映画「君たちはどう生きるか」ネタバレ感想

称好軒梅庵

映画「君たちはどう生きるか」ネタバレ感想

この映画は宮崎駿の作品の中で描かれてきたテーマ、イメージの集大成であり、目新しさはないものの、宮崎駿の作家性というものを濃厚に伝えてくる作品である。


以下、当作品について感じたことを若干の考察を加えて述べていく。


①自伝的側面について

当作品は宮崎駿の自伝的側面をいくらか持っているように思われる。

現実の宮崎駿の人生と重なる点は、父が航空機関係の大企業の社長であること、子供の時に疎開を経験したこと、作中のように死別ではないものの母と長く別れていた期間があったこと、大叔父ではないが隠居した叔父がいたこと、等である。

しかしながら主人公の眞人は、宮崎駿そのものかというとそれも違う気がする。

作中では大叔父が宮崎駿の言いたいことを代弁しているらしき場面もあり、その場面では語りかけられる客体である主人公は観客に近い立場となる。

主人公が宮崎駿でもあり観客でもあるというこの構造が、本作品を語りづらくさせる一因でもあると感じる。


②過去作とのイメージの重なりと変化

当作品は宮崎駿の過去作とテーマやイメージの重なる場面が非常に多い。

単純に重なっている場面も多いが、年齢を重ねた結果なのか同様のイメージでも違う結論に達しているらしき場面もあり、興味深い。

例えば、庭園を抜けて世界の理を知る者に会いに行く、というのはナウシカ漫画版で描かれたイメージと重なる。

しかし、『ナウシカ』ではナウシカが出会う墓所の主は欺瞞に満ちた存在であり、ナウシカが墓所の主の説く世界の維持への協力を拒否して「過ちを犯さない人間の繭」を焼き尽くして殺すことが肯定的に描かれるのに対して、当作品ではそのやり取りはかなり穏当だ。

「悪意のない人間」しか触れられない、罪なき者の世界を維持する積み木を託されそうになった主人公は「自分には悪意があるから」といってその役割を固辞する。

つまり、過ちを犯さないとか悪意がないなんてのは人間ではない、という思想は共通しているのだが、その思想を扱う手つきがかなり違う。

世界の維持機構を破壊するのは、『ナウシカ』では主人公ナウシカなのに対し、当作品ではインコ大王である。

インコ大王は、『ハウルの動く城』などでしばしば描かれる好戦的で愚昧な軍事指導者風の造形でありながら、その所作の端々にまるでクシャナやエボシ御前のような指導者としての責任感、共同体の維持への確固たる意志、そして死地へ自ら臨むという勇気をもったちょっと類例のないキャラクターだ。

ナウシカによる世界の維持装置の破壊がヴ王(クシャナの父)によって作中で肯定的に捉えられるのに対し、インコ大王による積み木の破壊は特にそういったフォローがなくただ世界が崩壊するだけである。

インコ大王に対する擁護の役割は、大叔父の物言いにイライラしていた観客に委ねられる。

私はこの描写の変化について、宮崎駿が年齢や経験を重ねたことにより、『ナウシカ』を描いたころにはまだどこかで信じていた破壊による「快刀乱麻を断つ」ような行いは実際にはあまり良い結果を生まないという結論に至ったのではないか、と考えている。

他にも『ナウシカ』でナウシカが「血を吐きながらなおも飛び続ける鳥」と人間を表現したのに対し、当作品ではおそらく人間の業のメタファーとしてペリカンが描かれているとか、そういった過去作との繋がりは沢山あるが、キリがないのでその話はしない。


③作品のテーマについて

まあ、テーマはタイトル通り「君たちはどう生きるか」だとは思うのだが、作中の描かれ方は割と「創作や内面世界から何を受け取って現実に活かすか」という感じだったと思う。

作中では大叔父が「悪意なき者」のみが触れられる積み木の受け継ぎを主人公に拒否される。

その時、大叔父は「ここに残らなくてもいいから、せめて心の中にこういうものを積み上げるようにしてくれ」と懇願する。

ここでは大叔父は宮崎駿自身のように見え、主人公の立場は観客に近いように見受けられる。

大叔父の言葉をざっくり解釈するならば「創作や内面世界にずっと閉じこもって美しいもの、清浄なるものを積み上げる必要はないが、心の中に美しいもの、清浄なるものを積むことは大切だ」ということであろうと私は考える。

それに対し主人公は「サギ男やヒミのような友達をつくる」という。

一見噛み合ってないようなやり取りにも見えるのだが、「自分が創作から受け取ったものは友達だよ。創作世界でキャラクターに感じた友情、そして友情の美点を現実の世界でも信じ友達をつくるよ」ということだと、私は思う。

こういったやり取りの後にインコ大王による破壊が続く。

インコ達は人口増加やそれに伴う食糧難により汲々とする愚昧だが素朴な生活者であり、インコ大王は彼らによって選ばれた基本的には善意で動く指導者である。

生活者の代表であるインコ大王は「こんなものに世界を託すのか」と激昂し、積み木を雑に積んだ挙句、破壊する。

それはしばしば生活者が創作者に向ける怒りを表現したものとも取れる。

「馬鹿なこと言ってねえで働け!」といったところか。

生活者による創作世界の終焉を迎えた後、石のかけらを一つもって主人公は現実に戻る。

これは人は創作に触れた時、何かを得て現実に戻る、ということだと考えられる。

サギ男は別世界で起こったことは段々忘れてしまう、だがそれでいいのだと言う。

サギ男という物語世界の住人側からの読み手、観客への友情の肯定で物語は終わる。

私達が物語に愛情や友情を感じれば、物語はそれに応えてくれるよ、というところだろうか。


以上、取り止めもない感想になったがこの映画を観て自分がどう生きるかというと、この映画を観てつまらなかったというか女性の描写が気持ち悪かったという友人に迎合せず自身の意見を曲げずに通すような生き方をします。


いや、たしかにお母さんが若くなった姿がヒロインとか気持ち悪いところはあるけど、面白い映画だよ!


絶賛、喧嘩中。

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