第8話 父親と
それから次の休日になるまで、平穏だった。
襲撃者に、二度目の奴が混じり始めたと、水月が報告してきた位だ。
大世帯の敵なのかと言う期待は、ここで裏切られたが、別な警戒は怠らない。
「単に、襲撃に使う奴らは捨て駒だ、と言うだけの可能性も、高いからな」
淡い期待を、抱いている。
本当に、退屈しているのだなと、そう思う。
「だからと言って、手ごたえのある適度な相手が、そうそういないと言うのが、あの人です」
真面目な顔を作り、エンが神妙に悩みを告げると、前に座った男の膝に乗っている白い大兎が、真顔で頷いてくれた。
「身の回りで見ても、手ごたえがあるか否かが、極端だからな。敵にそれを求めるのは、難しかろう」
隣で正座し、出された茶の匂いを嗅いで、じいんと感動している和服姿の男と、膝に乗せた兎の背に顔をうずめ、吸い込まんばかりの勢いで匂いを嗅いでいる男は無視して、エンは真顔で続けた。
「手ごたえを求めて過ぎて、何も障りがないのならば一向に構わないんですが、話の限りでは、とんでもない障りがあるとか」
「ああ。まだ、その境すら曖昧で、手探りで探しているのだが、いかんせんあの水月だからな。至る所でお節介を焼きまくってくれているせいで、一体どの程度で障りがあるのか、判断がつきにくくなっている」
「そほまでしんはいすることは、ないそ。おひうえをひふんにすれば、はいはいわはる」
「……そうなのか」
背中越しの言葉を受け、兎が天井を仰いで考える。
「重と比べると、どちらが強い?」
「比べるまでもないだろう、それは」
和服姿の男が、苦笑する横で、兎を膝に乗せた男が答えた。
「おはしくらいは」
「そうか」
「買い被りすぎです」
何で、会話が成り立っているんだろう。
話に割り込めなくなったエンは、三人の会話を聞きながら疑問に思った。
人間掃除機と化して、兎の背を吸っているのが、エンの実父でありながら、最も相談するのに適していない人物だった。
相談しても、無意味と言う意味ではない。
様々な問題を解決する手立てを考える頭も、それを実行する力も備えている男なのだが、性格が類まれなほどにひねくれており、敬遠してしまうのだ。
今回、仕方なく相談相手に選んだのは、ただの消去法だった。
今のエンには、余りにも相談できる人がいない。
水月に関することであれば、尚更その選択肢が減る。
その上、あの人の弟子の事についても相談するとなると、更に。
カスミと名乗る、エンの父親を呼び出すのには、色々と手順がいる。
その手順も、様々なものがあるが、今回は比較的楽な手順だった。
この休日、水月は私用で出かけている。
その隙に、こっそりと兎に繋ぎを取った。
大昔、何かあった時に使えと言われ、渡されたものが役に立った。
「……あれを、数世紀またいだ今も、綺麗に持っていたとは、思わなかったがな」
呼び出した兎にそう呆れられたが、今まで使わなかったのだから、綺麗に持っているのは致し方ない。
「不要と判断して、破棄しているものと、思っていたんだが」
「ああ、そうですね。あの子と暫く離れた後に戻った時、自分が残して行ったものを整理してみたら、見つけたんです。何かの役に立つかなと、何気なくポケットに突っこんだまま、忘れてました」
洗濯するたびに思い出し、また何気なくポケットにしまうを繰り返していたエンは、今回まで本当に、何故貰ったのかを忘れていた。
「……」
「ひははない。おはえは、たよりはくみえるはらな」
「おい。そろそろ、匂い嗅ぎはやめろ。別なものまで吸い取られそうだ」
まだ背にくっついているカスミに、兎はようやくそう窘めの言葉をかけた。
仕方なく顔を上げた男は、兎を膝に乗せたまま、息子と友人を見る。
重と呼ばれていた男は、呆れ顔だ。
「冗談で言ったのだが、本当に現れましたな」
繋ぎを取った時、兎と偶々一緒にいたと言う男は、どうやら幽霊の類らしい。
現れた時から後ろが見えるほどの半透明で、目を瞬くエンににこやかに挨拶をしてくれた。
「カスミ殿の倅殿か。初めてお目にかかる」
「一体、何の用だ?」
多少警戒が混じる兎のその問いに、安心させるように笑いながら、エンが父親を呼び出したいが、何処にいるのか分からないと切り出すと、半透明の男が手を打ったのだ。
