第7話 進路変更

 一方――弥生を送り出した後の英嗣と玲明も、論文を挟んでどう考えるべきなのかという議論を繰り広げていた。

「手掛かりはこの最初の論文の違和感だと思うんです。それが解れば、どうして次の論文が群論に依拠しないトポロジーだったのかも解るかもしれないです」

 玲明がそう意気込んで言うと、なるほど、違和感があったのかと英嗣は感心したように頷く。

「気づいてなかったんですか」

「いや。奇妙だなって感覚はあったよ。それにしても、物理学の問題そのものに取り組んでいたとはね。だから途中から不思議な感じがするなって思ったわけか」

 英嗣はそうぬけぬけと言ってくれる。本当はすぐに気づいていただろうに。だったら早めに教えてほしいところだ。この先生は時折よく解らない意地悪をしてくれるから困る。

「で、ですね。この論文。誰かが書き換えた可能性はないですか」

というわけで、さっさと本題に入ってしまう。

「なるほど。途中で誰かが手を加えたから違和感を覚える。例えば妙に抽象概念化されているとか」

「そうです」

「ううん、そうだな。たしかにゲージ群のみを論じるものになっていない出だしだというのに、そこへの言及が後半にない。そもそもそれだけを考えていたわけではないのは明らかだ。何か所に最後への結論へと繋げようと、違う数式が入っている。しかし、その具体的に何を書こうとしていたのか。それがどこにもない。もちろん群論に関する証明、このリー群に関する新たな証明は完璧だ。しかしおかげで全体の統一感はなくなってしまっている」

「ええ。だから一本の論文として、もちろん素晴らしいものにはなっているんですけど、どうにも奇異な論文に見えてしまうんです。表題も、どこを見てもゲージ群のRにおける性質についてとしか書かれていません。その先にも議論は進んでいますが、ここから途端に抽象的で、とても数学としての群論で論じるべきものではないように感じてしまう。そして、それだけだったのかという疑問も生まれる。これだけ完璧な論文であるにもかかわらず、中心がすっぽりと抜け落ちているような感覚になるんです」

 同じ考えに至ったということは、同じ疑問を持っているはずだ。玲明はこれまで感じたことを思い切り英嗣にぶつけてみた。すると英嗣は大きく頷いた。

「確かにそのとおりだ。なるほど、この論文は実際には物理学だけのものだったかもしれないわけだ」

「はい」

 まさにそのとおりだ。この奇妙な違和感。実は論文をただ書き直しただけでなく、あえて物理学要素を排除したのではないかと思えるものだ。この論文の本来のテーマはゲージ群のみであり、中心にあったのはあのミレニアム問題だったはずだ。ということは、ここで扱うべきは他の群ではなくゲージ理論そのものでなければならない。

 ゲージ理論とはすべてが観測可能な量がゲージ変換に対して不変に保たれるようにつくられた場の量子論のことだ。

「次の論文が幾何学だったのは何も偶然ではない。彼はどこかで物理学へと心が動かされていた。どちらも出来る人だったというのは、他の論文を見ても明確に示されているからね。ということはだ」

「大塚暢希は大学では物理学に進む予定だったかもしれない、ということですね」

 二人は意外な結論に、しばし黙り込んでしまう。果たしてこれで合っているのか。それは解らないが、暢希が数学だけでは満足出来なかったのは間違いないだろう。それこそ、彼女である弥生の影響もあったのではないか。

「三年前に何があったか。正確に知る必要がありそうですね」

 玲明は徐々に深い泥沼にはまっていくような、底知れぬ問題に手を出してしまったような感覚に陥っていた。




 同じように泥沼にはまったかのような感覚に陥っているのがOBたちだった。この間と同じく、空いていた研究室で緊急会議が開かれていた。

「どういうことだ。大塚のペンが落ちていただなんて。それも高校の敷地内にだと。やはり大塚の噂が広まったのと今回の事件は関係があるってことか」

 益友は落ち着きなく貧乏揺すりを始めた。ここ最近、特に暢希の話題になると落ち着きのなくなる益友だが、今日は特にひどく動揺していた。

「そう考えるしかなさそうですね。論文が再認識されたのはたまたまとしても、ネット上での大塚君の噂は、誰かが意図してやっているのかもしれません」

 そう言ってのけたのは、昨日は無関心な態度であったものの今日一日は捜査をしていた伸行だ。さすがに死者の冒涜だと、この話には関わりたくないとの態度は貫けなくなっている。それに問題は理那だ。彼女はどこに行ってしまったのか。

「それに合わせて藤川さんの誘拐か。ということは、相手は当然、大塚が自殺したとは信じていない人ってことですね」

 昨日と同じく深刻さの薄い啓輔は薄く笑う。まるでここからが見ものだと言っているかのようである。その態度はしかし事実であろう。今からここで話し合われること。それは過去の問題を直視せずには無理だ。

