第7話 弟子と

 翌日は、早朝から大騒動だった。

 それは予想できたから、それぞれの喧騒を聞き流しながら、エンは朝の支度をする。

 共有の部屋にこたつ机を出して、全員分の朝食を並べた時、起きてすぐに風呂に直行し、バスタオルを頭からかぶったまま出てきたシュウレイが、それより一足先に起き出して、朝風呂を満喫して食卓に着いていた水月を睨んだ。

「……っ、この屈辱は、絶対に晴らすからっっ」

「早く服を着ろ。朝から刺激があり過ぎる」

 やつれている女とは違い、不機嫌ではあるが元気な水月は、昨夜閨を共にした相手に対するにしては冷たい態度で、シュウレイにきっぱりと言った。

「オレの方が、もうあんたの相手はごめんだ。自分だけ満足して、早々と眠りについておいて、屈辱も何もあるか」

「眠ったんじゃなくて、気絶したんだよっっ。私の本領を発揮する前に、あんたの手管がすさまじすぎて、耐えられなかったんだっっ」

「完全に、負けたんですね」

 呆れ声のエンの指摘に、シュウレイは悔し気に歯噛みした。

「うるさいっっ。絶対に許さないんだからっ」

「訴えるなら、訴えろ。まだ未成年のオレとあんたでは、どっちがとがめられるか、火を見る様に明らかだが、それでもいいならな」

「きぃーっっ」

 本当に、朝っぱらから話す話題ではない。

 雅が居なくて良かったと、つい安堵してしまう。

 この場合、あの人がどちらの味方をするか、興味はあるが。

「まあ、こうなるだろうとは、思っていたが」

「相変わらず、元気だな。お前は」

 外見の割に老齢化した言葉を吐く大小の男二人は、自分の前に置かれた味噌汁を、神妙にすすっている。

「ああ……久しぶりに、悪酔いしたような気がする。清酒にしておけばよかったか?」

「あれだけ飲めば、清酒だろうがもっと度の強い酒だろうが、一緒だ。……と言うか、味噌汁を出されるとは」

「味噌も一応、大豆なので、セーフかなと思ったんですが」

 しみじみと言った兎の前に置いたのは、野菜の具とそれからでた出汁だけの味噌汁だが、凌の方には出汁までシジミからとった、シジミ汁だ。

「酒飲みには、有り難い飲み物だ。助かる」

 凌が目を細めたまま静かに言い、ゆっくり味わうさまを見ながら、エンは自分の部屋に入った。

 昨夜、ベットに放り込んだ若者は、頭を抱えて寝込んでいた。

「起きれそうですか?」

「……おかしい。そんなに飲んでないのに、頭が……」

「一升瓶を一気飲みは、相当の量ですよ」

「? そんなには、飲んでないだろう?」

「飲んでました」

 きっぱりと鏡月の記憶違いを指摘しながら、あの辺りから記憶がないようだと察した。

「とりあえず、何か胃に入れてください。シジミ汁です」

 身を起こすのを手伝ってシジミ汁を飲ませると、鏡月は少しずつ昨夜のことを思い出し始めたようだ。

 エンの顔を伺いながら、尋ねる。

「ウノと凌の旦那は?」

「既に起きて、朝の散歩にも出てましたよ。リードを付けて」

 完全に、犬と間違えている。

 兎の方もノリノリで、社宅の周りを散歩し、愛犬家たちの目を剝かせて帰って来た。

 凌もその様子を見て大いに笑ったらしく、戻って来た時にはすっきりとした顔になっていた。

