第2話 三年前

 問題となっている三年前。その不可解な死の兆候は大塚暢希のどこにも表れてはいなかった。数学者として成功への道を歩いている。周囲だけでなく本人もそう信じていた。まだ問題の論文の発表前だったが、暢希が取り組む研究が大詰めに入っていることは誰の目にも明らかだった。

「ご機嫌だな」

 だからか、この時の暢希に声を掛ける卓也の気分は微妙だった。この才能に追いつく日は一生来ない。これは確実だった。同じ高校生なのに歴然と差をつけられている。それが悔しくないのかと問われればもちろん悔しいと答えるが、超えられないことは理解していた。数学とは、そういう学問なのだ。むしろ大学に進学する前に気づくチャンスがあったことに、感謝しなければならない。

「そうかな。どうにも頭の中がごちゃごちゃとしていて、まるで霧の中にいるような感じだよ。しかし正しい道を通っていることは解っているんだ。あともう少し。どこかに欠けたパーツが落ちているはずだ」

 暢希はそんな卓也の嫉妬には気づいていないようで、いや、自分の研究に夢中過ぎて周りは見えていなかったようで、そんな弱音のような言葉を漏らしていた。

「それってもうすぐ解が見つかりそうってことだろ。凄いな」

 おかげで卓也の嫌味も宙ぶらりんとなり、普通にそんな感想が漏れてしまっていた。すると凄くないよと暢希は驚いた顔をする。そして初めて、自分の前に卓也が立っていることに気づくという有様だった。

「ああ、卓也。悪い。自分一人しかいないと思ってて」

 場所は朝方の部室だ。誰もいなかったのは解るが、だったら今の返事は何だったんだと卓也は呆れてしまう。集中し過ぎて思考か現実かが解らなくなっているようだ。これもまた違いを見せつけられている気分になる。

「少しは休んだ方がいいぞ。ここで倒れたら元も子もない」

 負けたなと、卓也の肩から力が抜けていた。一方、暢希は何かが掴めそうなんだと、先ほどから見ていたホワイトボードへと視線を向けた。

 そこには暢希がずっと取り組んでいる球面調和関数に関する式が書かれている。これが暢希の頭の中でどうなっているのか。それはまだ卓也の知らない内容だ。

「相変わらず群論に掛かりっきりか。いや、物理の問題に掛かり切りと言った方が正確か。たしかヤン・ミルズ理論に関するものだったよな。ミレニアム問題に選ばれた難問だ。その一部を解き明かすだけだとしても、凄いことだぞ。物理学では普通に解かれているが数学的な解が未だ存在が不確かな理論。その定義だけならば解りやすいけどな」

 これが一体、暢希の頭の中でどう展開しているのか。何度か考えてみたものの解らない。そもそもどうして物理学の問題に手を付けたのだろうか。目指すのは数学者であるはずなのに、いつの間にか物理が絡む問題へとシフトしていることが不思議だった。

「まあ、そうだな。難問であることは認めるよ。量子色力学の中の難問。どうしてそうなるかが解き明かされていない。自然科学の分野で数学が基礎となす中、それでも数学が厳密である必要はない理由。それを知りたいんだ。中にはこれが解かれることで新たな発展をするとの見方もあるが、俺としては厳密性によって求められるものは少ないと感じているが」

 どうやら暢希の頭の中では、科学と数学は何か特別な差のあるものとされているらしい。科学が数式の表現による以上、関係性を考えるのは当然だ。しかし、一般に厳密解を必要としない科学と純粋数学にはどこか溝があるものだ。それを当たり前のように受け入れ、暢希はさらに先を見据えているかのようだった。

「どうしてそう思うんだ」

 だから卓也の質問は当然だった。どうしてそう割り切れるのか。それだけではない。厳密性の先に求めるものが少ないという意見も、素直に納得できるものではない。

「解いているものは違うんだ。厳密に解けば何でも解決するというものでもない。でもね。科学が数学を基盤とする以上、何からの関係性はあると思う。それが単なる数学と科学の差になっているはずだ。だからその分かれ目を見てみたい。そう夢想してしまうんだよ」

 この時の言葉は本当だっただろうか。それを知る要素はどこにもない。ただ、出来上がった論文は確かに純粋数学の範疇だった。

たしかに量子色力学に関する記述は存在したものの、それは触れずに書くことが出来なかったからとしか思えないものだった。あれだけ物理学の難問を考えていたというのに、それに触れた記述はどこにもなかったのである。それこそ、厳密性と分離すべきという暢希の意見が反映された結果だったのだろうか。

