第3話 事件発生

 廉人は玲明に嗾けられたなと思ったものの、気になって仕方がなかった。何だか敗北を認めるような悔しさはあるものの、行動を開始する。

 まずは最近話題になっているという論文の検証が必要だ。というわけで、何かとお世話になっている大学教授の岸純平にメールを入れることにした。すると、丁度手の空いた時間だったようですぐに返事がある。興味を持ってくれたようだ。

「いくつかの論文が残されていて、その中に物理学の問題に新たにアプローチするものがあった、か。そう言えば、数学に関するものもあったと言っていたな」

 論文をメールに添付して返信しつつ、そうなると、ますます他殺説が濃厚になるのかと思考は事件について切り替わる。

 自殺に見せかけて殺すなんてするのか。そもそも、死の原因は全く掴めていない。どうやってという部分は自殺だろうと他殺だろうと残る問題だ。死体が綺麗だったということも謎を深める。

 自殺ならば何らかのやりようがあったのだろうと思うだけだが、他殺となると大きな謎だ。犯人はどうやって暢希に気づかれることなく、死の原因となるものを仕込むことが出来たのか。そしてその仕込んだものとは何か。

「ううん。そもそもなぜ今になって」

 話題になっているのは解るが、今になって自殺そのものに疑問を呈する必要があったのか。それとも、よほど自殺がおかしいと思わせる証拠が出て来たのか。いや、その証拠になるはずだと思って、英嗣に論文を託したのだろうか。

「ん?」

 純平から続けてメールが入った。それによると、なんと英嗣から新しく出てきた論文の一部を預かっているという。この人、ひょっとして玲明と共謀していたのだろうかと疑ってしまう。が、二人に面識はないはずだ。

「はあ。仕方ないな」

 廉人がそちらについても手伝うとメールを打つと、待ってましたとばかりに電話が掛かってきた。さすがにメールで詳しい内容を説明するのは面倒なようだ。

「はい」

 自分の部屋にいるから電話に出るのは問題ない。廉人はすぐにそれに応じた。

「大塚君の問題が気になったということは、大谷君が何か吹き込んで行ったってところかな。あっちでも大塚君の残した論文だけでなく、彼の死が気になっているようだからな。昨日、似たような相談を貰ったところだよ」

 電話に出た途端にそう捲くし立てられても困るのだが、実際にそうだ。やはり上手く玲明に乗せられたらしい。いや、玲明を使者として使った英嗣に乗せられたらしい。

「数学の論文もかなり重要な事項を含んでいたってことですか」

「ああ。彼が生きていれば間違いなくフィールズ賞を取っているだろうね」

 つまり物理学の論文が英嗣から純平に渡っただけでなく、英嗣の方でも重要な論文を手に入れているのだ。すると、あの暢希を有名にした論文の後にすぐ別の論文が出るはずだったということになる。

「数学の論文はほぼ完成していたんですね」

「ああ。つまりあれは自殺だったとは考えられない状況になったんだよ。おそらく、論文をこちらに見せてくれた親族の人も、正確には親族ではないらしいんだが、自分では検証できないものの、論文が正しいのならば死も自殺ではないのではないかと考えたためだろうね」

「ん? 親族ではない?」

「ああ。その人は大塚君の恋人だった人でね。つまりは恋人もいたことだし、研究も順調。人生は順風満帆だったんだ」

 誰かに喋りたくてうずうずしていたのか、純平は怒涛のように情報を浴びせてくれる。おかげで廉人は処理するのに精一杯だ。まったく議論にならない。

「というか、恋人なんていたんですか」

 暢希の顔を知らない廉人は、数学者に恋人とは不釣り合いなと失礼な思考をしていた。数学者なんて、理系で恋人が出来ないランキング一位の職業だと思っている。自分の世界が大事で、恋人なんて作る暇はないだろうと想像していたせいだ。

「いたんだよ。その子は科学部だったそうだけどね。今は工学部で研究をしている大学生だよ」

「へえ」

 それならばいてもおかしくないかと、理系同士での恋愛となると納得できる。と、割と失礼な考えをしているがそこは仕方がない。理系の女子の割合の少なさはデータがちゃんと証明している。

「最初に論文が見つかった時に、中身を確認したのはその子なんだよ。それで、ちゃんとした専門家に見せた方がいいという話になったんだ。だから数学部の現顧問に持ち込んだのは、卒業生の彼女からしたら当然の相談先だったってことだね。それに大谷君は当時の顧問じゃないから、余計に相談しやすかったんじゃないかな」

「なるほど。納得出来ました」

 現在、大塚暢希が再評価されているだけに、その恋人も論文が気になったのだろう。しかもその死が不明な点ばかりあるせいで、知らない人の口にまで上るようになったとなれば、あの自殺の真相は何だったのかと気になっても仕方がない。

「まあ、完全な形の論文を発表せずに死ぬのは不自然ですよね。大谷先生の見解はどうなんですか」

 すべての条件が揃わないと完全に他殺だとはいえないだろうと廉人は考える。だから数学の論文を検証している。それと同時に、物理学についても専門家の意見を求めたというわけだ。英嗣は純平の勤める大学を卒業し、昔から付き合いがあるとの話だ。頼みやすかったのだろう。

