたのですか?」と私は母親に聞いた。


「見かけたら節子さんに片づけるように言ってますの」


「節子さんが捨てられたのですか?捨てるところを見られましたか?」


「ええ」


「どんな様子でしたか?」


「特に何も言わず、四つ葉のクローバーを拾ってゴミ袋に放り込んでいましたわ」と母親が言って、玄関脇にある麻袋を指さした。中には木の葉などが入っていて、家の外を掃いて集めたゴミを入れておく袋のようだ。


捨てられたというクローバーは乾燥して縮んでしまったようで、目では確認できなかった。


「これからどうする?」と立花先生が聞く。


「そうですね、このあたりでクローバーが生えているところがあれば、見に行きたいと思います」


「川沿いの土手にたくさん生えてるんじゃないかな。一緒に見に行こうか」と立花先生が言い、母親に断って二人で見に行くことにした。


歩いて十分くらいで土手に着く。クローバーが群生していて、二人でその場にしゃがんで四つ葉のクローバーを探してみた。


「先生はなぜ四つ葉のクローバーが幸運のしるしだと言われているか知ってますか?」と私は草むらを探しながら聞いた。


「さあ。・・・でも、元々は日本でなく、西洋の風習なんだろ?」


「そうです。キリスト教の聖人のひとりが三つ葉のクローバーを三位一体を説明するのに使ったそうです」


「三位一体と言うと、父なる神、子なるキリストと聖霊がいずれも唯一神の異なる姿だという教えだね?」


「そうです。ですから普通のクローバー自体がもともと縁起のいいものと西洋では思われていたようですね」


「四つ葉のクローバーは突然変異や発生異常で生じるから、三つ葉のクローバーより珍しく、その希少性からよりありがたがられたのかな?」


「そうですね。それにキリスト教の十字架に似ていることから、三つ葉よりも幸運であると考えられるようになったんでしょうね」


「じゃあ、うちの玄関先に四つ葉のクローバーを置いた人は、さっき言ったように我が家に幸運をもたらそうということなんだね?」


「普通に考えるとそうですね。でも・・・」


「あ、あった!」と立花先生が叫んだ。その指には四つ葉のクローバーが摘ままれていた。


「僕にも幸運が来そうな気がするよ」と嬉しそうな立花先生。私はそんな先生が微笑ましく思われた。


その時私は土手の上の道を歩く節子さんの姿に気づいた。私は立花先生の袖を引いて土手を上がって行った。


節子さんは買い物袋を手にして歩いていた。


「やあ、節子さん、今帰りかい?」と声をかける立花先生。


にこっと微笑んで会釈する節子さん。その目が立花先生の手に持った四つ葉のクローバーに注がれた。一瞬無表情になる節子さん。


「・・・それは何ですか、一樹さん?」


「これは今摘んだばかりの四つ葉のクローバーだよ。節子さんにあげるよ」


「いえ・・・」と言って節子さんは顔を背けた。


「それはそのお嬢さんにあげてください。それでは急ぎますのでお先に」節子さんはそう言って先に歩いて去って行った。


茫然と立ち尽くす立花先生。私は「ふられちゃいましたね」と思ったが、口には出さなかった。


二人でゆっくりと家に戻ると、立花先生の母親が出迎えてくれた。


「お帰りなさい、一樹、一色さん。さっき正樹も帰って来たわよ」


「へー、そう?久しぶりだね」と立花先生。


「先生のお兄さんは明応大学医学部の耳鼻咽喉科学教室におられるんでしょ?普段はあまり会われないのですか?」


「うん。僕は病院の方にはあまり行かないからね。大学内でごくたまに顔を見ることはあるけど、別々に暮らしているから会って話をすることは滅多にないね。せっかくだから声をかけて、ついでに君を紹介しておこう」


そう言って立花先生は私を連れてお兄さんの部屋に向かった。廊下を曲がるとお兄さんが自分の部屋の前に立っているのに気づいた。


お兄さんの顔がこっちを向いている。兄弟だから立花先生と面立ちはよく似ていたが、そのお兄さんの前に節子さんが向かい合うように立っていた。


立ち止まる私と立花先生。そして私たちはお兄さんの声を聞いた。


「節ちゃん、僕と結婚を前提につき合ってくれ!」


私たちに背を向けているため節子さんの表情はわからなかったが、顔を上げてお兄さんにこう話すのが聞こえた。


「・・・私でよろしいのですか?」


「もちろんだよ。昔から節っちゃんのことが好きだったんだ。僕は本気だから、つき合ってくれないか?」


しばらくの沈黙の後、節子さんは頭を下げた。「は、はい・・・。私で良ければ、お願いします」


「そうか!」嬉しそうな声を上げるお兄さん。そのまま節子さんの肩をつかもうとして、私たちが立っているのに気づいた。


「一樹か?」


「う、うん。お取込み中のようだね」と立花先生。


私たちがいることに気づいた節子さんはあわててその場を去って行った。


「そちらのお嬢さんは?」と私を見て聞くお兄さん。


「・・・彼女は文学部一年の一色さんだよ。今夜泊まってもらうからよろしく」


「そうか、一樹にも彼女ができたのか」と微笑むお兄さん。「いえ、彼女ではありませんが」と思ったが、口には出さない。


「一色千代子です。よろしくお願いします」私はお兄さんに頭を下げた。


「僕は立花正樹。耳鼻咽喉科の医局にいるんだ。よろしくね」と微笑むお兄さん。


「文学部ってことは、崇のミステリ研の人?」


「はい、そうです。兵頭部長の案内で法医学教室の見学に行って、立花先生・・・一樹先生にいろいろ教えていただいています」


そう言った後でお兄さんは立花先生の表情に気づいたようだ。


「さっきの聞いてたのか?」


「う、うん・・・」


「聞いた通り、節ちゃんに告白してつき合うことになったんだ。昔から彼女のことが好きだったから嬉しいよ」


「お、おめでとう、兄さん」声が震えている立花先生。


「一樹も節ちゃんのことが好きなのかと心配してたけど、一色さんのような人がいて安心したよ」


「え?・・・あ、ああ」もごもごと口ごもる立花先生。


「夕食の時に親にも話すから、じゃあ、後でな」と言ってお兄さんは自分の部屋に入って行った。


「一色さん、夕食の準備ができるまで休んでいて」と立花先生がか細い声で私に言った。


そこで私のカバンを置いていた応接間に戻ると、カバンを取って立花先生に客間に案内してもらった。


「じゃあ、後ほど」と言って去る立花先生。


客間は六畳間ほどの部屋だが、ベッドが置かれ、清潔に整えられていた。


私はベッドの上に腰かけると、ため息をついた。

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