「壮大だな。宇宙の成り立ちそのものを数式で探すこの時代に、お前は学問にははっきりとした差があると証明したいわけだ」

 卓也は馬鹿なことを考えていないで寝ろよと、明らかに寝る時間を削って朝早く学校に来た暢希を小突いた。ついでに、寝ていないからそんなことばかり考えるのだと笑い飛ばす。

 もしそれが証明されたらどうなるだろうか。物理学者は今までよりも一層数学を単なる道具とみなすことだろう。それは数学者に憧れを抱く者として何とも言えない気分にさせられる。

「そうだな。科学を示す方程式は増える一方。しかも新しく数学が作り上げたものがすぐに物理学に応用されたり、逆に物理学が新たな数学を作り上げることもある。両者はどんどん密接していく一方だ」

 面白そうに笑うと、暢希はホワイトボードに書いていたものを消して椅子に座った。そしてようやく眠気を思い出したように欠伸する。

「無理するなって。お前、この前の国際数学大会の時もそんな感じだっただろ。それで倒れたのを忘れたのか」

 それは去年のことだ。あの時も暢希は寝食を忘れて問題に取り組み、見事な証明を書き上げていた。しかし、その反動で三日間ほど寝込む羽目になった。解き終わった直後に倒れ、まさに昏睡状態に陥ったのである。

「あれはまあ、すぐに解けると思ったんだよな」

 失敗したと、考え過ぎて眠れなくなった暢希は、僅かに伸びた髭を擦って笑う。

こういう思い詰めやすい性格も、自殺を裏付ける証拠になったのは確かだ。一つの問題を考え込み過ぎ、寝不足に陥っての心神耗弱。それもまた、起こり得ることだろう。しかし、この時は笑い飛ばすだけの体力も持っていたのも事実。何もかもが後から考えても不明瞭である。

「すぐに解けるって、呆れた奴だ」

 これ以上話していたら劣等感で嫌になると、卓也は暢希を気遣っている場合じゃないなと首を軽く振った。天才肌である暢希の頭の中は努力でしか伸し上がれない卓也とは大違いなのだと諦めるしかない。

「まったく、お前もカラオケに行ったりファミレスに行ったりして、みんなでワイワイ出来たらいいのに。そういうところで気分転換が出来るってのも、一つの閃きに繋がると思うぜ。普段一人でいる分、全然違う刺激を貰えるわけだし」

 しかし、嫌味の一つでも言わないとやってられないと、卓也はそう言った。するとそれまで超然としていた暢希の顔が不機嫌になる。彼の唯一の弱点が、大勢とともに何かをするということだった。特に飲食が伴う付き合いが苦手である。いや、苦手というより避けざるを得ないのだ。

「俺は」

「解ってる。アレルギーがあるんだよな。ほんの少量でも症状が出ちゃうから、外食は避けたい。カラオケも、あれを使っている可能性があるから駄目なんだろ。でも、実際にその様子を見たことがない人ばかりから、毎回他のメンバーを説得するのが大変だよ」

「悪いな」

「いいって」

 ちょっとした優越感を得られて、卓也もそこで満足した。しかし、打ち上げの度に面倒な説明役をしている事実は変わらない。暢希が言っただけならばその場に出るのが嫌なだけだろうと信じない先輩もいるのだ。そこで、親友である卓也が弁護に回ることになる。

「気分転換ではないが、俺には気になることがある。ポアンカレ予想が解けてから随分と時間が経つ。あれについて詳しく学んでみたいんだ」

「えっ」

 急に話題が変わり、自分の教室に戻ろうとしていた卓也は足を止めた。しかも気分転換にポアンカレ予想。本当に次元が違って困る。

「羨ましい。世界が一変する瞬間を、俺も味わってみたいな」

 暢希はしみじみとした様子で、それが憧れだと言うのだった。




 大塚暢希に関するウェブページを一通り閲覧し、だから何だと廉人は玲明を睨んだ。いまさらウェブ上に載る情報を収集しても仕方ない。今は暢希の死について新たな情報が得られたというのが重要なはずだ。

 暢希が死んだのは三年前の冬。丁度今のように寒い時期だった。誰もいない部室で死を決意し、そして何らかの方法を使ってソファで眠るように死んだ。その死体があまりに綺麗で、あまりに不自然だった。事実として知られているのはこれだけだ。

 ネットではその不可解な死をどう考えるかで盛り上がっている。自殺したのに綺麗な死体というのは奇妙な話で、そのあたりが人々の関心を惹いているようだ。

しかし、それは暢希を知らない人間が、周囲の人間関係も知らずにあれこれ書き連ねているに過ぎない。そんなものは見ても意味がなく、むしろ気分が悪くなるだけだ。

「まあまあ。どうやら大谷先生の話はどこにも出ていないらしいな。それにしても、数学に生きた天才の死が、これほど話題になることもないよな。あのポアンカレ予想を解いたペレルマンのようだぜ」

