第8話 立花先生の実家へ
「一色さん、五月三、四、五の三連休は家に帰るのかい?」とミステリ研の兵頭部長が私に聞いた。五月四日は祝日ではないが、今年はちょうど日曜日だった(註、昭和四十四年の話)。
「そのつもりですけど。・・・何かミステリ研の活動があるんですか?」
「そうじゃなくてね、一樹兄さんから二日に実家に泊まりに来ないか聞いてくれって頼まれたんだ」
「え~、立花先生がもうご両親に一色さんのことを紹介するの?思ってたのより積極的ね、先生も」と美波副部長が言った。
「え?え?・・・そんな関係じゃないですよ」あわてて弁明する私。
「そんなに意識しないでいいよ、一色さん。いつものように謎を解いてほしいようなことを言ってたよ」
「先生のご実家で何かあったのかしら?」と仲野さんも口をはさんだ。
「さあね。・・・でもきちんとお客として招待するって言ってたから、用事がなければ行ってくれないかな?」
「・・・わかりました。家には三日の夕方に帰ると連絡しておきます」
というわけで、五月二日の講義が終わると、いったん下宿に戻って着替え等を詰めた旅行カバンを取って来た。兄と両親には友人の家に泊まると既に連絡済みである。
いつものように医学部棟の入口の前に来てしばらく待っていると、私服を着て小さなカバンを持った立花先生が中から出て来た。
「やあ、一色さん、今日も悪いね。実家には歓迎するように言ってあるから、気楽に来てもらえばいいからね」と言われた。
男性の知人の家に行くということは、通常は両親に結婚相手として紹介されるという状況を想像してしまうが、今回も謎解きを依頼されるらしいので、そんなことにはならないだろう。
「ご実家で何か起こったのですか?」と駅に向かって歩きながら私は立花先生に聞いた。
「僕も電話でちらっと聞いただけだから詳しくは知らないけど、何か妙なことが起こっていると聞かされてね。それで推理が得意な知り合いを連れて行くから、歓待するように言ってあるよ」
「あの、・・・私が女だってことは言われたんですよね」
「それはもちろんだよ。男性と女性じゃ部屋の準備も違って来るからね。・・・君のことは崇の後輩だってちゃんと伝えてあるよ」
「そうですか・・・」先生の彼女だなんて勘ぐられることはなさそうで、ちょっと安心する。
電車に乗ると、途中の駅で横浜方面行きの電車に乗り換える。電車は若干混んでいたが、何とか並んで座ることができた。
途中でいろいろな話をした。私の実家のこと、女子高時代のこと、探偵小説が昔から好きだったことなどを。
「先生が法医学教室に入局されたのはなぜですか?」と今まで聞いたことがない質問もした。
「僕も推理小説の類いは子どもの頃から読んできたけどね、それは進路の決定に直接は関係ないよ。学生時代に有田教授の法医学の講義を聞いて、とてもおもしろい学問だなと思ったことが最初のきっかけかな?」
「それで卒業時に臨床の医局には入局せずに法医学教室に入ったんですね?」
「そういうことだけど、けっこう悩んだよ」
「何をどう悩まれたんですか?」
「普通、医学部を卒業すれば臨床医になるよね。少なくとも入学した時はそのつもりだった。だから興味を持ったとはいえ本当に法医学者になるのか、やっぱり臨床医の道を進むのか、相当考えたんだ」
「最終的な決め手は何だったんですか?」
「一人で悩んでいても埒が明かないから、有田教授の部屋を訪問して話を聞きに行ったんだ。そしたら教授が大喜びでね。何せ法医学者を目指す医師は少ないから。そして教授におだてられて、臨床医になりますとは言えないまま、なし崩しに法医学教室に入ったんだよ」
「それを後悔していますか?」
「いや。それなりにやりがいがあって楽しいから後悔したことはないよ。ただ、臨床医になったらどういう人生を歩んでいたかな、と考えることはあるけどね」
