第10話 謎
暢希が死ぬ前に脅されるようなことがあった。これは何かヒントにならないかと卓也は真剣に考えを巡らせていた。先ほどの伸行の不意打ちにあったことから、こういうことは大学で考えるべきではないと思い、高校近くの図書館に移動していた。そして窓際の席に座り、誰も来ないことを確認してノートを広げる。
ここはもともと、平日の昼間となると人気の少ないところだ。こそこそと考えるのは丁度いい。
誰も暢希に悪印象を持っていなかったのは確かだ。天才に対する僻みというのもなかったように思う。というのも、それぞれが実力を弁えていたからだ。それに得られる刺激の方が大きいと考えていたように思う。
どんなことにも才能の差というものはあるのだと卓也は思っている。どれだけ努力しても越えられない壁というべきか。暢希は明らかに努力を超える何かを持っていた。それは直観力や洞察力と言ってもいい、数学に必要な閃きをもたらしてくれる何かだ。
「さて」
その前提条件を崩さなければならないらしい。少なくとも伸行は何事かで揉めていたのだ。暢希がいい先輩と思っていただけではないことは確かである。では他はどうか。
少なくともこ写真を撮った誰かもまた、暢希に対していい思いをしていなかったのではないか。しかし、この写真だけでは暢希を狙ったものかは不明だ。ひょっとすると、他の誰かの弱みを握ろうとしていた可能性も捨てきれない。が、今は全員を疑わなければならない時だ。
「当時と今で大きな差はないから、人物関係から明確にしていくか」
考えているだけでは駄目だと、広げたノートに当時の数学部メンバーを書き出すことにした。
この場合、暢希を中心に書いていくべきだろうと、まずはノートの真ん中に暢希の名前を記す。次に自分は横に書いておくべきかと、暢希の名前の横に自分の名前を記した。さて、問題はここからだ。何の疑問もなく、今でも一緒にいるというのに、人物関係を明らかにしようとした途端、何も知らない事実に突き当たってしまった。
「東郷先輩は一番上に書いておくか。で、事件当時いなかった米田さんは除外。で、ここからだよ」
真っ先に消えそうな伸行がまさかの脅しを行っていた。しかし今、ノートに明確に書ける人物関係であることは間違いない。伸行の名前を暢希の下に記し、脅迫と小さく書き込む。これだけでも気が滅入る作業だ。ここから想像で書いていくとなると余計に気が重い。
「あの当時の疑わしい行動か。まずは行方不明の藤川さんはどうだったかな。特に暢希と何かあった感じはしないが」
どちらかというと議論を避けていた感じだなと、卓也は感じたままの印象を記す。その逆に雄大はよく議論に持ち込んでいたと思う。となると、そこで何かトラブルになるようなことがあったのか。唯一、研究で何かありそうだと記しておく。
「ううん。後は部員じゃない弥生ちゃんか。でも付き合っていたからな。ここでトラブルがあったとしても、それは恋人同士のことで終わっているだろうし。暢希はそれを苦に死ぬタイプでもないしな」
弥生の名前をノートの端に書き、卓也は机に頬杖を突いた。
駄目だ。どう考えても犯人に辿り着きそうにない。そもそも表面的に何のトラブルもなかったのだ。だからこそ、暢希の死が謎となっている。これが自殺であれ他殺であれ、何に悩んでいたのか、原因は本人とそれに関係した人物しか知り得ないのだ。
「だって」
この写真のことすら暢希は誰にも相談しなかったのだからと、卓也は寂しくなる。
親友とまではいかなくても、それなりに仲が良かったはずだ。それなのに相談してくれなかったとは水臭い。いや、一方的に仲いいと思っていただけなのかと悔しくなる。
「はあ」
何だか自己嫌悪に陥ると、卓也はノートから顔を上げた。そう、暢希が何か相談なり愚痴を零してくれていればと、いつも思うのだ。だから悔しくて仕方がない。彼の葬儀で思い切り泣いてしまったのも、悲しさより悔しさが勝ったせいだ。ずっと傍にいたはずなのにと、何かがぽっかり抜けてしまった感覚になる。