 玲明はその面白おかしく書かれた記事の数々に辟易するというように苦笑した。ペレルマンに対する世間の反応は解らなくもないところがあるが、こちらは人の死に関わることだ。見ていて気分のいいものではない。

「ペレルマンね。ミレニアム問題を解いておきながら百万ドルを断った男か。そして森に消えた男だからな。彼に関しては色々と言われるのは仕方ないと思えるけど、大塚は違うだろう。その死が不可思議であっても、彼自身にそんな不可思議な要素があったなんて話は聞いたことがない。それにしても、純粋過ぎるのも学者としては問題ってことだな。何かが納得できず、結果として死を選んだ」

 世間との決別を選ぶ。この点において二人は同じではないのかというのが廉人の言い分だ。

 ペレルマンは数学に没頭するあまりに、何度も世間から離れるような行動があった。それがミレニアム問題にもなっている数学の難問、ポアンカレ予想を解くためだったのは後に発覚することだ。だが、それを差し引いてもなお余りあるほどの変人だったらしい。

 さらにその後、彼はまた大学での研究をするのかと思いきや、世間の煩わしさが嫌になり姿を消してしまったのだ。賞金を断っただけでなく、数学のノーベル賞とも呼ばれるフィールズ賞も断っている。

 彼の中の数学は、そういう賞で評価されるものではなかったのだろう。あまりに純粋に数学という学問を追求している。その姿勢が、世間からは理解できないものと映るのだ。結果、彼は森の中へと姿を消してしまった。生存確認は出来ているそうだが、世間との接触を最低限にまで絶ってしまっている。

「称賛をどう受け取るか。確かにそれは大きな問題だな。しかし、大塚はペレルマンと違ってちゃんと高校生をやっていた少年だぞ。しかも周囲との関係は良好だった。いくら突出した研究をしたからといって、命を絶つような要素はどこにもない。ここが大きな問題なんだよ」

 意外とお前は自殺説を支持するなと、玲明はむすりとした。別に支持しているわけではないが、突飛な発想のように思えるのもまた事実だ。

「今更というのがどうにもな。自殺を否定する要素はふんだんにある。それは解っているさ。しかし、それと同じくらいに他殺とするのが難しい。だからすぐに立場を決められないってだけだよ。探偵というのは論証の積み重ねだぞ」

 廉人は肩を竦めると、奇妙な問題であることは認めていた。

 そもそも、なぜ今になってその死が話題になるのか。たしかにここ最近、自分の周りでも暢希の名前を聞くことはあった。だが、どうしてかは解っていない。すると玲明がわざとらしく溜め息を吐いた。

「何だよ」

「お前、それでも高校の何でも屋さんか。今、大塚の論文は物理学の世界で話題になっているんだぞ」

 その理由を明かされても、廉人は呆れられる筋合いはないと思った。こちらはただの高校生であり、たまたま人より頭の回転がよくて頼られることが多いというだけだ。この世界で起こっている総ての出来事に関して追えているわけではない。

「どこで話題になっているんだ」

 というわけで、まずは分野を聞き出すところからだ。丁度良くパソコンはすぐに検索できる状態になっている。廉人はキーボードに手を置いた。

「たしか素粒子じゃなかったかな。大塚の導き出したのは群論に関するものだが、それはもともと物理学に関する問題だったはずだ。ほら、ヤン・ミルズ理論に関するものだよ。これもまたミレニアム問題に選ばれているって話だ」

 玲明が数学部らしく、ミレニアム問題を持ち出してくれる。

 ミレニアム問題は数学の難問のうちの七つであり、クレイ数学研究所が解けた者に百万ドルの賞金を支払うとしているものだ。先ほどから話題になっているペレルマンのポアンカレ予想もその一つというわけだ。

「アーカイブを調べてみよう。話題になっているのならば誰かが論文にしているはずだ」

 そう言って廉人は論文の載っているサイトを開くと、そこにキーワードとして素粒子と暢希の名前を入れた。するとすぐに何本か見つかる。

「ほう。本当に話題になっているんだな」

 しかも海外の研究者が発表したものにも引用されているらしい。これはただ誰かが応用したという話では終わらないようだ。廉人は興味を覚え、最初に出てきた論文を開いた。並の高校生には難しい論文だが、このくらい、廉人にとっては普段から読んでいるレベルの論文だ。気になったら何でも調べなければ気が済まない性格が、論文を読むという行動に繋がっている。