「……あの人に、リードを付けて来ていたんですか? ハーネスも?」

「ああ。人の家に訪問するときに、怪しまれないようにな。犬用でも問題ないようだ」

「そうですか」

 年齢を重ねると、どこかおかしくならい方がおかしいのかもしれないなと、エンは心の中で納得した。

 仕事に出るタイミングで、客たちも部屋から追い出す。

 外で別れる際、あることがすでに習慣化していた水月が、まだ頭痛に悩まされている鏡月に、それを差し出した。

 兎がそれを見上げ、露骨に顔をしかめる。

「……趣味が悪いぞ。盗聴ではないとはいえ」

「仕事柄、習慣化せざるを得なかったんだ。仕方がないだろう」

「これは?」

 一本の記録媒体を受け取った鏡月が、念のために尋ねる。

「ウサ坊と青鷺たちの会話と、昨夜の会話の記録だ。誉に渡してやれ」

「……ウノに突撃したら、どうすればいい?」

「完全に、カスミの旦那を敵に回すつもりがないなら、我慢するだろう」

 答えた水月に頷き、凌が二人を見下ろした。

「心配なら、一緒に行くか? どうせなら、さっさと再会してから、解決策を練った方が、双方落ち着くだろう?」

「……落ち着く気が、しないんだが」

 これからの事を思い、げっそりとしている兎と、仕事後の待ち合わせ時間と場所を話し合う二人をそれとなく見ていた水月は、空き瓶をごみ収集所に持って行って、戻って来たエンと合流した。

 少し出勤予定時間より早いが、今日は水月の保護者が定期的にやってくる日だ。

 ついでに、エンの戸籍の件も話が進む予定だ。

「ああ、この近くの施設出身の記録を、作れたとか言ってたな」

 先日偶然会ったと言う兎が、そんなことを言ってから思い出した。

「そうだ。気になることがあったんだ。水月、律だが……」

 さっさと切り出して、言い逃げ状態で立ち去ろうとしていたのだが、それは叶わなかった。

 当の律が、門をくぐってくるのが見えたのだ。

「?」

 鏡月が、何故か目を見開く前で、水月が気楽に手を上げる。

「来たか」

「はい。おはようございます。それに……」

 律は微笑んで返し、出迎える形になった客の多さに、首をかしげる。

「青谷殿の件が、大きく動きましたか?」

「ああ。色々と、な。まだまだ考えることはあるが、どうするかの方針は決まった」

「それは、良かった」

 微笑んだままの律に、鏡月は何故か驚いたままだ。

 それに気づいた水月が、気楽に保護者に声をかける。

「また、預かっているのか?」

「ええ。最近は、鳥の子が多いですね」

 言われて若者の驚きの元に気付いたのか、律は慌てて内ポケットからそれを出した。

「ゲン担ぎに、頼まれるんですよ。特に野生の獣と契った方から」

 鶏の卵より、少し大きめの卵だった。

「今回は、鷹です。数個一緒には無理なので、一日一つずつ懐に持ち歩いているんです」

 力がついてから今日までで、律は随分と有名になった。

 多岐の種類の知己は、その英知を少しでも子に宿してほしいと願い、特に力のない野生の獣と契った者は、ゲン担ぎに何かをして欲しいと考えるようになったようで、相談されるようになったのだ。

