第9話 問題
卓也と同じ手紙を受け取ったのは、意外にも玲明だった。
「何ですかね、これ」
意味が解らないものだから、玲明は出てきた手紙と写真をすぐに英嗣にも見せた。明らかに事件に関係しているのだろうが、だとしても、どうして自分だったのか。
「何って、脅迫の現場を押さえたって手紙に書いてあるけど」
そしてこちらもズレたもので、あまり深刻に受け止めた様子もなく言ってのける。
「そうですね。他に解釈の余地がないほど、はっきり書かれています。しかもなぜか九条のところではなく、俺のところにこの手紙が届きました。これって数学部に所属しているから、ですかね」
聞きたいのはそれではないと、たまに呆けた発言をする英嗣を玲明は思い切り睨み付ける。すると解っているよと英嗣も真面目な顔になった。
「それにしてもねえ。何で脅していたかは明確に書かれていないんだよ。現場としては脅しているように見えるし、実際に大塚君の困った表情も読み取れる。でもさ、天才であった彼を脅す理由って何だろう。何かが奇妙なんだよな」
おそらく数学のことではないよなと、英嗣は鋭い指摘をする。たしかに脅す理由は他にあると考えるのが順当だ。それに数学に関することだったならば、この手紙を送ってきた相手ももっと早くに誰かにばらしていることだろう。
「つまり、今回の事件に関連しているってことですね。藤川さんが行方不明になったことにも、大塚君の噂が広まったことも」
「そうだな。一つ要素が増えたというだけだな。それにしても、以前の数学部は問題を多く抱えていたということだね」
「問題ですか。まあ、確かにトラブルだらけだったっぽいですね。前の顧問は大会に出る事には積極的だったものの、それ以外は放任主義だったみたいですし。それが今、どういうわけか表面化している」
しかも大きく膨れ上がろうとしているようにしか思えない。玲明はどうしたものかと、写真を見つめたまま悩む。しかしふと、この写真はどこでどうやって撮られたのだろうかと疑問になった。
「角度や部屋の状況からしてドア越しですかね」
「ん」
急に視線を部室のドアに向けて呟く玲明に、英嗣は面白いことを思いついたなと次の言葉を待つ。廉人が名探偵として有名で、あまり注目されることのない玲明だが、こちらも鋭い洞察力を持っているのだ。
その間にも玲明は写真を手に持ったまま英嗣の机を離れ、ドアからどうやれば写真と同じ角度になるのかを探し始める。
「ううん。これって結構、堂々と撮らないと無理ですね」
指でフレームを作って同じ角度を探り出す玲明は、ドア越しでは無理だとの結論に至った。どうやっても綺麗に部屋の中が写らない。しかし、周囲の状況からこれは窓越しに撮ったものではないことが解る。というのも、しっかり窓が写っているからだ。これが鏡を使って反射させた像でない限り、これはドアから撮ったものということになる。
「反射はなさそうですもんね。窓やその他の物の写り方から考えて、これも確定的です」
写真を目の前に翳したり自分の手で角度を探したりするも、どうやら一人の力では無理だと解る。
「小型カメラでも仕掛けていたんですかね。丁度あのあたり」
「ほう。たしかにそこならばドア側から堂々と撮れるね」
玲明が指差したのはドアの上。丁度数学部の指針が書かれた額があるところだ。
そう、これはある程度の高さがなければ撮れない。しかしあまりに上では顔がはっきり写らないだろう。そう考えると、二人の顔が写り部屋の状況もよく解るにはあの高さしかなかった。
「確信犯ですよね」
「たぶんね。となると、この脅迫に予め気づいていた人がいるってことになるね。そうでなければ、覗き趣味があったとしか思えない」
同じように額の位置を見つめていた英嗣の意見は棘がある。あまりに卑劣な手段だと考えているようだ。ただの覗き根性の結果、この写真を撮ったのだとすれば気分のいいものではない。
「一体何を脅す材料としたんでしょうね。結果的に大塚君は死に、しかも論文は不自然に捻じ曲げられた形で公表された。ということは、交渉は不成立に終わったとなりますね」
もしも犯人が写真に写っている浦川伸行ならば、という仮定が必要となるが。しかし、そんな安直な推理で通用するはずがない。
「とはいえ、一つのきっかけは見つかったようなものだね」
