第10話 立花家白詰草事件<解答編>
私は客間のベッドの上に座っていたが、そのうちに退屈になってきたので、カバンの中から文庫本を取り出した。書名は『赤い館の秘密』。クマのプーさんの作者でもあるミルンが書いた探偵小説の古典的名作だ。
しばらく読み進めるうちに薄暗くなってきた。天井の電灯をつけようとスイッチを探していると、ドアをノックする音が聞こえた。
返事をするとドアが開いて、節子さんが顔を出した。「お食事です、お嬢様。応接間の方にどうぞ」
「わかりました。すぐに参ります」私はベッドの上に文庫本を置くと、すぐに部屋を出て節子さんの後を追った。
さっきの応接間に入ると、テーブルの上に料理が並べられていて、その前に立花先生とお兄さんと母親のほかに、五十歳前後の男性が立っていた。
「やあ、君が一樹のお友だちだね?ようこそ、我が家へ」とその男性が言った。おそらく立花先生の父親なのだろう。
「初めまして、一色千代子と申します。明応大学文学部の一年生です」
「さあさ、遠慮なく座りたまえ」と勧められて、家族と一緒にテーブルの席に着いた。
テーブルの奥の方の真ん中に父親、右手に母親、左手にお兄さんが座り、手前側は右から立花先生、私、節子さんの順に席に着いた。節子さんはお手伝いさんだが、普段から家族同然に一緒に食事をとっているようだった。
立花先生とお兄さんがビールの栓を抜き、父親の前には熱燗の入ったとっくりが置かれていた。私はすぐに立ち上がると、とっくりを手に取って父親が持つ盃に注いだ。
「今日はお邪魔して申し訳ありません。よろしくお願いします」
続いて母親の盃にもお酒を注ぐ。
「ありがとう、一色さん。君はビールを飲むのかね?」と父親が聞いた。
「いえ、私はまだ未成年ですので・・・」と固辞すると、いつの間にか立花先生がジンジャーエールの栓を抜いていて、私のコップに注いでくれた。あわててコップを手に取りお礼を言う。
もちろんすぐにビール瓶を持って立花先生のコップに泡が溢れないよう気をつけてビールを注いだ。
左手を見ると、お兄さんと節子さんが互いにビールを注ぎ合っていた。
「じゃあ、久々の家族集合を祝して、乾杯!」と父親が盃を持ち上げて言った。
私も乾杯と言ってジンジャーエールを口に含む。お兄さんはビールを一気に飲み干すと、父親の方を向いた。
「父さん、母さん、報告したいことがある」
「何だ、正樹?」
「僕と節ちゃんはつき合うことになった」
お兄さんの言葉に立花先生の両親は大喜びだった。
「そうかそうか。それはめでたい!」
「節子さん、正樹でいいのね?」
「はい。不束者ですが、よろしくお願いします」と頭を下げる節子さん。
「本当に良かった。これで平田君にも罪滅ぼしができる」と父親が言った。
「いえ、調子に乗った父が悪かったのですから、おじさまは気になさらないでください。それどころか、私をこの家に置いてもらって感謝しています」と節子さん。
「そうだね。節ちゃんを引き取ってくれてほんとうに良かったよ」とお兄さん。
「さもなければ節ちゃんとは永遠の別れになるところだった」
「何、私が平田君に先物取引を教えたのが悪かったんだ。まさかあんなにのめり込んでしまうとは・・・」
話を聞いているうちに節子さんの両親のことが何となくわかってきた。立花先生の父親が趣味でしていた先物取引に節子さんのお父さんが手を出した。最初は儲けていたが、調子に乗ってどんどん金をつぎ込み、最終的に大損したらしい。そして財産と職を失った両親は節子さんをここに残して、どこかに夜逃げしたようだ。
私がそんなことを考えているとは知らずに、立花先生の母親は、「もう少ししたら孫ができて、いっそうにぎやかになるわね」とのんきそうに言って、私の方を向いた。
「一色さんは結婚は大学を卒業してからになるのかしら?」
「は、はい。おそらく」急に話を振られて私はあせって答えた。
「一樹はもうしばらくの辛抱ね。でも夢があるわ。また一緒に合唱しましょうね。いずれは孫たちも一緒に。もちろん節子さんには伴奏をお願いするわ」