「……何だ。いよいよ、オキの年貢の納め時かと思ったのに」

「それは、まだまだです。ところで、鏡月?」

 安堵しつつも額を抑える鏡月に答え、律は静かに問いかけた。

「アルコールを、ここに持ち込んだんですか?」

 若干低い声になった狐の問いに、若者だけではなく、水月まで肩を跳ね上げる。

 それを見て、エンが慌てて言った。

「大丈夫です。水月さんには、一本の一升瓶も、渡っていません」

「おい、それは……」

 その言い方は不味いと咎めようとする水月より先に、その保護者が低い声で問い返した。

「一杯は、渡ったという事ですか? ジョッキで?」

 目を細めた律の言い分に、否定の仕方がまずかったと察し、エンは更に慌てて首を振る。

「盃一杯分も、飲ませていないです。誓って」

 言い切った男から師匠に目を移すと、水月も真顔で頷いた。

「ノンアル飲料には手を出したが、酒には手出ししていない」

「……伏兵がいることを、失念していました。客に持ち込まれては、防ぎようがないですね」

 重く反省する狐から逃れる様に、三人の客は矢継ぎ早に暇の挨拶をして、そのまま社宅を後にした。

「……じゃあ、私も、お暇するよ」

 シュウレイも力なくそう言い、そのまま立ち去る。

 それを目を細めて見送った律が、別な疑惑を口にする。

「……遊び過ぎて、恨みを買うような事、しないでくださいね」

「分かっている。だが、心情的には、こちらの方が恨みたいんだが。相手だけ満足して、オレは殆ど満足できないんだからな。同意しているとはいえ、あんまりだろう?」

 こちらは満足できず、面白くなかったからこそ、毎回すぐに別れを切り出すのに、弄ばれただのなんだの、理不尽である。

「こちらからすると、人の手や口を弄んで自分だけよがっておいて、何を勝手なことを言ってるんだと言う話なんだが」

 水月は、昔から心がけていることがある。

 自分が興に達すると感じた時に、相手に同意を求めるのだ。

 そんな夢うつつの状態で、相手が拒否することはあり得ないのだが、拒否どころかその同意をしてもらえない状態しかなく、一線を越えられた女は、片手で数えられるほども、存在しなかった。

「相手が気絶したら、すぐに萎える」

「……」

「あの女なら、体力もありそうだからと、徹底的にやらせてもらったと言うのに、残念だ」

 相手側からすると、これ以上ないほどに紳士な男だが、健全な男とは言い難い事態だ。

 例の呪いの刀を使った女も、最後までは進めず見放された相手だったらしい。

「体の隅々を堪能しておいて、なかったことにするとはと、恨みひとしおだったようだ。その点は申し訳ないと、後になって思ったが、斬り捨ててしまった後では、謝罪も出来んだろう?」