英嗣はここから調べ始めれば、当時あった問題が浮き彫りになるかもしれないと顎を擦る。それに玲明は、それはそうですけどと不満だ。なぜこの写真が自分に送られてきたのか。気持ち悪くて仕方がない。
「なぜ、俺に。っていうか、浦川先輩はどうして大塚を脅したんでしょう。意味不明なんですよね。このタイミングで写真が出てきたのは、論文のせいなんでしょうけど。でも、違和感です」
「そうだな。条件があやふやになる展開だ。ここはひとつあちらと情報のすり合わせを行うとするか」
そう言うと、昨日と同じく英嗣はさっさと立ち上がって出て行こうとする。ここのところ部活を放置している気がするがいいのか。
「あの」
「岸先生のところに行くよ。金岡さんから情報を聞いて、何か考えが生まれているかもしれないしね」
どこに行くのか。それは解っているだろと英嗣は笑う。たしかにそうなのだが、廉人たちも同じように行き詰っているはずだ。そう思う玲明だった。
情報を開示して解決に乗り出した玲明とは違い、手紙を受け取った卓也はそれを伏せることにした。ただでさえ卒業生たちの空気はピリピリしている。そこにこんな疑惑の手紙を放り込もうものならば、真相解明もままならないまま伸行が吊し上げられて終わりだ。それは益友が望む結果でしかないように思う。
「ひょっとして、浦川先輩を陥れるために」
思えば写真は脅しているように見えるし、手紙も何らかの理由で暢希を脅していたとは書かれているが、具体的な内容は触れられていない。ということは、この写真が真に脅しの現場を押さえたものではないのかもしれない。
「いや、無理か」
検証するために写真をスマホに収めておいた卓也は、ちらっと写真の画像を見て首を捻った。この写真の凄いところは二人の表情が綺麗に写っているということだ。他の解釈が不可能なほど、暢希の顔は深刻な表情をしている。いや、困惑しているという感じか。そして脅している伸行もまた切羽詰まった表情なのだ。
「はあ」
それにしても、久々に見た友人の顔がこんな困惑し深刻な顔というのは悲しい。まだ彼の死について悩んでいるというのに、新たな悩みが増えたようなものだ。
暢希は研究では何も悩んでいないようだった。しかし、プライベートはどうかしらない。彼女である弥生とは上手くいっているようだった。だが、こんな別の悩みを抱えていたとは。
「どうした。溜め息なんて吐いて」
憂鬱が思い切り顔に出ていたのだろう。今日も集まることになっていたケンキュウシツに、いつの間にか来ていた伸行がそう訊いてきた。
「い、いえ。このゼータ関数がどうにも上手く処理できなくて」
まさかあなたのことで悩んでいたなんて言えるはずもない。卓也はドキドキしつつもスマホの電源を落としていた。下手にOBたちがいる場所で考えない方がいいようだ。
「そうか。寺井君もあの難問に挑んでいるんだったな。やはり一筋縄ではいかないだろ」
伸行はそう言って苦笑する。そういえば伸行も何度かゼータ関数に関して考えていたという。もちろんそれは研究の片手間で、真剣にリーマン予想に挑もうとは思っていないとのことだった。
「内容が整理出来たら、一度見てもらってもいいですか」
「もちろん。俺がアドバイスできる内容ならば」
気楽に相談してくれと言い残し、伸行はそのまま一度研究室を出て行った。どうやらトイレに行くついでに声を掛けたらしい。まったく心臓に悪いことをしてくれる。
「ひょっとして」
手紙が自分に渡ったことを知っているのか。それで探りに来た。あまりのタイミングの良さに疑心暗鬼にならざるを得なかった。
案の定、廉人たちにも進展はなかった。しかし、新たな手掛かりとして写真が出てきたことに、廉人は素直に喜んだ。
「また妙な写真が出てきたものだな。しかも宛名はなし。匿名でのリークとしても、このタイミングというのは気になる」
が、写真を見た廉人が問題にしたのはタイミングだけだった。脅しの内容はどうでもいいと言わんばかりである。
「浦川先輩が何で脅していたか解れば、どうして大塚さんが死ぬことになったのか解るんじゃないか。少なくとも、何一つ問題がないと思われていたところに明確な問題が提示されたわけだし」
納得できないと玲明が訊くと、だからタイミングが良すぎるんだよと廉人は腕を組んだ。どう考えてもこちらが行き詰ったのを見透かしたようなタイミングだ。