「一度試したかったことがあるのだ。カスミ殿の御父君は、それがまかり通ると聞いた。試してみるのもよかろう」
何のことかと首をかしげるエンの前で、男は兎に言った。
「大きな声で、カスミ殿の名を呼んでみろ」
「?」
何を言っていると顔をしかめたが、更に勧めると素直に白い両前足を口に当て、大きな声で名を呼んだ。
変化があったのは、社宅の部屋に戻ってからだ。
この間の部屋に通し、茶と白湯を用意して戻ってきたら、今の風景があった。
唖然としたが、全く気にせず用事を訊いてくる兎につられ、エンは呼び出そうとしていた父親にではなく、他の二人に向けて相談事を話していたのだった。
ひとしきり兎の堪能したカスミは、ようやく人が理解できる言葉を発した。
「水月の件だが、問題なかろう」
「は?」
あっさりとした答えに、エンは思わず棘のある返しをしてしまった。
「どの辺が問題ないと? ああ。あなたが一緒に行動しているわけではないですからね。昔の馴染みたちが、あの人の手にかかっても、気にしないわけですね」
「……まあ、そういう意味にとっても構わんが……」
とげとげしい息子の言い分に返したカスミは、珍しく躊躇って言葉を濁した。
呆れた顔の友人の目に、気づいたのだ。
目線を落とすと、兎は背中越しに振り返っている。
「……今の段階では、動かなくなるのを止めるすべはないが、死んだ体が件の呪いで動くことは、ない」
「理由は?」
兎の短い問いかけに、カスミは真面目に答えた。
「呪いの元は、もう消えているからだ。その呪いを練り込みながら体を作った、父上の力の元の方が残っているなら、どう影響するか分からんが」
頷く兎を見ながら、エンは思い出した。
水月が受けた呪いは、元々ある紛い物が関係していると。
先の騒動で、その紛い物は消えた。
ならば、呪いも跡形もなく消えているだろう。
だが、それだから安心と言うわけではない。
「……呪いを、練り込まねばならない作業だったから、相当凶悪な呪いを作り上げて、練り込んだはずだ」
発動しない事には、それの存在すら希薄すぎて、先に引き出すこともできない。
気配が全くなく、それと知れたのは、作り主の自己申告があってこそだった。
つまり。
「……状況は、変わらないという事ですか? それどころか、更に酷い状況だと?」
「場合によってはな」
「なのに、問題ないと言うのは、どういうことですか?」
「お前が取り組むのは、お門違いだと言う意味だ」
エンは、最近ではかなり気が長くなったと、そう思っていた。
だが、真面目な父親のこの言い分には、イラっとするのを軽く通り越して、殺意を覚えてしまった。
ああ矢張り、この人は嫌いだ。
図星を正確に刺されてしまったことが、それに拍車をかける。
穏やかに微笑んでいたのだが、空気にそれが現れていたらしい。
重と呼ばれた男が、苦笑してエンに声をかけた。
「倅殿。呪いと言うのは、それに触れた玄人から見ると、様々なものに見えたり感じたりするようだ」
「オレの場合は、音の糸に感じる。こまごまとした糸だな。そう感じた者が、もう一人いるようだ。水月の呪いを、引き抜いた張本人だが」
水月が本来つけていた呪いは、すぐさま消したが、もう一つの呪いは取り出した後、残していた。
呪詛返りのような効果を、心配したためだ。
「卒業祝いにそれを返されて、水月は困惑したようだぞ。返されても困ると。本当の持ち主に返した方がいいと、助言はしたが。ここまで解決しているのなら、オレの出る幕もない。生命反応が消えるきっかけを調べられるのは、作り主くらいだろうからな」
先の凌の話は、作り主の練り込んだ呪いが、未だに水月に根付いているという事が前提の話のようだから、当のカスミの父親は、まだその事実を知らないのだろうと言い切った兎に、エンは恐る恐る尋ねた。
「……つまり、呪い云々の心配は、しなくてもいいと?」
「そういうことだ」
兎より先に答えたカスミは、話の把握に時間をかけた倅を見やり、真面目に言った。
「水月が呪いのブツを返したら、父上がその辺りは調べるだろう。その後は、水月次第の問題だ。お前がどうこうできる話ではない。私の言葉少なな説明で、何故それを理解してくれないのだ? ここまで噛み砕いて説明しなければならんとは、情けない」