「そうですね。反省しているのならば、シュウレイさんにも、実行すべきではなかったかもしれませんよ。あの人、負けず嫌いの気も、あるようですから」

 諦めないかもしれないとエンが言うと、水月は気楽に手を振って返した。

「こちらが乗らないなら、いずれ諦めるだろう」

 そうかな。

 疑いの目を向けたが、弟子の方はその言い分に反論せず、ただ溜息を吐くだけで、大昔からこの考えは変わっておらず、周囲は諦めていると知る。

 本人がそう思っているのなら、外野が何を言っても駄目だと言うのも、経験上分かっているエンは、そのまま黙った。

 同じ心境の律も、今回の訪問理由に話題を変えた。

「戸籍作りの書類が、整いました」

 変換された話題の方は、エンに不都合なものだった。

 必死に表情を隠す男の傍で、水月は頷いた。

「施錠して出たから、それは職場の食堂で済ませよう。書類は揃ったら、どのくらいで証明書ができる?」

「ひと月ほどで。書類の年齢では、保護者が受け取ることになっています。そちらは先日、手はずが整っています」

 手の込んだ計画がかなり進んでおり、矢張りやめるとは言い辛い。

 エンは、覚悟を決めることにした。


 戸籍の書類を揃えて帰った律を見送った翌日、その知らせを持ってきたのは雅の弟の萌葱もえぎで、完全に取り乱していた。

「律が、倒れた!?」

 丁度昼時で、食堂で茶をすすっていた水月は目を剝き、立ち上がる。

「後、頼むっ」

 調理場の方に短く声をかけると、返事も待たずに飛び出して行ってしまった。

「え、ちょっと待ってっっ。どこにいるか、言ってないっっ」

 慌てて追いかける萌葱の背を見送るしかできず、エンは立ち尽くす。

「……無理、させてしまったんでしょうか」

 そうならば、水月が戻って来た時に、恨み節の攻撃があるだろう。

「恨み節だけなら、いいんじゃないですか?」

 丁度、同じように昼食に来ていた長谷川瑠衣が、コーヒーを飲みながら言った。

「森口君、結構ファザコン気味だから、肉体的な害もあるかも」

「ああ、有り得ますね」

 戸籍上での関係だけで言っても、師弟の関係で言っても、それはあり得る。

 こういうのは、言い訳や宥めの言葉は、逆効果だ。

「……傷薬と痛み止め、あったかな……」

「保育園の方に、常備してますよ。買い足すから、持って行っても、大丈夫です」

「助かります」

 最近、腹をくくらなければならないことが、多い。

 覚悟し慣れてしまったような気がするが、心構えしているだけで、後の衝撃が和らぐものだ。

 それでも、取り越し苦労ならばいいなと思いつつ仕事に戻り、いつものように就業時間まで作業をする。

 水月の代わりに、周囲の警戒もしながらの就業を終え、帰り支度をしている時に、小柄な男が戻って来た。

 いつもよりも硬い表情を上げた水月が、荷物を持って振り返ったエンを見て、眉を寄せる。

「……怪我をして倒れたわけじゃない、過労だ」

「過労。矢張り、無理をさせ過ぎたんでしょうか?」

「それもあるが……」

 言葉を切った水月は、珍しいほどに忌々し気に、舌打ちして続けた。

「喧嘩が、原因らしい」

「喧嘩? 誰かの喧嘩の仲裁に入ったのが、原因ですかっ?」

 エンは目を見開いて、その誰かを心配した。

 二人以上はいるであろうその誰かが、律の過労の決定打になったのなら、この舅候補が黙っているはずがない。

 この傷薬の山は、その人たちに届けなければ。

 生存を心配しつつも、すぐに動こうとしていたエンに、水月は溜息を吐きながら告げた。

「……律本人が、喧嘩したんだ。オキと」

「え?」

「……オキが浮気している現場に乗り込んで、修羅場を作ってしまったらしい」

「は?」

 間抜けな返ししか、出来ない。

 そんなエンを見て、水月は再び溜息を吐いた。

「だよな。信じられんよな。オキが浮気など」

「それもですが、二人が喧嘩って……しかも、律さんが倒れるほど」

 何かの前触れか。

 警戒した婿候補を見て、珍しく疲れた様子で水月が言う。

「まあ、解決はしたんだろう。運び込まれた先を探し出して会った時には、オキと一緒だったから」

「そう、ですか」

 萌葱は結局、追いつけなかったようだ。

 あちらは知らないが、水月は萌葱を息子と知っているはずなのに、その辺りの気遣いは皆無のようだった。

「その喧嘩よりも、原因がな……なぜ、そうなったんだろうな」

 珍しく溜息と共に、弱気な言葉を吐く。

 疲れすぎているようで、困惑を隠せずにいるようだ。

 愚痴りたいが、その話をうまくまとめるのにうまくいかず、躊躇っているように見える。

「……就業時間は、終わりました。後は、夕食の後にでも」

 そんな水月をやんわりと促し、エンは社宅へと足を向けた。

 話は見えないが、この人が困惑するほどなのだから、相当なのだろうと心配しながら部屋に戻り、手早く夕食の支度を済ませて食卓に出す。

 困惑しながらもしっかりと食事をした水月は、食後の茶をすすりながら、その日の修羅場の一部始終を語った。