「自殺を信じていないだと。あれは警察すら自殺だと認めたものだ。たしかに、どうやって死んだのか。その方法は杳として知れない。しかし断定する証拠もなしに警察が事件を自殺として処理するなんてない。そうだな」

 益友はイライラと、警察の判断が総てだと言い切る。しかしこれに頷く者は、今日に限ってはいなかった。その場にいた誰もが視線を交わし、何か言えよと押し付け合う。そして誰も言えるわけないと逸らしてしまう。

「見落としがあるのかもしれません。自殺と断定したのは、状況的に誰かが殺したとは思えなかったからとしか言いようがないんじゃないですか」

 そう言ったのは暢希を良く知る卓也だ。彼もまたこの三年間、友人の死が本当に自殺だったのかと悩んでいた。今、そう告白したようなものだ。

益友は何か言いたげに口を開いたものの、この状況で叱責するのは余計に疑惑を強めるだけだと押し黙った。どれだけイライラしていても、そういう判断を誤ることはない。そうでなければ粗暴だと言われる彼が、大きなトラブルを起こさずに今まで無事に過ごせるはずがないのだ。

「岡崎君はどう思う」

 このまま卓也を針の筵に座らせておくわけにはいかないと、伸行が話を雄大に振った。すると雄大は困惑の表情を浮かべる。しかし、気が弱く人のいい彼は仕方なしに意見を述べた。

「俺ですか。まあ確かに、自殺するようには見えなかったですね。ただ、方法が解らないので、どちらとも判断しかねるとしか」

 誤魔化すわけではなく、本当にどちらの可能性もあるのではないかと考えている。そんな思いが困り顔とともにあった。

「それはそうだな。俺も、どちらとも判断できないから今回の噂は許せないと思った。人の死というものを、まるで謎解きゲームのように遊んでしまう。それが小説の中であったらまだ解るが、これは実際に生きていた人間に起こっていることだ。知っている人間についてあれこれ勝手な憶測を書かれるのは、我慢できない」

 それは今、この研究室にいる全員の思いだろう。啓輔ですらこれにはそのとおりだと頷く。実際に暢希を知っている人たちがいて、同じ時間を共有し、色々なことがあったのだろう。そんな様々なことを知らずに勝手に面白おかしく書き立てるのは、たとえ間接的にしか知らないとしても気持ち悪いものだ。

「死の真相。そんなものを知ってどうなるというんだ。別に大塚の名誉が汚されたわけではない。ここで藤川に何かあった方が、よほど大変だ」

 話はここまでだと、苛々がもう限界に達した益友は何の話し合いも行われていないというのに席を立ってしまった。しかし他のメンバーはすぐにそうとはいかない。

「丁度良くボスもいなくなったことだし、皆さんの意見を聞かせてくださいよ。今のところ、俺はこの話し合いに加わっているものの、部外者に近い状態なんです」

 席を立たずに失敗したかともじもじとする雄大と伸行、そしてどうしたものかと悩む卓也に向けて啓輔はそう頼んだ。

「まあ、構いませんよ」

 卓也は隠すこともないからとすぐに応じ、今まであれこれ思い出したことを掻い摘んで教えた。もちろん、ポアンカレやリーマン予想といった難問から物理学にも興味を持っていたことを含めてだ。別に隠すことは何もないので、正直に答えていた。

「なるほど。聞いているだけでも天才だと解る人ですね」

 啓輔は、今までも馬鹿にしていたわけではないが、凄い人物だったのだと認識を新たにした。

「では、次は俺が話そうか」

 予備知識も得たことだしと、次に語り出したのは意外にも雄大だった。




 雄大の目から見て、暢希はまさにオイラーやポアンカレの再来のような人物だった。どんな難問であっても簡単に論じられてしまう。それはもちろん羨ましかったが、そんな凄い奴と同じ場にいられることが、何より嬉しかった。これほど刺激的なことはないと感じたものである。

「たしか群論の対称性に関してやっているんだったな。どうだ。具体的なアプローチは見えてきたか」

 そうやって、まずは暢希の論文に関して質問してから会話に入るのが雄大の癖だった。というのも、どうにも暢希の研究の邪魔をしているとの思いが強くなるせいだ。せめて彼の研究に関することを話題にすることで時間を無駄にさせていないとの印象を付けたかった。

「ええ。そうですね。現在のところゲージ群の対称性を参考に出来ないかと考えているんですけど」

 そして暢希の方もそう声を掛ける雄大のことを嫌ってないようで、毎回違う切り口の質問だというのに、ここはこう考えている、その問題にはこうアプローチしたいと答えてくれるのだ。

「物理学のか。そこから数学的な新たな手法は見つかりそうか」

「ええ。今の物理学は数学の高度な知識を利用していますからね。尤も、証明の方法が違うので困惑することも多いです。しかし有用なものだとされているならば、何かヒントになるのではないかと思っています」