説明したのは、カスミではない。
エンは無言で睨んだが、他の二人はそんなカスミに慣れているのか、ただ呆れ顔になっているだけだ。
隙を見つけようと目を険しくしている男に、カスミは真面目に問う。
「まさか、そんなことのために呼び出したのではなかろうな。卑怯な手を使いよって。ウノを餌にされては、食いつくしかないではないか」
「……オレは、本当に変な奴に好かれる質なんだな。誉の事も、諦めるしかないのか」
背中から腕を回して抱きしめる男の前で、兎が諦め顔で呟く。
すると、カスミは真面目に言い切った。
「あの魚、今度お前に無茶をしでかそうものなら、闇世界に売り飛ばしてくれる。記憶を消して、力もそぎ落としてから。頭の中身はなくとも、姿かたちが立派なら、喜んで支配したい輩は多い。慰謝料代わりに、高く売り飛ばそう」
「まだまだ若い獣なんだから、大目に見ろ。あいつもあいつなりに、苦しんでいるようだから、それも考えてやってくれ」
「考えているからこそ、この程度で我慢しているのだが」
これでまだ我慢しているのかと、呆れる兎の前で、エンは少し考える。
記憶を消して、と言うのが優しさのようだ。
「オレなら、生きたまま逆さづりにして、捌かれる様を感じてもらいながら調理する、かな」
「……お主も、なかなかの、悪だな」
「ありがたいお言葉です」
重の言葉に礼をし、すぐに帰りかねない父親を引き留めるべく、気を取り直して話を変えた。
「オキの事です」
「お前は、多情が過ぎるぞ」
切り払うように返したカスミは、真面目に続けた。
「水月の娘だけでは飽き足らず、本人にまで情を向けるまでは大目に見るが、ただ姿が姉と一緒だからと、化け猫にまで情を持ってしまうとは。どこまで遊べば気が済むのだ?」
これはもう、抑えなくても良くないか?
思った時には、身を乗り出していた。
が、父親の両隣の動きの方が、早かった。
素早くカスミの膝から降りた兎が、真面目な男の顔を蹴り倒して、そのまま踏みつける前で、半透明の男が膝立ちでふさがってエンを牽制した。
「お前基準でっ、子供まで推し量るなとっ、あれほど何度もっ、言い聞かせていたのにっ、その言いようは、何だっ?」
カスミを踏みつけながら喚く兎を背に、重はやんわりと友人の倅を宥める。
「……落ち着きなさい。あのような壊れた性格の父を持つお主には同情するが、ここで殺傷を犯すと、水月が荒れるぞ」
「大丈夫ですよ。血糊を綺麗に落とし切る方法も、あの集団には伝わっていますから」
自分たちが所属していた集団は、大仰に見せることが殆んどだったが、秘密裏の殺戮にも対応できると言うのが、隠れた売りだった。
そう穏やかに返した男に素直に驚き、それでも窘める。
「それはすごいが、その方法を実行する間は、余り残されてはおらんだろう?」
「そんなことはありません。突発の殺傷でも、対応できるのを、自慢にしていましたから」
重は目を見張って成程と頷き、背後を振り返る。
「蓮が首をはねた時も、その方法で綺麗にしたのですか?」
振り返った先には、気が済んだ兎を腹の上に乗せたまま、身を起こそうとしているカスミがいる。
「ちっ。相変わらず、この程度では回復はすぐだなっ」
舌打ちをして吐き捨てる兎を見る目は、しみじみと慈しみの色があった。
「久しぶりのお叱り、充分に堪能できた。欲を言えば、もう少し頭を潰す勢いで……」
「いつから、そこまでの変態になったっ?」
昔からおかしい子だったが、それに更なる輪をかけている。
思わず毛を逆立ててしまった兎を、再び膝に乗せて胡坐をかくと、カスミは友人の言葉に答えた。
「あの頃は、その方法を考えもしていませんでしたが、いつの間にやらロンが、それを考え出したようです」
「ほう」
感心した友人が、元の姿勢に戻ると、カスミも同じように体を落ち着け、何とか冷静になった息子を見やる。
「……ランとオキの話は、お前も納得していると思っていたが?」
「ええ。ですが、先に亡くなる可能性が高いのが、律さんの方だと言うなら、話は別です」
真顔のエンを見やり、カスミは真面目に言った。