「少々難しい問題のようだね。あのポアンカレ予想の時のように検証にチームがいるかもしれないぞ」

 何と言っても本人の説明を聞けないわけだしねと、冗談とも本気ともつかないことを純平は言う。

「それほど難しい問題に連続して取り組んでいたんですか」

「そうようだね。類い希なる天才だよ」

 だからこそ、不可解な死もまた興味を持たれるんだと純平は真剣な声になる。たしかにそれほどの人物が謎の死を遂げたとなれば耳目を集めて当然だ。

「しかし、他殺だとするとどうやって殺したかが問題ですよ。自殺としても説明のできていない方法を、三年も経った今さら他殺として証明できますか」

 気になるのは解る。論文が正しく評価されるだろうことも解るが、最大の謎を解くことは不可能ではないか。廉人はそう思った。

「まあね。しかし簡単に諦めるのは早いよ」

 引くのかと思いきや、純平はそんなことを言う。何か当てがあるというのか。

「まずは論文を持ち込んだ彼女に話を聞く。後は当時の新聞か何かで情報を集めるくらいかな。ネットの情報は当てにならないようだし。他にもうちょっと事情通の人がいると助かるところだが」

 やはり当時の部員から話を聞くには、それなりに議論が煮詰まってからがいいしねと純平は慎重な意見を述べる。

「新聞」

 今の言葉が廉人の中である人物を思い出させた。過去に警察に協力した際に、取材してくれと言ってきた新聞社の記者がいた。彼とはその後何度か会っており、連絡先も知っている。何か事件があれば情報提供してくれると言っていたから、今回も何か掴んでくれるかもしれない。

「ひょっとしたら、何か掴めるかもしれません」

 散々懐疑的だと言っておいて何だが、廉人もその謎が気になって仕方ないという事実に屈服することになるのだった。






 翌日の夕方、高校ではちょっとした騒ぎが起こっていた。

「何だ」

 英嗣に向け、大声で何かを言っているのは大学生と思われる青年だ。一体どうして高校に大学生がいるのか。そして、英嗣に訴えているのか。謎が謎を呼ぶ状況である。

「どうしたんですか」

 玲明は何があったのかと、すでに数学部に来ていた先輩の有馬恭兵に訊く。恭兵は軽く肩を竦めると

「何でもOGの一人が昨日から行方不明なんだってさ。高校に行くって言って出掛けたまま、消えてしまったらしい。もちろん電話も繋がらない。誰もどこにいるか知らないっていうことで騒いでいるんだ。ここに来たはずだから、誰か見ていないかってことのようだな」

 まるで他人事の恭兵は、うるさくて敵わんと眉間に皺を寄せていた。しかし起こっていることを考えると騒いで当然と思える。

「ふうん。行方不明ですか。何か思い悩んでいて、誰とも連絡を取りたくないだけじゃないですか」

「そんなの知らないよ」

「ですよねえ。でも、大塚論文の問題が出てきたところに行方不明事件ですか。ますますきな臭くなってきましたね」

 諦めずにそう付け加えると、それはあの九条の仕事だろと、ますます素っ気なく返される。

「そりゃあ、探偵の領分でしょうけどさ」

「でも、まあ、あの怒鳴っている奴は大谷先生に愚痴を零しているだけだが、あの大塚のことが話題になっていて、神経質になっているんだよ。それだけ気にするってことは、やっぱり疚しいことがあるってことだろうな。そんな時にOGの一人が行方不明だ。喚き散らしたくもなるんだろうさ」

 しかし、俺には関係ないから首を突っ込むことはしないと、しっかり首を突っ込んでいる玲明に向けて笑う。意外と底意地が悪い。

「それを知ってて乗ってくれないなんて、人が悪いですよ。って、俺の場合は九条の友人だからって理由で巻き込まれただけで、自ら首は突っ込んでないですからね」

 悔しくて、自分の席に座りながらもそう付け加えてしまう。そんな玲明を恭兵は笑うだけだ。やがて喚くことがなくなったのか、啓輔は肩を怒らせながら教室を後にした。するとすぐに英嗣に呼ばれる。

「よかったな。野次馬する必要はなかったわけだ」

 すぐに立ち上がった玲明を恭兵はそうからかう。それに玲明は肩を竦めるポーズをお返ししておいた。

「聞いたか」

「ええ、少しは。誰かが行方不明になっているとか」

 そう玲明が言うと、英嗣は困ったものだと頷いた。

「行方が解らないのは藤川理那さんだ。この教室に荷物が残されたまま、そこにスマホも財布も入っていたという。どこへ姿を消したのか。高校の中は隈なく捜査済みだ。その過程で彼女の履いていたハイヒールが片方見つかっただけ。状況をより悲観的に考えるしかない証拠しか見つかっていない」

