第8話 手紙

 翌日。

 再び研究室を訪れた弥生に向けて、まずは何を調べるべきか。その前に暢希は何を考えていたのか。それを知る必要があるなと純平は言う。

「なるほど。論文が明確に物理へとシフトしている、ですか。急に物理学や幾何学に転向したわけではないはずです。当然、そのきっかけがあるはずですよ」

 困惑の表情を浮かべた弥生に向け、廉人がフォローするようにそう付け足した。

「前々からどちらにも興味があったと思います。というより、興味のあることを一つに絞るのが苦手という感じの人でした。私と付き合ったきっかけも、物理に興味がある人が傍にいてほしい。そんな感じでしたから」

 戸惑ったままの弥生だったが、そう言えばというように告げる。つまり暢希は当初より一つの研究分野で終わるつもりはなかったということだ。

「となると、もともとがそういう考えだったとなると、大塚君は一つの分野に留まるつもりはなかったってことかな」

「えっ」

 一つの分野に留まるつもりはなかった。それは意外なようで、なるほどそうかと思わされる一言だ。

「つまり彼の中では様々な問題が同居していた。それに合わせて研究室を渡り歩くつもりで、研究者人生を設計していたってことですか」

 それは天才だからできることだなと、廉人は世の中には凄い奴がいるものだなと感心するしかない。しかし、そうなると研究の場を日本にすることは出来ないだろうなとも思った。何かと人間関係の細々とした日本では、そう簡単に実力があるからといって研究室を渡り歩けるものではない。

「前提にそれを置かないと事実を見誤りそうだね。つまり彼の論文もまたどの分野に限るってことはなかったわけだ。そうなると、代数学の一分野である群論をやっていたのに次が幾何学でも何の違和感もないことになる。もちろん、我々の前にあるこれもね」

 純平はテーブルの上に置いていた暢希の数学と物理学についての考察の論文を指差した。

「そうですね。あの人ならば、学問の垣根なんて簡単に超えようとするでしょう」

 それがどういう影響を及ぼすかを考えることもなくと、弥生は切なげな顔になる。幼い印象があるだけに、その表情は痛々しさがあった。

「まあ、実力がその面倒なことを超えてしまうこともある。こればかりはやってみないと解らないことだからね」

 決めつけるのは良くないよと、人生の先輩である純平はしたり顔で言う。たしかに可能性はゼロではない。しかし難しさは伴う。

「可能性はあったかもしれないというわけですか。というより、大塚さんにはその可能性が大きかったからこそ事件になったのではないか、そう先生は考えているんですね」

 廉人は純平が何を言いたいのか正確に汲み取り、なるほど背後関係は大きそうだなと腕を組む。となると、やはり部活で大きな影響を持っていたという益友を疑ってしまうところだ。

「疑わしい人間が常に犯人とは限らない。そういうものだろ」

 悩む廉人に、もっと視野を広げないとと純平は笑う。ということは、純平は全く益友を問題視していないということだ。

「はあ。つまり勘違いされやすいタイプってことですか」

「だろうね。そのせいで敵を作りやすいが、一度彼の性格を知ってしまえば仕方ないかで済ませられるくらいのもんなんだろう。粗雑なところが目に付くが、だからといって大きなトラブルはない。それこそ、この推測が正しいという事実だ。ということは、大塚君もその辺はよく理解していたはずだ」

 違うかなと、純平は笑顔で弥生に同意を求める。

「そうですね。私といる時に東郷さんの話題が出ることもありましたし、悪い印象を持っているという感じじゃなかったです」

 考えると互いによく知る関係であったことは間違いない。暢希が益友の性格を掴んでいなかったとも考えられない。ということは、彼が真っ先に容疑者から外れる人間になるというわけだ。

「親しかったからといって総てを許していたとは限らない、ってこともありますよね」

 果たして本当に知っていて許していたのか。トラブルはなかったのか。弥生の顔に浮かんだ疑問を読み取り、廉人が代わりに質問した。

「まあ、人間を数式のように考えることは無理だからね。必ず同じ解が出るとは限らないだろう。誤解されやすい性格であることは間違いないわけだからね。しかし、それならば大塚君は我慢して数学部にいる必要はなかっただろう。金岡さんのいる科学部に移ったとしても、問題なく研究できたと思うよ」

「ううん。でも、そうなると、あのメンバーの中で大塚さんを恨む人はいたのだろうかという疑問になりますね。先ずは他の人にも色々な分野に興味があることを話していたのか。この点に関してはどうですか」

