未解決「自殺」問題~天才の死の真相~

渋川宙

第1話 興味

 あの日のことは、今もまだ心の中で冷たい氷のように固まったままだ。

 冷え切った教室。

 眠るように死んだ親友。

 自殺だと断定された時、どれほど信じられないと思ったことだろう。

 しかし、それでも、彼が悩んだ末に死を選んだのだと、どこかで納得していた。

 真実が白日の下に晒された、あの時までは――






大塚暢希おおつかのぶき。知っているか」

 高校の片隅でパソコンを睨み付ける九条廉人くじょうれんとに向け、いきなりそう問い掛けてくる奴がいた。が、これはいつものことなので廉人はパソコンから目を離すことはなかった。またかというだけで、特に気にするほどのこともでない。

「この高校の先輩だったな。夭折ようせつの天才数学者か。どうしてそいつについて訊くんだ」

 廉人は知っていると先を促した。相手にしていると時間がかかって仕方がない。

自分は今、あと数時間で片付けなければならないものと闘っているのだ。どうして忘れていたのか。絶対にこの男のせいだなと恨み節の一つでも言いたくなるところだが、自分の落ち度であることに変わりはない。黙々とキーボードを叩き続ける。

「そいつの死について不可思議なことを聞いたんだ。親や周囲からの期待に応えられない、そう考えるほどのスランプの末だと言われていたが、どうにも違うようなんだよね」

「あと数分待て」

 詳しく喋るぞと口を開く相手に、廉人はついに待ったと顔を上げた。このまま話し出されたら確実に作業が止まる。明らかに片手間で出来そうな話ではない。すると訪問者である同い年で、自称仲のいいこの男はにやりと笑った。

「一体何に追われているんだ?」

 そいつ、いきなり話しかけてきた新宮玲明しんぐうさとあきはやったねと笑うだけでなく、廉人が必死な様が面白いとばかりに質問してきた。日頃からにやけた顔と態度の男だ。こいつが自分と学年一位を争っているなんて信じられないほどである。と、それはともかく、暢希の話題が出たせいか、どうにも腑に落ちない気分になる。

「先生に頼まれていた論文だよ。あと数時間以内に、正確には今日の午後七時までに更新していないと、依頼料一万円が入ってこない」

 廉人は困ったものだよと苦笑するが、玲明は論文の代筆かよと仰け反っている。依頼したのはもちろん、自分も所属する数学部の先生、大谷英嗣おおたにひでつぐのはずだ。生徒に何を頼んでいるのか、というより、数学部のメンバーに頼まずにこの無愛想な男に頼むとは何事だろう。

「でも、お前が締め切りぎりぎりなんて珍しいな。それって大分前に依頼されていたはずだろ。名探偵の名が廃るぜ」

 玲明はそう言ってからかってくる。廉人は名探偵と呼ばれることに少々違和感があるので、思わずむすっとしてしまった。

「名探偵と言うなよ。俺の解決した事件なんて微々たるものだし、現状を変えるとは思えないことばかりだ」

「そう言うなって。お前のおかげで心が軽くなった、という依頼人は後を絶えないわけだろ。今回の件も、それに繋がると思うよ」

「大塚暢希が、か」

「ああ」

「ふうん」

 どうにも引っ掛かるなと思いつつ、廉人はまず目の前の依頼をこなすべく奮闘する。やることは数学の証明が正しいか、数値が間違っていないかの検証だ。このくらいは朝飯前なのだが、最近は玲明のように自分のことを名探偵と持ち上げて、妙な依頼がひっきりなしに入るから困ったものだ。

 そう、九条廉人は様々なことを引き受けている。学校も公認するほど何でも出来る男だった。だからといって先生が顧客になるのはどうしたものかと思うが、ともかく、頭の使い方が違うと評判なのである。

「それで、どうして大塚の話なんだ。突出した才能。そして彼の研究は素晴らしく、しかしその死は避けられないものだった。そのストーリーはこの高校ではあまりに有名だ。そもそも日本にいるべきじゃない人だったというのも有名だな。飛び級できていれば、その死は免れていただろうとも言われている。そういう話ならば要らないぞ」

 一段落したところで、廉人はキーボードから手を離すと腕を組んで玲明を見た。それを合図に、玲明は廉人の机の前にいそいそと座る。それまで教室の入り口で律儀に待っていたのだから、根は真面目なのだろうと思う。

「それがさ、彼が新しい研究をスタートさせていたという証拠が見つかったんだよ。今までは誰も自殺だということに疑問を挟めなかった。それだけ孤独だと思われていた。まさに天才だったからね。だから誰も、今まで自殺だということに疑問の目を向けた奴はいなかった。ところが、ここでひっくり返る証拠が出て来たんだ」

「ほう」

 証拠が出たとなれば一考の価値はあるわけだ。しかしどうしてそれを玲明が知っているのだろう。まずそこが疑問だ。

「実は、大谷先生のところに、大塚のノートを持ち込んだ人がいるんだ」

「へえ。大谷先生か。それは有力情報だな」

 論文チェックを依頼してくる人物だが、その数学の証明は高校の先生で埋もれさせるには惜しいがある。そんな人だから、遺族が頼ったとしても不思議ではない。悔しいが、興味がないと突っ撥ねられない名前が出てきたと廉人は唸る。