 どうしたものかと、英嗣は腕を組んだ。悩んでいる理由はもちろん、この状況で新たに発見された暢希の論文を公表していいのかということである。ある程度の証明を進めているものの、英嗣だけの手に余るものだった。そこで共同研究者を募ろうと考えていた矢先の出来事である。

「つまり、誘拐されたということですか」

「状況から考えるとそのようだな。ハイヒールが落ちていたのは、正門近くの通路だという。そこから駐車場まですぐだからな」

 事件となれば警察に任せなければならない。しかし、今はいなくなったというだけなのだ。ここが困ったところで、具体的に事件性があると言える状況ではない。しかも犯人が誘拐したから金品を寄越せと言っているわけでもない。

そうなると、単純に誘拐とは考えられなくなる。もしかしたら理那が自ら車を運転するために靴を履き替え、ハイヒールを落とした可能性も少なからずあるわけだ。荷物が残されていたのも、慌てていたからと考えられなくもない。

「つまり、警察に届けても単なる失踪と扱われる可能性もあるってことですね」

 なるほど、確証がないからあの啓輔は怒鳴り散らしていたのかと納得する。確証がないという点もまた、暢希の死を思い起こさせることだからだ。他に八つ当たりでもしないとやってられないということころか。

「できれば、もう少し状況が解るまでは内密にしてほしいそうだ」

「向こうがそう言ってきたんですか」

 あれだけ怒鳴っておいてと、玲明は呆れてしまう。自ら何かあったと触れ回っているようなものではないか。しかし言い触らすことではないので、警察沙汰になるまでは黙っておくのは当然のことだ。情報を漏らす先があるとしても廉人くらいなものである。

「しかし、このタイミングか。どう思う」

「大塚さんの死に何か考えのある奴の犯行かどうか、ってことですか」

 そう玲明が指摘すると、英嗣はそうだと頷いた。いなくなった理那は暢希と面識がある。そんな人物がこのタイミングでいなくなったのは、噂になっている暢希の死の真相を知りたいと望む誰かの犯行なのではないか。

「すると親族や例の彼女以外にも、あれが自殺とは考えられないと確信している人がいるってことですね」

「そうだな。いや、あれだけ話題になることで、かつて所属していた部員が神経質になるんだ。誰もが納得していないということではないか」

 本当に自殺だとしても、その方法が解らないというのは気持ち悪いものだからなと英嗣は眉間に皺を寄せる。

たしかに原因不明ほど気持ち悪いものはない。日々数学の証明を、それも厳密さを求めて研究している人間にとって、身近な人の死が証明不可能というのは嫌な気分だ。それは高校生であっても同じである。

「その藤川さんはどういう人なんですか」

 疑問に思ったとしても、それを誰も証明できていないのならば彼女を問い詰めるのはおかしい。だから暢希と部活以外の接点があるのかと気になった。

「どういうと言われてもな。彼女は高校生の頃から線形代数をメインにやっているんじゃなかったかな。少し待て。パソコンに部員たちの情報が残っているはずだ」

 英嗣も気になったようで、すぐに手元にあったノートパソコンを開くと、数学部の過去の記録を探ってくれる。

「あったあった。主にフーリエ解析についてやっていたようだな。ということは解析学がメインか」

 なかなか興味深いものだなと英嗣は頷くが、詳しく語らないあたり、あまり得意な分野ではないようだ。まあ、数学と一言で言えても、その分野は多岐に亘るのだから仕方がない。それぞれ得意分野をやっているだけだ。

 そもそも、代数学と幾何学と大きく分類してみても、頭の使い方に多少の差がある。前者は数式をメインとしているために発想も数式で行うのが当たり前だ。ところが幾何学は図形をメインとしている。考え方は常に図形に依拠しているため、考え方に差が出てしまうのだ。

 中には両方とも得意な人がいるが、それは稀でどちらかに偏る傾向が強い。ちなみに暢希はどちらも出来るタイプだったようで、未発表論文は幾何学だったのだ。これは持ち込まれた英嗣としては、そして手伝う玲明としても有り難いことだった。

 ではフーリエ解析とは何か。それは正弦波と呼ばれる波に関するものと捉えるのが最も単純な考え方だ。この波の重ね合わせにより何が起こるか。滑らかな波が起こるのはどうしてかというものに答えてくれるのがフーリエ解析なのである。現代技術で最も使われている数学技術であり、例えばネットのゲーム画像が滑らかに動くのも、このフーリエ解析が役立っている。

「フーリエ解析となると、物理でも使いますね。今の話題とは合致する感じです」

 ただし、その暢希の論文の内容にフーリエ変換は出て来なかったが。ここが難しいところだ。分野として被っているからといって総てを網羅しているわけではない。あくまで何について証明したかが重要だからだ。その先にどういう展開をしていても、本人の問題設定と異なれば関係ない。

「そうだね。物理学ではメインに使うものもあるね。その辺は岸先生に問い合わせてみよう。君も行くだろ」

 思い立ったらすぐに行動。それをモットーとしている英嗣はそう言って立ち上がったのだった。

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