そんな話をしているうちに目的地の駅に着き、そこからタクシーに乗って住宅街の中を進んだ。タクシーを降りると、目の前に「立花耳鼻咽喉科」という看板がかかった白いモダンな診療所の入口があった。
「先生のご実家は耳鼻科の開業医だったのですか?」
「そうだよ」
「ご実家を継がなくてよかったんですか?」
「兄が一人いてね、明応大学医学部の耳鼻咽喉科に入局しているから、この診療所はいずれ兄が継ぐことになるね。僕は親から好きな道に進んでいいって、昔から言われてたんだ」
「そうですか・・・」
私は立花先生に連れられて診療所の裏手に回り、自宅用の玄関から中に入った。
「ただいま!」と声をかけると、よそ行き用の洋服に身を包んだ上品そうな四十代位の小柄な女性が奥から出て来た。
「ただいま、母さん」その女性にあいさつする立花先生。
「おかえりなさい、一樹。・・・その方が電話で話していた頭の良い方?」と、立花先生の母親は私を頭から足先まで見回した。緊張する。
「お、お邪魔します。・・・明応大学文学部一年生の一色千代子と申します」玄関に立ったまま頭を下げてあいさつをする。
「そう。ようこそいらっしゃい。さあ、どうぞお上がりになって」母親が私をどう思ったか知らないが、特に感情を込めずに私を招いた。
気楽に靴を脱いで上がる立花先生。私も靴を脱いで上がると、立花先生の母親にお尻を向けないよう注意して靴をそろえた。
立花先生の靴は脱ぎっぱなしで、変な方向を向いている。それを勝手に直して変に思われるかなと一瞬考えたが、一応立花先生の靴もそろえておいた。
そのまま応接間に通される。けっこう広い応接間で、大きめのテーブルとソファが置いてあり、小パーティーくらいできそうだった。応接間の角にはオルガンがあった。
「どうぞおかけになって」
立花先生の母親に促されてソファに座ると、向かいに母親、隣に立花先生が座った。
「今日はようこそ来ていただきました」と母親。その言葉とほぼ同時に応接間のドアが開いて、若い女性がお盆に煎茶碗を載せて現れた。
私たちの前に煎茶碗を静かに置く女性。年は二十代半ばくらいの美人さんで、立花先生が「やあ」と声をかけたが、その女性は何も言わずに一礼して応接間を出て行った。
「お茶をどうぞ召し上がってね」と母親に言われ、私は茶碗を取って音を立てずにすすった。苦みがなく、旨味を感じる高級そうなお茶だった。
「今日はわざわざ来てくださってありがとう」とまず頭を下げる母親。
「あなたは明応大に今年入学されたんですってね。一樹とはどのようにお知り合いに?」と聞かれたので、私は探偵小説が好きなことからミステリ研に入部したら、兵頭部長に立花先生が勤めている法医学教室に見学に連れて来てもらって知り合ったことを説明した。
「一樹に聞いた話では、あなたはとても頭がいいそうね?」
「いえ、それほどでも・・・」あわてて謙遜する。
「ところで、あなたのご両親は何をしておられるの?」といきなり私の実家のことについて聞いてきた。
「私の両親は小さな中華料理屋を営んでおります」
「あなたが将来はそのお店を継ぐの?」
「いえ。兄が店を継ぐべく現在都内の中華料理屋で修行しています」
「あなたは将来どうされるの?」
「まだ決めておりませんが、文学関係の仕事ができたらと思っています」女子高時代は探偵小説作家になろうと考えたこともあった。しかし今まで小説なんて書いたことがないから、具体的な志望があるわけではない。
「と、ところで、あそこにオルガンが置いてありますね。どなたか音楽を嗜まれておられるのですか?」と私は話題を変えた。身上調査のようなことをされて居心地が悪かったからだ。お見合いでもあるまいに。
「あれは私が女学院時代に合唱をしていたので、息子たちが小さい頃に習わせるために購入しましたの。でも、二人とも長続きしなくて・・・」
「そうですか。奥様は声楽を学ばれていたのですか?」
