第6話 彼女の証言
暢希の研究はいよいよ大詰めという感じだった。だからか、暢希はこの頃から部室でそのことを話題にする事が少なくなっていた。その代わりに、憧れだというペレルマンの話題が多くなっていた。
「議論が研究の進展に大きな役割を果たすことは誰だって知っていることだ。しかしペレルマンはその過程なしに、自らの着想だけで解いてしまった。その思考過程は凄いものだよな」
暢希がそう言うので、お前もだろうがと言いたいのを卓也は飲み込むことになる。
「百万ドルの授与を断ってから完全に姿を消してしまったな。もう数学を辞めてしまったんだろうか。それほどまでに、ポアンカレ予想に精魂込めていたということだろうか」
暢希はペレルマンの数学者としての側面を知りたがっていた。しかし、ペレルマンが数学から離れた理由は誰にも解らない。
後々に読んだ書籍によると、人間関係が上手く築けなかったことが大きな要因のようだが、しかし、こうだと断定できるものではない。それこそ、これより数か月後に暢希が死ぬという事実がこの段階では全く推測できないのと同じだ。
そのペレルマンはロシアの数学者で、高校生の時に出場した国際数学オリンピックで、全問満点正解で金メダルを獲得したとの逸話がある。そう、自分たちと同じ高校生だ。ここに心ときめくものがあるのは間違いない。
さらに難問とされていたソウル予想の解決。この論文はたった五ページで、その簡潔さが話題になった。
ソウル予想とは数学的なある小さな一部から、その対象全体の性質を導き出せるというもので、その数学的なある小さな一部をソウル、つまり魂と名付けたことに由来する。
「そんなことよりさ。これ、どう思う」
卓也はそんな稀代の変人よりも自分の研究の話を聞いてくれと、無理やり話題を打ち切っていた。自分が少しでも暢希と同じ景色を見たい。そう思っていることに気づいてくれと願うように――
難解な数学ばかりを相手にしていられないと、廉人は純平の研究室の中で事件について考えていた。ここに廉人がいるのはいつものことなので、純平も他の研究員も何も言わない。それに高校のように他の依頼が舞い込むこともないから、集中できる空間だ。
「大塚暢希の死について、か」
しかし、事件は三年前。自分の目で現場を見たわけではなく、死体を見たわけでもない。それだけに、想像の要因が多すぎてきっちりした推理が組み立てられない。
不可解な綺麗な死体。
アナフィラキシー症候群の反応があったのに、どうして綺麗だったのだろう。
通常、アナフィラキシーを発症すると、皮膚症状や粘膜症状が出るのが一般的だ。全身の発疹、紅潮、浮腫など目で見て解りやすいものが出る。さらに呼吸困難や血圧低下、腹部疼痛に嘔吐など苦しい症状を伴うから、そのまま死んだ場合、綺麗な死体とはなり得ないはずだ。
さらに、アナフィラキシーショックであったとすると、毛細血管の拡張を引き起こす。これもまた、目で確認できる症状のはずだ。
やはり、アナフィラキシーが引き金となって死んだのならば、綺麗な死体であったという事実と矛盾する。
「ううん」
さらに明け方、こっそりと部室で死んでいた理由は何か。いや、今は自殺を否定する要因が多いのだから、殺された理由は何かと考えるべきか。彼の才能は誰よりも突出していた。となれば、やっかみや妬みがあったのは否定出来ない。しかし、それが殺すほどの憎しみに発展するかは不明だ。
集中してしばらく事件の考察をしていると、研究室のドアをノックする音がした。
「はい」
たまたまドアの近くにいた純平が自らドアを開ける。五十とは思えないフットワークの軽さを持っているのだ。
「おや」
「初めまして。大谷先生に伺いましたら、こちらの研究室でも暢希君、いえ、大塚君の論文を扱っていると聞きまして」
そこにいたのは、大学生にしては幼い印象を受ける、可愛らしい女性だった。しかし暢希の名前が出たことですぐに誰かは理解できる。
「ああ。ひょっとして大塚君の彼女だという」
「え、ええ。
そんな大声で言ってやるなよと廉人は思ったが、金岡弥生は物怖じすることなく答えるとぺこりと頭を下げて名乗った。さすがは数学部出身だなと、廉人は変人慣れしていて助かると胸を撫で下ろした。しかしいつまでも純平に任せていては困らせる一方だなと、廉人は入口へと向かう。