 廉人は論点を絞って質問する。この問題の場合、絞り込んで可能性を消す以外に解を求める方法がないのだ。それは今までのやり取りで学習済みである。

「そうですね。暢希君の性格からして隠すことはなかったと思います。ちょっと素直すぎるところがあると、彼女の私でも思うくらいでしたから」

 だからこそ何かトラブルがあったのではないか。恋人だった弥生がそう疑うのも頷ける。なるほど、困った性格をしているのは一人ではなかったのだ。

「ふうむ。そうなると、大塚さんの真意を知っていたかは別として、誰もが様々な問題に取り組んでいることは知っていた。そう考えていいってことですね」

「はい。特に仲の良かった同い年の寺井君には何でも喋っていたと思います。だから、一分野に拘りたくないというのを隠していたとは思えません」

 つまり堂々と何でも喋るタイプだったというわけだ。徐々に謎の天才数学者だった大塚暢希の人となりが見えてくる。廉人の中で高校の中に一人はいる、何でも出来てクラスの人気者、しかも顔がいいというイメージが出来上がっていた。

「全員がそれだけの認識を持っていたとなると、嫉妬するのは年齢が近いか、もしくは微妙な立ち位置にいる人ってなりますね」

 そしてそういう人物はえてして、知らず知らずのうちに恨まれていることがある。あくまで経験則でしかないが、近くにいると劣等感を覚えることがあるのがこのタイプの人だ。となると、暢希の死に関わるのはそう感じやすい位置にいる人となる。

「最初に考えるのはそこになるだろうね。仲の良かったという寺井君に関して教えてくれるかな。彼は数学科に進んだのかな」

「はい。暢希君の分も研究するんだって、有名な教授のいる大学に進んでいます。その、寺井君が犯人だとは思えません。彼もずっと、同じように暢希君のことを疑問に思っていますから」

 別に庇っているわけではなく、よく知るからこそ断言できるという感じだ。

「本当の親友だったわけですね」

「ええ、そうです。暢希君の葬儀の時も誰よりも泣いていて、私が励ます羽目になったほどです」

 そう苦笑する弥生からは、卓也に関して悪い印象を持っていないことが伝わってくる。ううん、ライバルというのが次に怪しい奴だったのにと廉人は困惑する。友人だったのならばまずそういう関係だっただろうに。つまり怪しい順に可能性が消えているというわけだ。

「ええっと、ひょっとしてこの米田さんも同期ですか」

「米田さんですか。いえ、私は知らない方です」

 同い年で卓也と同じくライバルかと思った米田啓輔だったが、弥生は知らないという。数学科のOBに名前が入っているが、彼は転校生だったのか。二年生の時に転校なんて珍しいが、皆無ではない。

「ということは、事件後にこっちに来たってことですね。後は岡崎さんですね。彼はどうですか」

「知ってます。下の名前は雄大さんですよね」

 こちらは前からいる人物のようだ。廉人はほっとすると雄大について訊く。

「この人はどんな感じですか」

 まずはどういう人物なのかを知らなければ始まらない。年齢が近いからといって疑うわけにはいかないのだ。

「そうですね。優しい人ですよ。物腰も柔らかですし。どちらかと言えば、トラブルを回避することを考える方です」

 どう説明しようか、そう悩んだ後に弥生は雄大を好印象の人物という評価をした。これに廉人はやはりかと肩を落とす。この問題、怪しい人物が悉く容疑者から外れていくらしい。

「大塚さんとも上手くやっていたわけですね」

 質問ではなくもはや確認だ。それに弥生は躊躇いなく頷く。廉人は次だなと、それ以上は質問せずに名簿に目を落とした。

「他は、ああ。行方不明になっているという藤川さんですね。こちらはどうですか」

「えっ、行方不明」

 それに対して弥生が示した反応は戸惑いだった。それに純平が駄目だろと廉人を睨む。どうやら英嗣は心配掛けまいと弥生にこの事実を伏せていたようだ。

「あー、あのですね」

「藤川さんは本当に行方不明なんですか」

 どうしようと驚きを隠せない弥生に、純平はそうですと重々しく告げる。廉人はおいっと、相手が教授であることを忘れてツッコミそうになった。しかし純平はこちらに目配せしてきて、大丈夫だと告げてくる。ここは、あまり信用できないとは言わずに、黙って成り行きを見守るしかなさそうだ。

「あの、それで藤川さんは」

「高校にカバンを残し、行方不明となっています。どうやら彼女も大塚君の自殺が気になっていたようですね。今、東郷君たちも動いて、全力を上げて探していますので安心してください。いくつか手掛かりが見つかっているようですから」

