第11話 ブラフ

 夕方と呼ぶには少し遅い時間に、啓輔は再び数学部の部室に現れた。その顔は昨日よりもさらに青白いものとなっている。これは何かあったなと、玲明は気を利かせて温かいコーヒーを差し出した。ついでに自分の席を譲ることにする。

「お疲れのようですね」

「ええ。さすがにこっちも疲労しているのに、東郷先輩の怒りですからね。どっと疲れます」

 ここでは隠す必要がないという安心感があってか、啓輔は差し出されたコーヒーを受け取りながら愚痴を零す。啓輔からすれば与り知らぬ内容で怒られるのだ。精神的に参って当然という部分はある。

「東郷君は相変わらず怒っているのか。なにも後ろ暗いところがないのならば、どんっと構えていればいいだろうに」

 同じく玲明に入れてもらったコーヒーを啜る英嗣は、さすがに駄目だろうという顔になる。先輩として、何もなかったという毅然とした態度を示してこそ、こういう異常事態に対応できるはずだ。それを自ら疑惑を強める方向に動いては拙い。

「そうですよね。やけに神経質になっている感じです。とはいえ、当時のことを伝聞でしか知らないこちらとしては、そのイライラの原因が何に起因するのか解りません」

 英嗣に同意され、啓輔は落ち着きを取り戻した。ここに来たのは愚痴を零すためではない。

「それは俺たちも同じだからね。落ち着いたのならば質問に入っていいかな」

 そう口を開いたのは、呼び出されていた廉人だ。謎が謎を呼ぶこの状況に、俄然この事件を解明する気持ちになっている。

「ええ、大丈夫です」

 啓輔も暢希の事件を詳らかにしたいと思っている。正直言って、この事件はどうにも不快だ。それはネット上で暢希の死をおかしく書いている連中と、この事件を起こしている人物のやっていることが同じに見えるせいである。

「まず、当時を知らない人間の寄せ集めが考える手掛かりとなるのが、この寺井君を残したメモだ。寺井君に関して何か情報はあったかい」

 行方不明ということは、理那を攫った犯人の手に落ちたと考えるのが妥当だろう。

「まだ何も。ただ寺井は大塚と仲が良かったとあって、OBの中では藤川さんの時よりも事態を重く見ているのは確かですね。あれは、あの研究室の空気は明らかに何かを隠しているって感じです」

「なるほど。大塚君の死に関わるのは、残念ながら一人ではないようだな」

 今まで考えても考えても解らなかった原因。それは関わった人間が一人だと仮定していたせいだ。もし部活全体が共謀して犯人だとすれば、その痕跡がどこにもないことには納得ができる。総て揉み消された後だったのだ。

 とはいえ、ここで仲の良かった卓也を加えるのは無理があるだろう。彼は何も知らなかった。だからこのタイミングで誘拐されたのだ。

「じゃあ、藤川さんに関してはどう考えるんだ」

 誘拐はその前にも起きているんだぞと玲明が廉人に突っかかる。それに廉人は単なるブラフだったんだよと溜め息だ。

「ブラフ」

「そう。あの事件に関して何かが起こっていると印象づけるためのものだったんだろう。その後、大塚さんの死に疑問を持つ寺井さんが行方不明になっても、不自然じゃないように装うためだったというわけさ」

「なっ」

 思ってもいなかった可能性の提示に、玲明だけでなく啓輔も英嗣も驚く。しかし、狙いが最初から卓也だけにあったと考えると納得しやすいのも事実だ。当時の部活のメンバーで、暢希の自殺に懐疑的だったのは彼しかいない。

「すると、犯人もまた大塚さんの死に絡んでいるということになりますね」

「もしくは無理やり手伝わされたか。どっちにしろ、他の連中と温度差があるということだろう。その点も加味して人物関係を教えてくれ」

 廉人の推理に驚いて呆然としていた啓輔だが、そう話を振られると慌てて頷いた。どうやら自分はとんでもない事実を知ることになりそうだ。そんな高揚が顔に出てしまう。

「まずは、写真の浦川先輩だな。どうにも脅しなんてするタイプとは思えないんだけど」

 手始めにと、廉人は啓輔の前に例の写真を置いて訊ねる。初めて見る証拠写真に、啓輔はまじまじと手に取って見つめた。しかし、その後は不可解だと言うように眉根を寄せる。

「どうかしましたか」

「いや、脅しているっていうより何かを迫っている感じだなって。大塚が普段どういう表情かは知らないですけど、脅されて怯えているっていうより驚いて困惑しているっていうか」