「こんばんは。私は大塚先輩たちが通っていた高校の生徒で、岸先生とも面識のある者です。当時の状況を聞きたいと思っていたところですよ。どうぞ」
そして笑顔とともに弥生を中に招き入れた。夜の八時とあって、いつの間にか他の研究員は帰ってしまっていた。だから、この中で話を聞いても問題ない。
というわけで、弥生を研究室の片隅に申し訳程度にある来客用のスペースに案内した。しかし、日頃の適当さが祟り、来客用のソファとテーブルの上には容赦なく本や資料が積まれていた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「え、そんな、お構いなく」
そんな感じの会話を交わして適当に本と資料を退け、これには客人であるはずの弥生も手伝ってくれてすぐに済み、何とか話し合いを持てる状態になった。片づけを手伝うことはなかった純平だが、ちゃんと三人分の缶コーヒーを持ってきたので助かった。
「すみません。予め連絡できればよかったのですが、大谷先生がすぐに行けとおっしゃるものだから、連絡してあるものだと思ってました」
「はは。彼らしい。大丈夫ですよ。お見苦しいところを見せてしまいましたね」
缶コーヒーを受け取って謝る弥生に、お構いなくと純平は笑う。実際は客である弥生の手を煩わせる事態になっていたが、連絡が事前に入っていても大差なかったことだろう。
「それで、大塚さんについてですよね。あの、俺たち大塚さんの顔も知らないんですよ。もし写真を持っていたら見せてもらえませんか」
「あ、はい。何枚か残してあるはずです」
こういう時、スマホは便利だなとつくづく思う。それと同時に、弥生がすぐにスマホから暢希の写真を探し出したので、未だに忘れられないとの気持ちがあることを知ってしまった。
「これです。どうぞ」
弥生から受け取ったスマホに写る暢希は、悔しいかなイケメンだった。くそ、美男美女かよと廉人は顔に出さないものの不満だった。出来れば不細工であってほしかったというのは、高校生らしい意地の張り合いというところだ。日頃は名探偵だなんて持ち上げられる廉人だが、未だに彼女が出来なくて、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ不満なのである。
「素敵な方だったんですね」
自分の本心を隠してこう言わなければならない悲しさたるやない。しかし、これ以外の表現が思いつかなかった。
「ええ。どうしてあんなことになったのか。今でも頭が理解できていないほどです」
弥生は悲しそうに笑うとそう言った。それは今でも好きという気持ちに変化がないという告白だ。
「だから、あのUSBが見つかった時、やっぱり暢希君は自殺ではないんだと確信したんです。お願いします。その残された次の研究をどうしても発表したいんです。そうすれば、自殺じゃなかったと解るのではないか。そんな気がしているんです」
そう続けると、弥生は廉人と純平に向けて頭を下げる。これには純平も廉人も顔を引き締めた。
「その気持ちはよく解ります。だからこそ、この論文を読み解く手掛かりが欲しい。お願いですから当時の様子を話してくれますか」
純平はそう言ってさり気なく弥生の手を握る。これが六十の教授のやることかと廉人は呆れてしまった。弥生の可愛さにやられていたのは、どうやら自分だけではなかったらしい。
「教授。そういうの、セクハラで訴えられますよ」
「おっと、失礼」
廉人が冷たく言うと、ついだついと、純平はすぐに手を離したものの悪びれる様子はない。弥生は困った様子で二人の顔を見ていたものの、強張っていた顔が緩んだ。
「ふふっ。お二人ならば信用できそうです」
「そ、そうですか」
今のは信用を無くす場面じゃないのかと廉人は思うが、まあいい。これで本題に入れるというものだ。
「それで、金岡さんは当時、数学部に所属していたんですか。今は工学部に進学されたと聞きましたけど」
まずは弥生についてからだなと、廉人はそう訊ねる。一応は純平から聞かされているが、本人の口から確認を取りたかった。