「これは、畑違いだ。産婦人科にでも相談した方が、早い事案だろう。それを、あの二人が考えもしていないはずも、ない」
「……」
「出産だけが問題なのならば尚更、未知の力を頼るまでもない。あの二人の考えを変えるよう説得しろと言うのなら、無理だと言っておく。私に、説得力があると、本気で思っているのか?」
本気も何も、説得してもらおうとは、欠片も思っていない。
だが、エンは抜かったと反省していた。
「……そうか、あの二人の件は、そんな裏道があったか」
「お前、相当調子が悪いか?」
気遣いの言葉だが、本当に心配しているのか疑わしいカスミだ。
「それとも単に、考え付かなかっただけか?」
「ええ。これまで、周囲の連中は、普通に出産していましたから。自然分娩以外、考えていませんでした」
呆然と言うエンに、そんなところかと真面目に頷いたカスミは、膝の上の兎を見下ろした。
「あの魚とのことでは使えんが、哺乳類同士ならば、何とでもなるだろう。腹を開く方法も危険はあるが、身近な者たちの手を借りれば、もう少し安全な方法も考えられよう」
言い切ってから首をかしげる。
「? どうした? 目を剝いて。恐ろしい形相になっているぞ」
「……お前こそ、どうした? そんなにあっさりと、人に助言するとは」
「しろと言ったのは、ウノだろう?」
二人の会話は、ほのぼのとしていた。
重は横でそれを微笑ましく見守り、前に座るエンを見た。
正座したまま、考え込んでいた男は、何やら決意をしたようだった。
高校を卒業した時、水月は珍しい贈り物をもらった。
今日はそれを、本来の作り主の元へ、返しに行く。
「まあ、セイちゃんがあなたを蝕む呪いを取り出したと聞いた時から、ちょっと不思議だったのよね。そんなに半端に、取り出すかしらって」
作り主と中々連絡が取れずにいたところ、この間の世話の礼と繋ぎを取ってくれたロンが、水月の持つ袋の中身を覗き込んで笑った。
「正確には、二つに分けて取り出してたのね。持ち主に返す分と、消す分で」
「……オレは、持ち主と認識されていたと?」
これが、水月の核、と見られていたわけではないだろう。
でなければ、最近まで返却がなかったはずがない。
同時に、本来の作り主を知っていたとしても、そちらに返さなかった理由が分からない。
謎が増えたと苦笑する水月に、ロンは曖昧に笑いを返したように見えた。
含みのあるその表情を気にしながらも、自分の今の体を作り、命を吹き込んだ男との面会に望む。
ロンが見送る中、面会場所に入室した水月は、席を立つクリスの女房を見送り、すぐに袋の中身を出す。
それは、毛玉の塊の様だった。
黒い、縫い糸の細さの糸が絡まり、完全に毛玉化して固まり、手につく心配もないほどだ。
硬い表情のまま、クリスが目を剝いた。
「……どうやって、これだけ取り出した?」
「これだけ取り出したんじゃなく、オレに元々ついていた呪いと共に、一緒に取ったらしい」
「……あの、狂った子が、か?」
「今は、それほど狂ってはいないだろう。中々、素直な子だ」
しんみりとして答える男に、クリスは溜息を吐く。
「素直だから、一糸の欠片も違わず、取り出せたと言うところか。こういう状態で、お前も良くもったものだ」
「手探り状態ではあるが、ある程度の境は想定している。シノギの旦那が基準ならば、そんじょそこらの奴では、危険はないとみて動いていたんだが」
同じようにしんみりと言った作り主に答えると、促した。
「こうなったからには、その境を明確にしておきたい。一人立ちする年齢まで無事と言うのは、オレも想定外だ」
水月は、その贈り物をされるまで、クリスが練り込んだ方の呪いは、未だ健在だと思っていた。
だから慎重に、相手を選んで動いていたのだ、これでも。
まだ幼い子を死なせるのは、律が心配するまでもなく、例え自分自身でも了承できないと、本当に気を付けていたのだ。
十代後半になると、何とか保護者の目を掻い潜り、いずれ戻ってこれなくても心配されぬように、きわきわの動きを始めてはいたが、まだ未成年の身でそこまで思い切った動きはできていなかった。
不安は消えぬままの、安どの想定外だ。
「……もうすぐ、二十歳か」