「ああ、本当だ。ヤン・ミルズ理論の新たな意義とある。数学的な証明にも大きな一歩を踏み出すものだとあるな。ふうん」

 横から覗き込んだ玲明が、この論文の意味するところは何だと急かしてくる。しかし初めて読む論文をそんなにすぐに理解できるほど、さすがの廉人も素粒子に詳しくない。

「どうやら、現実的は問題としてはグルーオンの説明に使えるらしい。クオークの閉じ込めは確かにどうしてなのかという説明がなされていない問題なんだ」

 とは言いつつも、廉人はすぐにそれだけではないと気づく。

グルーオンとは素粒子の一つで、原子核の中にあるクオークを繋ぐ役割を果たしているものだ。今のところ、原子核の中にあるクオークを単体で取り出すことは不可能であり、さらにそれを繋ぐグルーオンだけを取り出すことも無理だとされている。その説明は今まで核力のせいだとされていたが、暢希の導き出した方程式の一つの解が明確な説明を与えてくれるらしい。

 それは暢希が取り組んでいたという、ヤン・ミルズ理論に関するミレニアム問題にも触れられていることで、ここで出てきたグルーオンが力を媒介することで起こる質量ギャップの存在を示すことが求められている。つまりこの論文は問題の核心に迫るものだということだ。

 これはとてつもなく大きな影響を与えることだ。どうして今まで話題になっていることに気づかなかったのか。たしかに普段からあれこれ首を突っ込んで調べまくっている自分にしては、反応出来ていなかった。

「どうやら難しいみたいだな」

 黙り込んだ廉人を見て、これは凄い論文のようだと玲明も興奮する。

「ああ。一筋縄ではいかない。だが、素晴らしいものだよ」

 他にも読んでみようかと思ったが、一先ず今は話題になっていることが確認取れたのでいい。いくつかパソコンにダウンロードすると、それでどうして暢希の死が今になって疑問になっているのかと訊いた。それに、これほどの論文にいち高校教師の英嗣が絡んでくる理由が見えない。

「そりゃあ、大塚は数学部に所属していたから、だろう。まあ、大谷先生は後任だから、大塚に関して直接は知らないけどさ。で、今回の騒動から解るように、大塚はすでに物理学への応用を示した論文を書き始めていたんだ。それがUSBに残されていたんだよ。

 そこで大谷先生が親族から提供されたんだ。で、検証してみた結果、これだけのことを残しておいて死ぬのは奇妙じゃないかという話になったんだ。実際、大塚は前途洋々。さらには同じUSBの中に数学に関しても新たな論文を書き残していた。悩んでいたというは後付けでしかない。しかも次の研究が浮かんでいたとなると」

「これ以上は無理だと絶望したという説は否定されるというわけか」

 玲明の言いたいことが解り、なるほどと廉人は頷く。次の研究が物理学に関わることであり、さらに数学でも新たな閃きがあったとすると、自殺するのは奇妙でしかなくなる。

「しかも物理学に関して考え始めた直後だった、か。確かに違和感のある話だな」

「だろ。何だか考えれば考えるほど、謎が増えていくんだよ。というわけで、ここは名探偵の知恵をお借りしようっていうわけだ。遺族だって自殺には納得していないし、もしも真犯人がいるのならば、殺された大塚が浮かばれない。しかも新たな、これほど世界に衝撃を与えるものを作っていた高校生だぞ。その損失の大きさがどれほどのものか。同じ天才のお前には解るだろ」

「俺は天才ではないよ。しかし、まあ、そうだな。奇妙と言えば奇妙だ。遺族としては、今更息子の名前が有名になってびっくりし、遺品を整理してみたら別の論文を見つけたというところなんだろうけど」

 廉人はだからといって、そう簡単に三年前の事件が解けるとは思えないぞと顔を顰める。そもそも、自殺と断定されるような死だったのだ。事件当時に全く他殺を証明するものがなかった状況である。

「頼むよ。この気持ち悪い状態、なんとかしてくれよ。っていうか、そのうち大谷先生から依頼が来るに決まってるじゃん」

「まあな」

 このままでは気持ち悪いというのは解る。しかし、手掛かりゼロに近い状態であることも事実だ。

「未解決になっても、一万円くれって言っておいてくれ」

「お前、意外と守銭奴だよな」

「失礼な。大学院に行くための学費を稼いでいるだけだよ」

「ひょええ」

 玲明は奇妙な声を上げたが、一先ず廉人が動いてくれると解りほっと胸を撫で下ろしていた。英嗣からの任務、達成である。

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