 この日の朝、オキに果たし状が届いた。

「? 何が、届いたと、言いました?」

「だから、果たし状だ」

 今時、珍しい書状だ。

「正確な意味は知らんが、大概、勝負事で呼び出す時に使われるらしいな」

「はい。正確に知る機会は、未だにありませんが」

 あるような環境に、今後なる予定もない。

「誰からの、果たし状ですか?」

 裏で動くオキが、表立って誰かに恨まれることは、ありそうにない。

 だが、答えを聞いてつい、納得してしまった。

「オキの、弟子を名乗る男だ」

「ああ、あいつですか」

 同時に、浮気、と言う言葉の意味も、思い当たってしまった。

「知っているのか?」

「ええ。あ、もしかして、あなたが乗り込んだところには、そいつは不在でしたか?」

「ああ。これ以上はあんまりだと判断したと、そう言われた。誰の事だ?」

 誰の判断かは知らないが、エンも同じ意見だ。

 何でよりによって、同じような事を引き受けたのやら。

 呆れつつも続きを促す男に、目を細めながらも水月は続けた。

「オキもよく知る奴だったらしい。弟子と言うくらいだから当然だが。所定の場所に向かって、手合わせした」

 初めの内は、双方木刀を持ち、仕合っていたのだが、相手の方がつかみかかってきて、無手の武道の様相になってしまった。

 いい加減にしろと投げ技をかけ、寝技をかけた時、律が鏡月に連れられてやってきたのだった。

「道着ではなく、普段着でする動きにしては、激しすぎたんだろう。それを見た律が、場所を忘れるほどだから、相当だったのだろうと思う」

 それより先に、どうやら鏡月から仄めかしもあったらしい。

「? オキの浮気についての、ですか?」

「ああ。どうも怪しいから確かめようと誘われて、今日は岩切家の道場に顔を出したんだ」

 場所だけ考えると、そんなはずはないと高をくくっていた律は、オキが大の男を押し倒している様を見て、つい信じてしまった。

 かっとなった白狐は、己の武器の警棒を手に、オキに襲い掛かった。

「……」

 オキの方もあわてて、相手を放り出して応戦する。

 それ以上に慌てたのは、鏡月だった。

「律っっ。何で、そっちを襲うんだっっ。相手を殺せば、済むことだろうっっ」

「そんな八つ当たり、するはずがないでしょうっ。この人を殺して、私も死にますっ」

「わああっっ。やめろっ。落ち着けっっ」

 必死で二人の間に割って入った若者は、早々に暴露した。

「お前が少しでも、妖怪に近づけば、安全なんだよっ。頼むから、そいつを殺すだけで、我慢してくれっ」

「おいっ、オレを何だと思ってるんだっっ」

 蚊帳の外状態だったオキの弟子が、当然ながら文句を言うが、鏡月は睨みながら言い切った。

「捨て駒、だ」

「き、貴様っっ」

 その一連のやり取りを見て、頭に血が上っていた律が、冷えた。

 途端に、意識を失って倒れてしまったのだった。

「……」

「鏡月が、そのオキの弟子に、金で頼み事したらしい。どうせ、口止めはできると踏んで」

 その理由を聞いて、水月は苦い顔で唸った。

「……どうやら、凌の旦那に兎の奴が話している会話を、聞いてしまったらしい」

 先日偶然会った律を見て、気づいたのだと兎は言った。

 いつ、所謂神の使いとして天に昇っても、障りがないほどに力がついていると。

「神の使いとなるほどに、徳が高くなる動物は、その分、子孫を現世で育みにくい。生命力が、弱くなってしまうんだそうだ」

 兎の話を聞き、律の場合、元々弱い生態だ、もしかしたら、妊娠の段階で、問題となるかもしれないと気づき、鏡月は恐怖して考えたのだ。

「要は、神がからせず、妖怪の方に近い獣ならばいいのだと、結論を出してな、手っ取り早く、穢れを付けようと画策したらしい」

「……成程」

 律が昔仕掛けた、大掛かりな騙しと、似たような理由のようだ。

 しかも、巻き込む相手が同じときた。

「……鏡さんは、考え方が律さんと一緒なんですね」

「ん?」

「律さんも昔、オキに対して同じようなことを、したんですよ」

 理由は、似ているようで違う。

「……オキが、律さんとの伴侶関係を、破棄するように目論んだことがあります」

 目を見開いた水月は、続いて苦笑した。

「自分は、破棄する気がなかったのに、か?」

「はい。オキ側に、伴侶だと言う考えを、捨てさせたかったようです。あの人自身が、一時期体調を崩していたので、そのせいでしょうね」

 その時に巻き込まれたのも、オキの弟子だった。

「……律さんが、その弟子とねんごろになっている体を装って、オキを怒らせようとしたんですが、すぐに真相がばれてしまって。もう見ていられませんでしたよ。その後の二人の熱々ぶりは」

「……」

 苦笑したエンの前で、水月は溜息を吐いた。

 げっそりと疲れた様子で、力なく言う。

「今、律は古谷家に身を移して、療養している。オキも一緒だ。気が弱くなって、鏡月の不安まで取り込んでしまった律を、励まし慰める様を見たら、何というか、何を見せられているんだと。どっと疲れてしまってな」