立花先生の母親は私が立花先生の結婚相手と思っているようで妙な汗が出る。そんな関係ではないのに。・・・でも、この場で否定するのは空気を読まない行動だろう。そう思って愛想笑いをするだけに留めておいた。
テーブルの上には寿司屋から取り寄せた握り寿司の桶のほかに、節子さんが作ったらしいイカと里芋の煮物や若竹煮などのお惣菜が並んでいた。
各自が思い思いに食べたい物を小皿に取っていたので、私が気を遣う必要はなさそうだった。握り寿司をいくつかと、若竹煮を小皿に取って頬張る。どれもおいしかった。
「海が近いせいか、お寿司もイカもワカメもおいしいですね」と私が感想を述べると立花家の人は皆喜んでくれた。
和やかに夕食は終わり、食器類を片づける節子さんを手伝って台所の方に食器や料理の残りを運んだ。
節子さんは寡黙に食器を洗っている。私は話しかけようと思ったが、酔ったお兄さんがまだ飲み足りないらしく、氷やグラスを取りに来たので、この場では何も言わなかった。
その後お風呂をいただき、客間に戻って朝までぐっすりと眠った。
翌朝、トーストと紅茶の朝食を食べた後で、また節子さんの手伝いをして空いた皿やカップを台所に運んだ。
静かに食器を洗う節子さん。私はその背中に向かって話しかけた。
「お兄さんの正樹さんは昔から節子さんのことが好きだと仰られていましたが、節子さんも正樹さんのことが好きでしたか?」
驚いて振り返る節子さん。でも、私が恋愛話が聞きたいと思ったのか、はにかみながら話し始めた。
「幼い頃はよく一緒に遊んでいたの。正樹さんや一樹さんと。だからよく知ってる間柄だし、嫌いじゃないけど、まさか正樹さんから告白されるとは思わなかったわ」
「でも、結婚してもいいと思われたんですよね?」
「ええ。・・・正直言って私はこの家のお手伝いさんだから、長男の正樹さんに好意を寄せていただいて、しかもそれをおじさまやおばさまに祝福していただけるとは思ってもいなかったわ」
「皆さんいい方ばかりのようですから、節子さんも幸せになれますね」
私の言葉に節子さんはにっこりと微笑んだ。「そうなるといいけど」
「これでもう四つ葉のクローバーを摘んでくる必要はなくなりましたね」
私の言葉に節子さんはぎょっとした顔になった。
「え?・・・どういうこと?」
「奥様が毎日のように玄関先に四つ葉のクローバーが置かれていることを気にしていたのはご存知でしょう?節子さんに捨てるように言われたこともあったと聞きましたが」
「え、ええ・・・。そうね」
「私は立花先生・・・一樹先生に奥様の相談に乗ってくれと頼まれました。その相談内容が、その四つ葉のクローバーのことだったんです」
「そうだったの。・・・私はてっきり一樹さんとおつき合いされていて、ご実家に招待されたものだと思ってました」
「あいにく一樹先生と私はそういう関係ではないんですよ。・・・それより、その謎の答は簡単なことでした」
「・・・え?」
「まず、毎日のようにこの家に四つ葉のクローバーを置いているということは、立花家に何らかの思い入れがある人に違いありません。そして、クローバーが群生している土手の近くを買い物の途中で通り、四つ葉のクローバーを探して家に持って帰れる人、それは節子さん以外にはいませんよね?」
私の言葉を聞いて節子さんが生つばを飲み込んだ。
「問題は、節子さんがなぜ毎日四つ葉のクローバーを摘んで来たかの理由です」
節子さんは微動だにせず私の顔を凝視し続けていた。
「その理由は、お世話になっているこの家に幸運が訪れるよう祈ってのことですよね?」
私の言葉を聞いて節子さんが体の力を抜いた。
「・・・そ、そうです」と節子さんはほっとしたように言った。
「親の散財のために、場合によってはひどい境遇に落とされたかもしれない私をお手伝いさんとして雇っていただいたので、私は人並みの生活をすることができました。お手伝いさんの仕事と言っても普通の家事をするだけのことで、奥様には本当の娘のようにかわいがっていただきました。そのご恩に報いるためと言うわけではありませんが、せめてこの家に幸せが訪れるようにと、四つ葉のクローバーを捧げることで毎日祈っていたのです」