 玲明が何か気づいたのかと問うので、啓輔は感じたままに述べた。

 どうにもこれ、脅されているというには奇妙だ。どちらも切羽詰まった表情で困っているというのは、脅していると取るにはあまりに違和感がある。

「そう言えばそうだな。どちらも困る状況か。たしかに手紙に脅しているところだとあったから、その情報に引っ張られている気もする」

 だがしかし、どちらにしろ二人の間に何かあったことに変わりはない。そしてそれは誰にも知られないことだったのだ。廉人は難しいなとコーヒーを啜る。

「それで、浦川先輩はどういう人物だと思いますか」

「ええっと、浦川先輩がこの事件で最も冷静だと思います。最初に話題になった時も死者への冒涜だと、下手に騒がないようにと注意していたくらいです。まあ、こんな事実があるならば騒がれて自分のことが明るみに出ることを避けたかったとも思えますが、取り乱していないのは確かです」

 先ほども伸行は怒鳴り散らす益友を窘めていた。先輩同士で収めてくれて助かったとほっとしたところだ。

「なるほどね。怪しさはあるものの、浦川先輩が冷静に対応してくれているおかげで、東郷先輩も冷静になってくれているというわけか。判断が難しいね」

 廉人の正直な言葉に、玲明と啓輔は顔を見合わせてしまう。

たしかにこの事件、伸行が窘めなければ大騒ぎになっていることだろう。すでに誰かが警察に相談してもおかしくない。これが隠蔽目的だとすれば、益友の表に出したくないとの性格も加わって上手く進んでいることになる。

「他はどうかな。話し合いに加わるとすれば、岡崎君しかいないようだけど」

「そうですね。今日のメンバーは確かに俺を含めて四人。岡崎さんは寺井と仲がいいこともあって心配していましたよ。それに藤川さんだけならば自分でいなくなったという可能性は考えられるが、二人目となるとちゃんと調べてもらった方がいいと主張していましたね。この人、人がいいだけでなく誰とでも仲良くするんですよ。死んだ大塚とも仲が良く、よく難しい数学議論をしていたということです」

 これは昨日聞き出したばかりだからよく知っている。雄大は本気で暢希の才能に惚れ込んでいたと考えて間違いない。

「ううん。そうなってくると、部活全体で大塚の死を隠したとの推理には無理が出てきますね。やはり当初の検討通り、誰も大塚の死を望んでいなかったことになってしまいますよ」

 玲明はまた元の推理に戻っていると、盛大な溜め息を吐いていた。

 どうにも手掛かりがないのだ。何か一つきっかけを得て推理するも、それが他の要素で否定されるという繰り返しになってしまっている。

「そうだな。しかし仮定として大塚君が自殺ではないとすると、やはり誰かが死のきっかけをもたらしたことになる。それが憎しみではなかったとは言い切れないだろう。特にあの論文。どうして物理学的意義が切り落とされていたのか。あの部分が明確に記されていれば、論文が注目されるのはもっと早かったはずだ。あえて切り落とし、その意義を落とした人物は必ずいる。つまり、いかに心配していても犯人である可能性は消えないんだよ。誰かが大塚君のその大いなる才能に嫉妬していた」

 英嗣の言葉はどこまでも淡々としているが、許せないとの思いが多分に含まれている。それはこの一連の事件に関しても同じだろう。どうにも身勝手さが滲む。研究者を目指したことがある人間として、なおのこと許せない気持ちが募っている。

「確かにそうですね。論文に手が加えられている以上、誰も犯人ではないとの結論は矛盾します。それに今回のことも、二人が自発的にいなくなったのではないことも明確です。しかし、犯人はどうやって二人を攫ったのか。特に今日の昼にいなくなった寺井さんの場合は、誰かが目撃していてもおかしくないはずです。それなのに誰も見咎めなかったというのが気になります」

 玲明の言葉に、確かにねと廉人は頷いた。そしておもむろに立ち上がる。

「ど、どうした」

 急な行動に驚く啓輔の代わりに、廉人の突飛な行動に慣れている玲明は声を掛けた。

「これから図書館に行って検証すればいいんだよ。藤川さんの場合はどこで連れ去られたか解らないから不可能だったが、これは可能だろ」

 廉人の目的は事件の検証であった。これに玲明はほっとしていいやら困惑していいやら解らない。どうしてすぐに行動しようするのだろう。落ち着きがない。

「丁度現場を知る米田先輩がいるんだ。これほど検証に打って付けな状況はない。それにもう遅い時間だ。他の利用者にも迷惑は掛からないよ」

 そう言うと、廉人は一人足早に部室を出てしまう。よって、三人は反論も質問も出来ないまま追い掛けることになるのだった。

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