「どうした、溜め息なんか吐いて」
「えっ」
突然背後から聞こえた声に、卓也はびくっとなった。しかもこの声はと思った途端、そこで意識が途切れる。しまったと思うことさえ出来なかった。
「さて、次の段階だな」
意識を奪った犯人は、卓也が書き出したノートを冷たく見下ろしていた。
「トポロジーも物理学への応用がなされているんだ。その観点から見ると、これが唐突なものではないことが解る」
次の論文を前に、英嗣は意外なものだと腕を組んだ。最後の論文が加工されたものであったとしても、暢希の数学の才能は疑いようがない。それなのにどうして奇妙な加工を施したのだろうか。
「何が心変わりのきっかけになったんだろうね。金岡さんの話によると別に部活に不満があったわけではない。もちろん自分の才能を試すために他の分野に行くつもりだったというのは理解できる。しかしどうして、同じ論文の中で論じようとしたのかな」
引っ掛かる。同時にこなすことも可能なはずなのに、どうしてなのか。
「同じ疑問を、この浦川先輩も持っていたと考えるとどうですか。だから真意を問い質そうとした。そうすればこの写真、脅している瞬間ではないとなります」
誰もが感じるものだとすれば、それを知った数学部のメンバーが問い質したとしてもおかしくない。玲明は例の写真を眺めながらそう思った。
ということは、この手紙を出した相手はわざと考えを混乱させようとしている。余計な条件を足すことで、本当の解に辿り着かないようにしようとしているのだ。
「まあ、そうも見えるからね。しかしこうなると、もう少し踏み込んだ内容が欲しくなるな」
「踏み込んだ内容ですか。向こうから相談に来るなんて都合のいいことは」
ないですよねと言おうとしたところで玲明の目は部室の入り口に釘付けになった。そこには蒼白な顔をした啓輔が、茫然と立っていた。
「どうしたんだ」
その顔から良くないことが起こっているのだと解った英嗣は、立ち上がるとそっと啓輔を中に導いた。しかし、その間も啓輔の目は玲明の手元に注がれていた。出来れば隠しておきたかったが、見られてしまったので仕方がない。
「それって」
「浦川先輩が大塚を脅していた可能性があるのは本当ですか」
こちらが問い掛けるよりも先に啓輔がそう問うてきた。しかし、あまりにも正確なその問いに二人は顔を見合わせる。どうして写真の内容を正確に知っているのか。当然の疑問だ。
それに啓輔は極まりの悪そうな顔をすると、ズボンのポケットから一枚の紙を取り出した。それはノートをコピーしたものだった。だが、その内容に驚かされる。それは今、二人が知りたいと思っていた当時の部活の人物関係図だった。
「これを残して、大塚と仲の良かった寺井が姿を消したんです。そのノートにもほら、脅迫していたとの文字が」
啓輔はプルプルと震える指でその文字を指し示す。たしかにそこには遠慮がちに脅迫との文字がある。
「ということは、寺井さんはその事実を知っていた。って、姿を消したとはどういうことですか」
事実を知る者が消えた。これはどういうことなのか。しかもこんな関係図を残して。啓輔の様子からそれはただいなくなったのではないことも解る。
「そ、それが、この近くにある図書館から連絡を受けたんです。寺井が荷物を置いたままどこかに行ってしまったようだというんですよ。荷物には、戻らなければ俺に連絡するようになんてメモがあったっていうんです。
意味が解らないけど、それで荷物を取りに行くと、このノートを広げたまま、寺井は本当に居なくなっていたんですよ。図書館の中を隈なく探しましたけど、どこにもいなかった。それどころか携帯に電話しても繋がらないんです。これ、またしても行方不明ってことですよね」
ここで誘拐と言わなかったのは、もちろん理那のことがあるせいだ。連続して誘拐されたなんて、どうしても認めたくない。そんな気持ちが言葉になっている。
「確かなことは、そうだな。寺井君もまた姿を消したということだけだ。そしておそらく、この写真を持っていたんだろうね」