私がこの家にお邪魔してからほとんど寡黙だった節子さんが、やけに饒舌に自分の思いを吐き出したので、私は違和感を覚えた。
「そうでしょうね。・・・でも、もう四つ葉のクローバーを摘んでくる必要はありませんね」
「え?」私の言葉に節子さんは一瞬戸惑ったようだった。
「節子さんはいずれ正樹さんと結婚して、この家の本当の娘・・・いえ、お嫁さんになる人です。言わばもうこの家の家族の一員ですから、四つ葉のクローバーを玄関先に捧げる必要はありません。今後も幸福を願うのなら、ご自分で四つ葉のクローバーを持っていればいいわけですから」
「そ、そうですね。・・・今日はあなた方が土手にいたので、四つ葉のクローバーを探せませんでした。明日以降も、探すのはやめにします」
「それがいいでしょうね。どうぞ、お幸せに」
私は洗い終わった食器を拭いて食器棚に片づけると、会釈をして台所を出て行った。
応接間にはまだ立花先生と母親がのんびりしていた。父親とお兄さんは自室に引き上げたようだ。
「奥様、先生、四つ葉のクローバーを取って来たのは節子さんでした。今、確認しました」
「あらまあ、節子さんが?」と目を丸くする母親。節子さんのことをまったく疑っていなかったのかな?
「なぜそんなことを?」
「もちろんお世話になっているこの立花家の幸福を願っての、願掛けみたいなことですよ」
「あらまあ。そんなに我が家のことを思ってくれていたなんて・・・」母親はちょっと感動しているようだった。
「昨日、お兄さんとおつき合いすることが決まったので、もう摘んでくるのはやめにするそうです。ひょっとしたら、お兄さんに嫁ぐことも願っていたのかもしれませんね」
「まあ」ますます感動する母親。
「そこまで兄さんのことを?」立花先生は少し落胆しているようだった。
「それでは謎が解けたので、私はこれで失礼します。昨日今日と、大変お世話になりました」私はお礼を言って頭を下げた。
「まあ、もう帰られるの?せめてお昼を食べてから行かれたらよろしいのに」
「いえ、私も実家の方に早めに帰りたいと思います。お店の手伝いもしなければなりませんから」
私はそう言って応接間を出た。客間においてあるカバンを取りに行くためだ。私が廊下に出た時に、台所の方に人影が消えたのを見たような気がした。ひょっとしたら、節子さんが私の話を立ち聞きしていたのかもしれない。
私はカバンを取って来ると、再度お礼を言った。そこへ節子さんに連れられてお兄さんと父親もやって来て、玄関先でわざわざ見送っていただいたので恐縮した。
立花先生は私を駅まで送ってくれると言ったが、帰り道はわかるからと固辞をして、立花家を後にした。
駅で一人で電車に乗る私。座席に座って揺られながら、節子さんのことを考える。
四つ葉のクローバーを幸運のしるしと思っていたのなら、母親から聞いた節子さんが麻袋に四つ葉のクローバーを捨てた時の様子や、土手の上の道で立花先生が四つ葉のクローバーを差し出した時の節子さんの気のない態度はおかしかった。まるでただのゴミとしか思っていないような・・・。
四つ葉のクローバーがキリストの十字架に見立てられるならば、それはキリストの処刑台でもある。必ずしも幸運を意味するものではないのだ。しかもクローバーの花言葉のひとつに「復讐」というのがあった気がする。
そして日本では昔から四という数字は好まれていない。
「クローバー」も「苦労場」という言葉が隠れているように考えることもできる。合わせると「死苦労場」になる。
節子さんは確かに立花家に恩を感じていたことだろう。しかし、それと同時に両親の破滅の原因となった立花先生の父親に恨みを抱いていたのかもしれない。・・・節子さんは自分の父親の自業自得だと頭ではわかっていたのだろうが、先物取り引きをしていた立花先生の父親がいなければ、自分の家族は今でも幸せなままだったという思いもあるだろう。
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