「いいえ。当時は数学部にいませんでした。というのも私、物理学に興味があったもので、科学部に所属していたんです。数学部と交流はありましたが、部活そのものは別でした」
「そうですか。ということは、部室内での様子は解らないと」
「ええ。暢希君とはプライベートの付き合いしかなかったとしか言えません」
すみませんと、弥生は小さくなる。しかし、プライベートを知っているというのは大きい。こんなことでもない限り聞きたくない話だが、どんな様子だったか聞くことになる。もちろん必要最低限に留めることを忘れない。
「私生活で変わった様子とかなかったですか。思い悩んでいるとか、部活に不満があるとか」
こういうことは彼女に漏らしやすいのではないか。特に弥生は研究室を知っているという、説明不要なところがある。
「いえ。毎日が楽しいとしか。取り組んでいるゲージ群についても、面白いものを思いついているとだけ言っていましたね。それが球面調和関数に関係するものでどうとか。私にはちんぷんかんぷんな内容を、ずっと喋っていました」
理解できなかったと言うが、弥生はとても楽しそうに話す。そして思い出す限り不満を言っていたことはないと弥生は断言した。
そう言い切られてしまうと余計に手掛かりがないのだがと廉人は思ったが、もちろん口には出さない。
「OBの東郷さんとはどうでしたか。調べたところ、トラブルが多い人のようですが、大塚さんとの関係はうまくいってましたか」
こうなると原因になり得るのは、あまりいい噂を聞かない益友だろうと廉人は思う。しかしこちらとも大きなトラブルはなかったという。
「部活でのトラブルは聞いていないんだろう。だったら、関係は悪くなかったというのは本当だろう」
呑気にコーヒーを啜りながら、人の口に戸は立てられぬというからねと言ってくれる。確かに、短時間で廉人が益友の悪い噂を入手できたように、暢希と何かあったのならば、どこかでその話が出ているはずだ。
「ですよね。でも、そうなると手掛かりがないんですけど」
そろそろ限界だと、廉人は純平を睨んだ。一緒に解決を目指しているのだから手を貸してほしいところである。
「そうだな。表面上はどこにも問題はなかった。だからこそ、彼の死は謎なんだろ。どうして自殺したのかってね」
今更ながらその前提を持ち出されると困るが、まさにそのとおりだった。何かきっかけが解っていれば、謎の自殺として片付けられていない。
「じゃあ、何を手掛かりに考えればいいんですか。この論文を基に考えるといっても、それは死の真相には辿り着かないですよ。もし論文を巡って何かあり、それが原因で大塚さんが死んだのだとすれば、それを知らずに発表するのは危険です。加害者が何を言い出すか、解ったもんじゃないんですよ」
当時は話題にならなかったから良かったものの、今のようにすぐに大騒ぎになっていたら、暢希の死はもっとクローズアップされたはずだ。そして、不可解な自殺なんて言葉で片付けられることもなかっただろう。
「そうなんだけどね。それに彼の死が偶発的ではなくしかも自殺ではないとすると、そこから導かれる解は非常に厄介だ。これをどうしたものかと悩んでしまうのも事実だろ」
簡単に解決できないだけでない。問題そのものがどういう効果を及ぼすか解らないと純平は天井を仰ぎ見る。それは弥生も気づいているようで、難しい問題とは重々承知していますと小さくなってしまった。
「ああ。申し訳ない。ただ、こういう不都合なことも共有しておかないと、後々で問題になるだろ。その時、例えば論文が発表できる段階で危険だと気付いた時、ちゃんと回避することが出来るのか。それが重要になってくるんだ」
それはいざという時、論文を発表しないという判断もあるということだ。これに弥生は皆さまの邪魔になるのであればと、悔しそうな顔をしたものの頷く。そういう様々な事情を汲めるほど、弥生もまた研究の現場を知っているということだ。
「さて。周辺にも手掛かりはない。この状況をどう打破すべきか。先ずはこの問題に取り組んで行こうか」
ここは弥生さんがいた方がいいからねと、純平はさらっと言うのだった。
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