「たしかにね。問題はこれがヒントなのか撹乱なのか。それでこの手紙の送り主が、犯人かそうでないかが分かれるようなものだ」
悩む廉人の言いたいことを、横にいた純平がかみ砕いて説明してくれた。たしかにそれは玲明も部室で悩んだ点だ。この写真を送り付けたのはどちらなのか。これは大きな問題である。
「しかもタイミングが良すぎる。我々があの事件を捜査していると知っていなければ、送り付けても無意味だ。そもそも数学部の所属時期が異なり、事件当時のことを詳しく知っているわけではない。自殺として不自然だったということは知っていても、それが具体的にどうしてなのかは知らないだろ」
本来ならば意味をなさない行動だよと廉人は続ける。
たしかにそうだ。自分たちがこの事件を考えている。その前提がなければこの手紙は威力を発揮しない。いくら色々と話題になっているとはいえ、数学部に所属する生徒が面白半分でネットに上げるはずがないからだ。
「どこかで、大塚の論文がまだ残っていることが漏れている、ってことか」
「そう考えるのが妥当だろうな。もちろん、当時のことを知っているOBOGのメンバーならば、他に論文がある可能性を考えるかもしれない。しかし、それを大谷先生に持ち込んでいるとは発想しないはずだ」
これが弥生でなければ、直接過去に接点のあった人たちに提供されていたはずだと廉人は断言する。
確かに、いくらその高校の卒業生とはいえ、今は全く違う顧問がいる数学部にこの論文を見せることはしないだろう。それよりは、暢希を知る誰かに意見を求めるのが建設的な行動だ。
「慎重に検討して、大谷先生ならばいいと判断した。それは金岡さんが言わなくても解ることだ。おそらく論文を発見した時に自分でも検証したことだろうしな」
論文の存在を知られないように、弥生は配慮している。それなのに漏れたのだと廉人は難しい顔になる。
この件が始め、親類が見つけたとだけ強調されていたのもそのためなのだ。弥生が噛んでいるとなればすぐに論文の内容が何かあると考えられ、より外に漏れやすくなるとの懸念があった。
「この手紙の主は、どういうわけか論文が数学部に持ち込まれたことを知ることが出来た。それだけではなく、こんな隠し撮りの写真まで持っている。これはどこかで監視している、もしくは同じような仕掛けをどこかに置いてあると考えるのが無難かな」
のほほんと言ってくれる英嗣に、玲明だけでなく廉人も同じように研究室の中を見渡していた。しかしどこもかしこも雑然としていて、隠し放題のように見えてしまった。弥生が来た時に片付けたテーブルも、すでに物で埋まっている。
「君たちさ。ここには仕掛けないよ。さすがの九条君も、見られているかもと思うと冷静さを失うようだね」
英嗣の指摘に、廉人はああと納得し僅かに赤面した。そうだ、ここは縁も所縁もない大学の、それも物理学の研究室なのだ。ここに仕掛けたところで、論文が持ち込まれる可能性はゼロに等しい。
「じゃあ、重要な内容になる度にこの研究室で話していたのは」
「いや、さすがにそこまで考えていなかったよ。たまたま。二人で考えても煮詰まる一方だからね。でも、今日話を切り上げたのはその可能性も考慮したというところだな」
玲明の問いに、そこまでではないとしれっと言う英嗣は曲者だ。あの時不快感を露わにしたのは、額縁に仕掛けられている可能性に気づいたからだったのだ。
「なるほど。金岡さんが訪れてきたことで、論文が他にあることに気づいたってことか。せっかく自殺で処理された大塚の死が、論文が話題になるだけではなく、他にも論文が出て来て蒸し返されようとしている。それに焦ったということか」
しかし、それだけでは今起こっていることの総てが説明できるわけではない。誘拐事件が発生しているのだ。これには一切の説明がつかない。一体、大塚暢希の自殺には、どんな秘密が隠されているというのか。
「大塚君の死の謎が大きな謎になってきたな。まさかここまで複雑に周囲に問題があったとは想像もしていなかったよ」
続々と出てくる疑問に、廉人の顔は厳しいものになっていた。
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