「そういうことだ。しかも、自殺を否定するだけの新しい研究だったらしいよ」

「ほう」

 それはまた大きく出たなというのが正直な感想だ。いまさら三年前の、それも警察すら自殺と断定した事件を覆す証拠。それは一体どんなものなのか。

「それを話す前にまずは前提条件のおさらいだな。三年前の事件について思い出そう」

 玲明はそう言うと、勝手に廉人のパソコンに何かを打ち込むのだった。




 同じ頃、大塚暢希について、日の傾く教室の中で話し合う人たちがいた。しかし、こちらは大学生たちだ。彼らは廉人たちが通う高校の先輩であり、元数学部のメンバーだった。今はバラバラの大学に進学しているが、ある噂を聞きつけ、こうして集まっている。

「まさか、今になってあのことが蒸し返されるなんて」

「仕方ないだろ。最近、あいつの研究が物理学のある問題を解くのに使えると注目を浴びたんだ。話題になるのは仕方がない。もともと、そういうことに興味のあった奴だし」

 非難の声を上げた藤川理那ふじかわりなを、横にいた寺井卓也てらいたくやが当然だと窘めた。部屋にいる他の四人は困ったものだと肩を竦める。

「そう、問題は今になって、高校生ながら発表された論文が注目されたために、あいつの死も問題視されるようになったということだ。自殺だったというのに、今や他殺だったと考える連中がわんさかいる」

 自殺だったと強く言う一番年上の東郷益友とうごうますともの言葉に、その場にいた誰も反論の声を上げない。いや、ここにいる連中はその言葉に反論することは出来ないのだ。

「その、どうすればいいでしょう」

 その中で気の弱いと定評のある岡崎雄大おかざきゆうだいが、沈黙に耐えかねたように質問した。こうして研究室に当時のメンバーを集めてどうしようというのか。

「決まっているだろ。その噂の出所を探るんだ。注目されたのをいいことに噂を流している輩が必ずいるはずだ。そうでなければ、今更あれに疑問を挟むなんてことはしない」

 どんっと机を叩き益友は吼える。具体的に誰か思い浮かんでいるのだろう。この男は昔から闘争心むき出しである。しかし、確証がなく口に出来ないのだ。そのくらいの冷静さは持ち合わせている。

「噂を探るのはもちろんです。でも、どうして暢希はあんなところであんな死に方をしたんでしょうね。親友だった俺にもさっぱりです」

 そう言って雄大の代わりに口を開いた卓也は、その場の舵を取るように訊ねた。そしてちらりと斜め前にいる浦川伸行うらかわのぶゆきに目をやる。益友がこうやって怒りを爆発させた時に、真っ先に諌めるのは同い年伸行だ。しかし、今日はそれをしようとしない。

 その伸行は話を聞いているのかいないのか。どこか上の空だ。思えば暢希の死について伸行が話題にすることはない。興味がないのかそれとも死に関わっているのか。その態度が余計に疑いを強めていることに本人は気づいているのだろうか。

「どうしてか。未だにどうやって死んだのか解らないんですよね。その死体は綺麗なもので、どうやって死んだのか解っていない。天才が残した最後の謎とまで言われています」

 この中で事件当時は数学部にいなかった米田啓輔よねだけいすけは、その死の謎を単純に面白がる。

たしかに謎だらけの死だ。だからこそ、誰も手を下していないとの見解も成り立った。しかも検視の結果、暢希はアナフィラキシー症状の結果で死んだと疑えるという。ということは、自殺としても暢希は何らかの方法を用いたということになる。

「厄介な死に方をしてくれたものだ。これが首吊りという解りやすいものであれば、こうやって後々に問題にならなかったというのに。いや、部室の中で死ぬなんて妙な状況でなければ良かったんだ。あの論文は確かに素晴らしいが、やはり行き詰った奴のやることは解らん」

 益友の言葉は辛辣だ。これにはさすがに友人だった卓也は閉口する。あの自殺の日まで一緒に切磋琢磨していたのだ。卓也は一方的にライバルだと思っていた。それを首吊りが良かっただなんて言われたくない。

「それだけ悩みが深かったということではないですか」

 先ほど諌められた理那が、今度は卓也を落ち着かせるようにそう言った。この場で一触即発の口げんかだけは避けなければならない。

「うん、まあ、そうだろうな。あれだけ大きな仕事だ。論文を仕上げるまでは悩みの連続だったろうし、仕上げた後もこれでいいのかと悩んだかもしれない。それに次を考えると、あれ以上の問題に取り組む元気がなかったのかもな」

 それは羨ましいほどのことだと気づけなかったんだなと、益友はしみじみと言う。益友も暢希に対して思うことは迷惑を掛けられただけではないのだ。数学者として一度は味わってみたいことを、暢希は高校生にして成し遂げた。それに対する純粋な憧れもある。その懐かしむような表情に、卓也の感情も落ち着いた。

「問題は噂が蔓延していること。そういうことですよね」

 そこに今まで上の空だった伸行が口を挟んだ。たしかに今の問題はそれだ。どういうわけか、ここに来て具体的な内容を伴った他殺説が流れている。これこそどうにかしなければならない。

「そのとおりだ」

「根も葉もない噂は、死者への冒涜でしかありません」

 頷く益友に、伸行が静かな声でそう付け加えた。その言葉に、研究室は水を打ったように静まり返った。そう、何をどう言おうと暢希が死んだ事実は覆らない。決して軽々しく扱っていい問題ではないのだ。

「ともかく、そういう噂がこれ以上広がらないように注意してくれ」

 このまま話していては自分が不利になる。そう感じた益友はそこで密談を切り上げたのだった。

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