「また、未練はできたが、あの程度のもので、思い残して怨念が残ることはないだろう」
成人するまでは、水月を保護すると決めている律が悔いる事態も、もうない。
娘や、事情を知らない息子たちの幸せも気になるが、それは今更だ。
だがついつい、呪いに思いを残してしまったために今があるから、今後何が原因になるか見当もつかない。
だから、思いを残しそうな案件は、片づける勢いで動いているのだが、それをし続ける上で、限界の境を知るのは重要だった。
「お前の認識のままで、大丈夫そうだ」
水月を上から下まで見つめたクリスが、固い顔で答えた。
「シノギ程の実力の者とは、仕合う場面は少なかろうが、用心するに越したことはない。いないわけでは、ないだろう?」
「ああ。あの人以外に、死人は一人、生者で二人、心当たりがある」
三人とも、今の所は角を突き合わせる間柄ではない。
凌とも、意外に良好な関係だ。
「だが、身近にそれだけいるという事は、探せば敵対する同等の奴もいるだろう。これから出会う中にいるかもしれない」
例えば、今の仕事の襲撃の相手の、頭格がそうかもしれない。
昔聞いた話では、体の限界を越えたら、水月は文字通り止まってしまうらしい。
動いている途中でも、目を見開いていても、話している途中でも、唐突に。
一人、敵の中でそうなれば、獣たちには幸いな餌となるだろう。
「そんな場面での限界なら、何の問題もない。肉体が消えれば、万が一残ってしまった思いがあっても、風化するだろうから。問題は、味方もいる場でそうなった時だ」
例えば、エンが傍にいたら、あの男はすぐに水月を抱え上げて、退却を決めるだろう。
「あいつは、雅に惚れている」
「……」
本人の前では指摘しないことをはっきり言った水月に、クリスは意外そうに目を見開いた。
「まだ、オレの事で含みがある雅が後悔して悲しまないように、カスミの旦那を使ってでも蘇らせようと、目論むかもしれない」
そうなったら、完全に逃げられない。
「その前に、あんたが、作り主としての責任で、この入れ物を消してくれ」
今度こそ、蘇ることがないように。
真剣に言った男を見やり、クリスは静かに確認した。
「それで、いいのか?」
「元々、そのつもりだったんだろう? 凌の旦那が止めを刺した後、跡形もなく焼き払うと、そう言っていたじゃないか」
優しく笑う水月から目をそらし、男は天井を仰ぐ。
「メルが、悲しむ」
「ふざけるなよ。もし、そんなくだらない理由で、元々の話を覆すなら、こちらも保険を用意する。死体を跡形もなく消せるのは、何もあんただけじゃないぞ。自分の作品を、別な奴に壊されるのが嫌なら、最後まで責任を持て」
小柄ながら迫力がある脅しに、男は天井を仰いだまま小さく唸った。
「……まあ、責任はあるか。分かった」
そのまましばらく考えたクリスは、ようやく頷いた。
「元々、あの連中を逃がした後から、お前を気にはかけていた。また、同じように目をかけていれば、出し抜かれることもないだろう」
「それは、オレが消えた後のこの入れ物が、誰かに利用される可能性が、あるという事か?」
「利用と言うより、お前がさっき懸念していたことが、一番あり得る可能性だ。カスミの唾がかかっていない状態のお前ならまだ、私の方が出し抜ける」
嫌な例えだ。
意味合いが違うのは知っているが、男のそれがついていると称され、ついつい眉を寄せてしまった。
後味は濁ってしまったが、概ね良好な会談を終え、水月は部屋から出てきた。
明るく手を振るメルに見送られて、何故か待っていてくれたロンと共に、建物から辞す。
「……満足な答えは、得られたようね」
「まあな」
「そう」
ならいいと笑った大男を見上げ、優しく確認した。
「止めないんだな、あんたは?」
「ええ。理由がないもの。今まで、女の人とも遠ざかっていたんでしょ? なら、ミヤちゃんたちのように、無責任に子が出来ているわけでもないし、今の内に退場しておいた方が、あなたも悔いは残らないでしょ?」
「そうだな。あれは、本当に、身を引き裂かれそうだった」
軽い気持ちでカスミの話に乗ったことを、後悔したものだ。
あんな思いは、しなくて済むと言うのが、昔と今の違いだった。