「そんな本格的な物ではございませんことよ。ただの課外活動でしたが、とても楽しい思い出です」
「今は歌われないのですか?」
「長いこと歌う機会はなかったけど、最近は時々歌ってますわ」と母親が言って、立花先生が目を見開いた。
「ええっ!?・・・母さんが歌を歌うの?聞いたことがないんだけど」
「この子ったら・・・」と母親が立花先生を残念そうな目で見た。
「あなたが赤ちゃんだった頃は、よく子守唄を歌ってあげたのに・・・」
「いや、そんな鼻歌みたいのじゃなくって・・・」と口ごもる立花先生。
「なら、歌って上げるから、その耳でちゃんと聴きなさい」と意地になったのか、母親は立ち上がると壁際の本棚から一冊の本を取った。ポケットサイズで、『女學生愛唱曲集』という題名がついていた。
「節子さん、節子さん」と応接間の戸を開けて声をかけると、さっきのお手伝いさんらしき若い女性が入って来た。
「はい、奥様」
「あなた、オルガンを弾いてくれる?私が歌うから」
「わかりました。どの曲を歌われますか?」
「そうねえ。今日は『四つ葉のクローバ』にしようかしら?」
「はい」と言って節子と呼ばれたお手伝いさんらしき人はオルガンに近寄り、鍵盤の蓋を上げてその前に腰かけた。
楽譜を見ずに伴奏を始める節子さん。そして立花先生の母親が「♪うららに照る日影に・・・」と歌い出した。歌謡曲風でなく、正統派の歌い方だった。
最後まで歌い終わると私はすぐに拍手をした。立花先生も気乗りしなさそうに拍手をする。
「とても素敵でした。本当におじょうずですね」
「次はあなたも歌いましょう」と私の腕を引いて立ち上がらせる母親。けっこう強引な性格のようだ。
「え?え?私は歌は・・・」と固辞しようとしたが、
「女子高で合唱とかされていたんでしょ?」と聞かれてしまった。
「え?・・・その、音楽の授業とか、文化祭でなら少々・・・」
母親は私をオルガン近くに立たせると、私に見えるように『女學生愛唱曲集』の目次のページをめくった。
「どの歌を歌いましょうか?あなたはどれがいい?」と私に聞いてきた。
断り切れずに『女學生愛唱曲集』を見る。歌詞の横に中原淳一の挿絵が載っている本だったが、楽譜は掲載されていないようだ。目次に目を通し、
「では、『野薔薇』ではいかがでしょうか?」と歌えそうな曲を提案した。
「節子さん、お願い」と母親が言うと、節子さんはまた楽譜を見ずにすぐに伴奏を始めた。
「♪
私は歌が得意な方ではない。歌謡曲もほとんど歌わない。だからお世辞にも上手な歌い方ではなかったと思うが、何とか歌い終わると立花先生の母親は嬉しそうに微笑みかけてきた。
「良かったわ、一色さん」
「はい、どうも、私も楽しかったです」と社交辞令を述べて、節子さんの方を向いた。
「演奏、お上手ですね」
「いえ、とんでもない」と節子さんは軽く微笑んで答えた。
「やはり合唱の方がいいわね。正樹と一樹がお嫁さんをもらったら、三人で時々合唱をしたいわ」と立花先生の母親が言った。
苦笑する私。「合唱が好きなお嫁さんをもらってください」と私は心の中で言った。
「ところで、そろそろ・・・」としびれを切らした立花先生が声をかけた。
「母さん、何か妙なことが起こってるって言ってたろ?その謎を解いてもらうために一色さんに来てもらったんだ。一色さんに何日も泊まってもらうわけにはいかないから、早くその話をしてよ」
「そうでしたわね。実は・・・」と母親が言おうとすると、
「では、奥様、私は夕食の買い出しに行って参ります」と節子さんが言って、応接間を出て行った。
応接間の戸が閉まると、私たちは椅子に座って話を聞いた。
「実はね、毎日のように玄関前に四つ葉のクローバーが置かれているの」
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