 落ち着いた、そして感情的ではない純平の声に、弥生はすぐに落ち着きを取り戻した。それにしても手掛かりがあるなんて嘘もいいところだ。正確には行方不明が第三者の手によるという証拠があっただけである。

「そうですか。手掛かりがあるのなら――でも、驚きです。藤川さんは勝気なタイプというか、何か嫌なことがあった時か研究で行き詰った時も、誰にも行き先を告げずに姿を消すなんてことはない人ですから」

 思い掛けず理那のことをどう思っているかまで聞けてしまった。それにしても、理那は弥生とは異なるタイプの女性であるらしい。

「その、藤川さんと大塚さんの関係はどうでしたか」

 今はそれより理那と暢希の間に何かトラブルはなかったか。こちらは理那の行方不明事件には関与しないと決めている以上、他に情報も持っていない。詳しく聞かれないうちに話題を元に戻したかった。

「そうですね。普通に議論する仲間というところでしょうか。私と暢希君が付き合っていることは数学部では誰もが知っていましたし、トラブルはなかったと思います」

「ふうむ」

 そうなると、今のところ目に見えたトラブルはやはりなかったと判断せざるを得ないらしい。尤も、これはすでに前提条件としてあったことだ。しかしこうも手掛かりがないと困惑するしかない。

「考えられるのは大塚さんが物理学も網羅的にこなそうとしていた事実。これが引き金になったということだけなんですけどね。しかし誰かが恨むようなことはなかった、か。ううん」

 声に出してみても解決策は思い浮かばない。これはどうやれば解が求まるのだろうか。

「当時を知っているといえば、この人。浦川さんはどうなの」

 腕を組んで唸る廉人から名簿を取り上げた純平は、その名前を指差して弥生に訊く。

「浦川さんですか。暢希君はよくその先輩に質問していたので、親しい間柄だったと思いますよ。そもそも浦川さんは穏やかな性格の方ですし、トラブルになることはないと思います」

 しかし対象を先輩に広げても結果は同じだった。どうやら暢希は人の恨みを買うタイプではないらしいということが、より確定的になっただけだった。

「どうして死んだのか、か」

 この問題へのアプローチを変えるならば方法論に切り替えるしかないのか。廉人は眠っていたようだったという暢希の死の真相が、ますます難問にしか思えなかった。






 暢希というと、いつも部室いるイメージがあった。朝、誰よりも先に部室にいる。夜は夜で残れる時間まで残る。そういう奴だった。

 だからあの日も、すでに部室にいるのだろうと思った。そしてその姿を部室のソファで見つけたのだ。疲れて眠ってしまっているようだった。

 仕方ない奴だなと思いつつも、たまにはそういう抜けているところがあるというのも面白いかと思い直して近づいたのだ。

 もちろん、目に飛び込んできたのは衝撃的な場面などではない。ただ普通に寝ている暢希の姿だ。顔がほんのりと赤くて、よくこんなひんやりとした部屋で気持ちよさそうに寝ているものだと、最初はただ呆れていた。しかし、何かが違うと徐々に悟ったことを覚えている。

「暢希」

 そう声を掛けつつゆっくりとソファに近づいた。そして初めに抱いた違和感の正体に気づく。そうだ。仰向けに寝ているというのに、胸が上下する動きが見られない。顔がほんのりと赤いというのに、全く身動ぎもしなくて生きているように見えない。

「――」

 それが意味することに気づくと、大慌てで駆け寄っていた。そして信じられないと暢希の肩を揺すろうとしたのだ。しかし――

「うっ」

 たまたま触れた暢希の冷たい手に、思わず腰が抜けた。初めて死体に触れたのだから、これはどうしようもない。その冷たさは、今でも思い出すほどだ。そう、それはひやっとした独特の感覚だ。


「っつ」

 そこで夢が途切れ、卓也はのろのろと身体を起こした。

 何かひやっとした感覚があったなと思えば、それは昨日の風呂上りに放り投げたバスタオルだった。独り暮らしの部屋は朝になると完全に冷え切っており、その影響で濡れたタオルも氷のように冷たくなったようだ。それが丁度良く冷え切っていたあの研究室と休憩室のイメージと重なり、タオルを暢希の手だと思ってしまって、あの日の夢をみたらしい。

「今年の冬は寒すぎるだろ。あれがあったのは、一月の本当に寒い時期だったのに」

 その濡れたタオルのせいで暢希のことを夢に見たとなると、何ともやるせない気分になる。卓也はそのタオルを持って布団から抜け出した。そしてそのまま洗濯機の中に放り込む。