思いもよらず、娘と深くかかわってしまったが、せいぜい婿候補をいびって、二人にはぜひ、いなくなってせいせいしたと感じて欲しいと思っている。
「悔いになるとしたら、孫が見れるか否かの瀬戸際で、去るかもしれないことだな。こればかりは、あの二人次第だろう」
「そうね。おかしいわよね、あなたの娘と、カスミちゃんの息子よ? どうしてあんなに淡白なのかしら。少しくらい、積極的に進んでも、バチは当たらないのに」
ロンは不思議そうに首を傾げた。
血縁云々もそうだが、ここまで生きた中で生じた修羅を思うと、二人が色事で荒んでいないのも、不思議だ。
狩人のような目を向ける娘への、婿候補の反応を思い出し、水月は昔何事かがあり過ぎて、それがトラウマになっているのではと察していたが、娘の方の淡白さの理由は分からず、同じように不思議に思っていた。
もし、何か原因があるにせよ、手あたり次第誰かに手を出して、身の危険が心配になる事態ではないのは、有り難いと思っているが。
「……早いところ、孫が見たいっていうのなら、裏技を使う手も、あるわよ」
「ああ、見る見ないは別として、しびれを切らすぎりぎりまでは我慢して、裏技を使う考えは、ある」
と言うか、出来た。
やんわりと笑った水月は、先日ある女からもらったお礼の品を、思い出していた。
「あ、シュウレイちゃん、本当にあれを、お礼に持って行ったの?」
「知っているのか?」
少し驚いて目を見開いた水月に、大男は苦笑気味に頷いた。
その様子で、色々とまた察する。
「あの狼の店で、あんたが修羅場を見ているだけだったのは、そのせいか」
「そういう事。本当に、こちらが大人しくしていても、やらかしてくれる子が多くて、休む間もないわ」
狼の件のように、傍観するだけの時もあるのに、ロンは大げさに嘆いて見せた。
そんな様子に、水月は天を仰いだ。
「休む間もないなら、凌の旦那の方の件は、押し付けられないか」
「え? 何の事?」
「ようやく、狼の昔の企みが、凌の旦那の耳に正確に入ったんで、こちらも場合によっては揉める」
今は、鏡月への態度に手をこまねいているようだが、それが過ぎたら今度こそ、諸悪の友人をどうにかすることを考えそうだ。
それは口に出さなかったが、ロンはその言わなかった部分を正確に察した。
「ならば今度こそ、蘇ってこちらに今後障らないよう、念入りに荼毘に付さないといけないわね」
邪魔に入りそうな娘夫婦は、今の内に説得してしまっておかなくては。
そう心に決めたロンは、長年の疑問の解決を見ていた。
「……やっぱり、狼のご夫人は、セイちゃんとは係わりなかったのね?」
「血の係わりは、な。腹を貸してくれたのは間違いないから、強く責められん」
「物心がつくかつかないかの頃まで育ててくれた恩は、あの子本人が数倍にして返したから、何の遺恨も残らないはず。だから、夫婦もろとも消してしまっても、大丈夫ね」
きっぱりと言い切る大男は、今までずっとヤキモキしていたようだ。
それを指摘すると、ロンは人を食ったような笑顔で言い切った。
「当たり前でしょ。本能云々のために、息子を変態に売り払って、散々苦労させたくせに、今の時代で孫までいる幸せぶりよ。不公平じゃない。その本能に振り回された子は、未だに苦労しているのに」
助けもしなければ攻撃もしなかった理由は、その狼の倅の複雑な心境と、その狼に育てられた若者の心境を思っての事だ。
その終止符を打てる男が、ようやく動いてくれると言うのなら、有り難い話だった。
「……叔父上の事だから、許す可能性もあるけど、居心地悪い思いの一つでも、してくれればそれでいいわ」
この世から消せないのならば、せめて目の届かないところに行って欲しい。
ロンを含む、セイの周囲の者の望みだった。
「……」
意図して娘たちに嫌われようとしている水月だが、無自覚に敵を作り出している狼夫婦に、憧れよりも畏怖を強く感じる。
自分たちの愛情のために、周囲をかき回し恨まれても、真っすぐにそれを守り抜こうとする二人は、今も昔も迷惑でしかない。
ああはなりたくないと改めて思い、水月は更に慎重に動こうと心に誓った。
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