 暢希は嬉しそうに笑い、さらっと物理学の内容には触れて違うことをやっているとの印象を付けていた。それが意味することを雄大が気づくことはなかった。そして次は雄大の研究についてだとばかりに言葉を待つ。

「ああ、そうだったな。俺の研究は今、暗礁に乗り上げているかのように進まなくて困るよ。物理学がヒントになってくれるなんてこともないな」

 気分転換に話し掛けたんだがと、雄大は頭を掻いて誤魔化すように言う。実際に研究は進んでいない。しかし議論する中で何か掴めるのではとの気持ちもあった。もちろん、気分転換に暢希の研究について聞きたいというのも嘘ではない。

「先輩の研究は確か、楕円曲線でのL関数に関してでしたよね。ミレニアム問題の一つになっている、バーチ・スウィンナートン=ダイアー予想にも使われる、様々な問題を含むものでしたね」

 暢希はそう言って目を輝かせる。本気で数学が好きで、あらゆる問題に取り組みたいと考えているのがよく解った。それだけに雄大はそこからあらゆる質問を浴びせてしまう。これもいつものことだった。L関数はゼータ関数の親戚とも呼ばれるもので、オイラー積を使って表すことが出来る。雄大はその性質を利用してある証明を解こうとしていたのだ。

「オイラー積についてですか。素数も絡む問題ですね」

「ああ。だからこそ難しいんだけどさ」

 自分の研究の行き詰まりの原因も、彼にすれば何の問題でもないのではないか。そう思うこともあった。が、暢希はいつもそこでヒントを述べるだけで、自らがその問題に取り組もうとはしない。この時も、今では忘れてしまったが何らかのアドバイスをもらったのだ。

「俺には違う問題がありますからね。こちらが解決していないのに別の問題なんて考えられないですよ」

 暢希のそれが謙遜なのか、それとも本心なのか。ただ、雄大はこいつこそ本物の天才だ、そう確信させるばかりだった。




「そんな感じで、俺の研究にすらアドバイスのできる奴だったんだよ」

 そう言って雄大は締め括った。まさに天才。非の打ち所がないほど広範な知識と理解を持っている。それが啓輔にもよく理解できた。それだけに彼の死がより神秘的はモノになっているのだということも解る。

 天才という言葉は二つのニュアンスを持ちがちだ。

一つは自分では理解できないほどの知識を持つ、憧れの意味での天才。

そしてもう一つは自分たちとは異なる存在なのだという否定的な意味での天才だ。世間が後者の意味で面白おかしく書き立てていることは誰の目にも明らかだ。

 天才だからその死を理解できなくて当然。しかし、天才であったから誰かに恨まれたのではないか。死が不可解なのも、暢希の天才性を示すものとして捉える向きと嫉妬ゆえの事件だとするものが存在する。

 嫉妬とすれば犯人がいる。その犯人はもちろん身近にいた人たちの中にいるはずだ。実際、噂の中には研究室のメンバーの実名を挙げるものもあった。それだけに不快感はより強いものとなってしまう。

「そんな凄い人が、ある日突然死を思う。この可能性があったと思いますか」

 だからこそ、啓輔はストレートな質問を雄大にぶつけていた。先ほど雄大はどちらともいえないという態度だったが、では自殺を疑うようなものはあったのか。

「そうだな。自殺するようには見えなかった。これが正直な思いだ。でも、人間の考えていることは傍にいたからといって解るものではない。実際に大塚が悩んでいなかったか、それを知ることは無理だったと思う」

 気持ちだけに従えば、そうだと雄大は自殺が疑わしいことを認めた。しかし、この問題には大きな欠陥がある。それはもちろん、どちらだとしても死に至った方法が不明だということだ。それに暢希と親しく話したのは数学の話だけ。実際に何を考えていたのか。それは解らないのだ。

「難しいですね」

 啓輔はこの問題から理那の行方の手掛かりを掴むのは無理かと、何かヒントはないものかと、この難解な問題にどっぷりとはまり込んでいた。

「どうしてでしょうね」

 今の二人の話の根本的な差。卓也は暢希が物理学にも興味があり、それを研究対象にしていたと断言したのに、雄大はそれほど大きく取り扱っていないかのような言い方だった。

「俺も話題になっている論文を読んでみようかな。では、先に出ます」

 啓輔は第三者の視点からこの事件を考えたいと思うようになった。どう考えても、先輩たちの反応はおかしい。

「じゃあ、俺がダウンロードしておきますよ。どこに保存されているか知ってますから」

「おっ、悪いね」

 卓也の申し出に、啓輔は素直に甘えることにした。だからその時、雄大がどんな顔をしていたのか。この時の啓輔は気づかずにいた。

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