英嗣は玲明が握り締めている写真を指差した。玲明は慌ててそれを啓輔に見せながらもおやっとなる。
「仲が良かったのならば、相談されていたんじゃないですか。だから書くことが出来た。写真を持っていたのではないと思いますが」
玲明が指摘すると英嗣はそれはないと否定した。それならば遠慮がちに小さく書かないし、ノートの下ではないだろうと言うのだ。
「下。それが意味あるんですか」
「だって、これは注目すべき事実で大塚君の死の真相を解く手掛かりかもしれないとしたら、君はどこに書く。それに金岡さんに話が伝わっていないのも不自然だよ。彼は大塚君の葬儀で大泣きしたんだろ。相談を受けていたのならばその時に話しているはずだよ」
その指摘に玲明だけでなく啓輔も真剣に考えた。
自分ならばその事実を知っていたらノートのどこに書くか。おそらく一番最初に検討すべきこととして上に書くだろう。脅していたのならば尚のこと、暢希の名前の上に書くことでそれを強調する気がする。
「確かに違和感がありますね。確信を持てないもののそう考えるしかない。そういう意図が見えます」
「まあ、そうですね。下に書くということは優先度が低いか、もしくは自信のない情報だということです」
玲明の意見に、啓輔もこの図をそう検討するのかと驚きつつも頷いた。たしかに作図するからには何か意図を持っていたはずだ。卓也は暢希の死に関して自殺と考えていない。それならば、この論文の注目から始まる事件について自ら検討をしていたことだろう。その過程で写真を手に入れた。そしてノートに書き加えていた。
「おそらくその検証をしていることを、この一連の事件に関わる人物に見られてしまった。そういうところだろう」
しかし、いくら昼前の図書館とはいえ、誰にも見つからずに連れ出すなど可能だろうか。それに部員全体を疑っていたのならば大人しくついて行くとも思えない。しかも犯人はなぜノートを残したのか。疑われている事実を隠したいのならば、このノートは処分すべきものだ。
「これ、どうしてコピーなんですか」
「ああ。原本は東郷先輩が持って行ってしまいました。これはその前にこっそり印刷しておいたものです」
内密にお願いしますと、啓輔は頭を下げた。そして二人に期待の目を向ける。すでにノートをコピーするという行動に出ているのだ。一人でもこの事件の解明を進める気でいる。そして、自分だけでは知っていることに限界があるのも事実だ。
「大塚の論文を検証しているってことは、大塚の死について考えているってことですよね。俺、あの頃は違う高校にいたから関係ないって思ってたんですけど、納得できないことばかりなんです。手伝わせてもらえませんか」
これは差し上げますからと、思わぬ申し出に玲明はどうすべきかと英嗣を見る。
「ううん。手伝ってもらえると嬉しいけど、君の立場が危うくなるかもしれないよ。ただでさえ、卒業生たちはピリピリしているんだろ。それでもいいのか」
今後の人間関係に関わるかもしれない。そして、首を突っ込まなければ良かったと思うかも知れない。暢希と面識がないのならば尚更だ。英嗣は探りを入れるには、絶交の覚悟がいるだろうと注意する。
「じゃあ、情報をリークするだけでも。お困りのようですし」
そこでにやっと笑う啓輔は強かだ。これならば心配する必要はなかったかもしれない。自分の身は自分で守れることだろう。とはいえ、近しい関係にある啓輔が首を突っ込まないほうがいいのは変わりがない。
「まあ、そのくらいならば大丈夫だろう。しかし今、ここに長居するのは得策じゃない。騒ぎが落ち着いてから、タイミングを見計らってもう一度来てくれるかな」
英嗣はそう言って一先ず啓輔を大学に帰した。そして色々と対策を立てる必要があるねと玲明に向けて笑う。
「そうですね。取り敢えず、あれは外しておいて正解でした」
玲明はそれに同意すると、昨日までは額が飾られていた壁を見つめていた。
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