 ふと横にある鏡に目を向けると、随分と酷い顔をした自分が映っている。あの夢のせいで完全に寝不足になってしまった。目の下にはくっきりと隈がある。

「はあ。ただでさえ噂のせいで大変だっていうのに、藤川さんはどこに行ったんだか」

 暢希のことではない問題に目を背けないとやっていらない。そんな気分から理那のことを考えてみたが、やはり暢希の問題に戻るだけだった。そう、手掛かりを探している途中に暢希のペンを見つけてしまった。

「でもな、どうして今更あいつのペンが。誰かが持っていたってことになるよな」

 考えてみれば不思議なもので、あのペンが偶然落ちている可能性が排除されるだけに、では誰がずっと持っていたのかと思う。まさか弥生だろうか。

しかし、弥生が理那を誘拐するとは思えなかった。それよりももっと賢い手段を取ることだろう。

「はあ」

 完全に寝不足のせいで頭が回っていないなと、卓也は寝ぐせだらけの頭を掻き毟る。そしてこのままではダメだと蛇口を捻った。そのまま冷たい水に頭を突っ込む。

 どうして死んだのか。どうやって死んだのか。それはずっと疑問だった。しかし死という不可逆反応を前に、思考は完全に停止してしまった。考えたところで暢希が戻ってくるわけではない。ただ事実を受け入れるだけでいい。数学部全体がそういう心理の中にいたと思う。

 だからこそ、噂が出ただけでも過剰反応を示してしまうのだ。益友の反応は、全員共通の反応と言っていい。程度の差なのだ。

本当のところを言えば、卓也だって誰が今更蒸し返しているんだと怒鳴りたい気分になる。

「でも、それは目を背けているだけだな」

 冷たい水のおかげで目が覚めた卓也は、洗面台から顔を上げた。水を止めると、近くに掛けてあったタオルで頭を拭く。こんなことならばさっきのタオルを置いておくんだったとも思ったが、あの夢の原因のタオルで拭くのもどうかと苦笑する。

「ん」

 さて大学に行く用意を始めるかと台所に向かう途中、ふと玄関先に目をやると靴の上に何かが落ちている。また何かのチラシかと思うが、よく見ると封筒だ。

「何だ、これ」

 白い封筒には寺井卓也様と明朝体で印字されている。何とも素っ気ないものだ。裏には当然のように差出人が書かれていない。

「こういう怪しい封筒が自分に届くなんて」

 ひょっとして夢の続きかと思うが、濡れた髪が現実に起こったことだと知らせてくる。ではどうすればいいのか。こういう場合、開ける以外の選択肢はないらしい。見ないで済ますのは怖いからだ。

「一昔前にあった、炭疽菌入りとかはなしだぞ」

 興味はあるものの怖さもある。一人しかいないというのに冗談を飛ばしつつ、卓也は意を決して封を開けることにした。

 しかし、冗談として考えたことが本当だったら困ると、開けるのは慎重になる。カップ麺やコンビニ弁当のカラで埋まるテーブルの上を片付け、一応の備えとしてマスクを着けると、何が入っていてもいいようにゆっくり開封する。

「ふう」

 中には怪しいものはなく、一枚の手紙とその間に挟まるように写真が同封されていた。

「さて、何が書かれていて何が写っているのやら」

 普通のものしか入っていないとはいえ、これは差出人不明の手紙だ。妙なことが書かれているに違いない。これが益友の不祥事ならば少しは笑えるが、残念ながら状況からしてその可能性は低そうだ。

 そっと手紙を開くと、こちらも明朝体で打ち出された文章だった。パソコンで作成されていて、差出人の名前は当然のようにない。

「えっ」

 しかし問題は内容だ。予想もしていなかった内容に、卓也の目はその手紙に釘付けとなる。証拠だという写真に目を向けると、もう混乱しかなかった。

「どういう、ううん」

 手紙の主の勘違いで済ませたいところだが、写真は誤魔化しようがない。隠し撮りされたそれは、明確に事実を伝えてくる。その切羽詰まった状況は脅しているとしか言いようがない。胸ぐらを掴んだ状態であることも、手紙の通りだと思わせるものだ。

「それにしても浦川先輩か」

 予想もしていなかったなと思うと同時に、どうして自分にこれが届いたのかと疑問になる。そして、秘密を知ってしまったことに変わりはない。

 手紙と写真。

 そこに示されていたのは、伸行が何らかの理由があって暢希を脅していたらしいという事実だった。

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