「ご苦労様です」

 普段はそうでもないのに、相方の狐が弱り切っている時は本当に優しく、歯が浮くセリフも動じずに宣うのだ、あのオキと言う黒猫は。

 気持ちの持って行き所を失った水月は、事の発端を直撃した。

「だから、ここまで遅くなった。引継ぎなく後の押し付けてしまって、悪かった」

「大丈夫です。返り討ちにした方々の顔は、毎回確認済みですので、対処は可能でした」

 未だに、二度目の襲撃者はいない。

 エンは、軽い謝罪を受けて報告し、先を促す。

「どういう言い訳をしたんですか? あの人は?」

「昨日、誉の元に行かない言い訳を、凌の旦那に延々と話した中に、兎本人の番の話もあったから、それが律の事と重なったんだろうと」

 男の兎よりも精進し、神に目をかけられた兎。

「同じ色合いと言うだけで番となり、子も生まれたが、その後女は体力が尽きたらしい」

 子の方も一族の弱さが原因で、他の獣の襲撃で死んでしまった。

 何が何でも子を守りたいと願うのは、その弊害だろうと兎は己の心境を解釈していた。

「一時期は、当の兎の方も、神に目をかけられかかっていたようだが、その頃から、手を付けた兎全員、子を産むと命を落とし始めたらしい」

 その前は、そんなことなかったんだがと、兎は神妙に言っていた。

「……」

「ああ、お前の考えている、他の兎の子供は、結局育たなかったらしい。先に言った他の獣の襲撃が原因の時もあったが、母体と共に死んでしまった場合の方が多かったようだ」

「そうなんですね。それは、残念ですね……」

 話が横道にそれそうな疑問を、言う前に気付いた水月に答えられ、一応頷いたエンは気を改めた。

「つまり、どちらか片方がその域に達した獣の番は、子を産むのも命懸けという事ですか? しかも、女性の方だけ?」

「どんなに健康な女でも、出産後に一気に体力を失って、死に至ったそうだ。それが嫌で、あの兎は、自ら穢れた」

 誉は、そんな危うい奴とようやく別れられたのに、他の出会いを無視するのは、賢明ではないとそう言いたかったようだが、凌は大昔の誉を知っているから、懐疑的な顔をした。

 そして、鏡月は身近な二人を思い浮かべて、取り乱したのだった。

「……二日酔いの頭で混乱して、何とか律を死なせまいと考えて、完全に的外れな画策をしてしまったらしい」

 その結果、のろけを見るだけで終わってしまった。

「……ご苦労様です」

 再び深く溜息を吐いた水月に、全ての慈しみを込めて、エンはもう一度、短くねぎらいの言葉をかけたのだった。


 オキと律は、どちらも心に決めた伴侶同士だ。

 だが、主がいるオキは、律が命を失っても、己の命を寄り添わせることは、出来ない。

 伴侶が、自分を同じようにそう決めていると知った律が、オキの弟子のかいを巻き込んで、不義を装う試みをした時、事情を知ったオキがその事を説明し、納得させた。

 もし、周囲の反対を押し切って子を作り、生むことで律が命を無くしたとしても、オキは自ら後を追う事はしないだろう。

 あくまでも、自ら、は。

 オキの主には、もう一人の同種の獣が仕えている。

 それは、オキの姿の主の、ランの頼みでもあった。

 そして、その今わの際、オキへと姿を与える旨を口にしたランは、もう一つ頼んだ。

 オキと同じ想い人を持つ主は、その想い人と伴侶になることを、強く望んだのだった。

 自分では達成できないつながりを、達成してはいけない獣に強く望み、その願いを達成させるために、姿を得た後の主も決め、その主にもう一人の獣を支持させた。

 時が来た時、主に襲い掛かるであろうオキを、仕留めるために。

「……」

 まだ二人は、準備段階なのだろう。

 オキの主が健在であるのだから、鏡月の話に不安を覚えた律も、伴侶を残して逝く心配はしているだろうが、きっかけがあればそれこそ、いつでも子を作る作業に入れる。

 周囲に聞こえる心音を、誤魔化す小細工が進行中だから、これからその作業を始めてもおかしくはない。

 腹違いとは言え、血の繋がった義姉であったランの姿を得た獣が、その願いを叶えるのは止められないから、見守るしかないとは思う。

 だが。

 あの二人の計画は、本当に密やかに進む予定だ。

 つまり、周囲に知られぬように子を産み、世を去る気の計画だ。

「……」

 人の言葉を解し、その姿も取れる獣同士の夫婦は、その子が己と同じようになることを、極端に恐れる者の方が多いそうだ。

 あの二人もそんな恐れを抱いて、子を隠す気でいるようだ。

 冗談ではないなと、エンはそう思い始めていた。

 昔は、それを察しつつも、静観するつもりでいた。

 今は事情が違う。

 こっちは、恐ろしい人に捕まった。

 いずれは地獄だか天国だが分からない、複雑な結婚生活に突入し、もう逃れられないだろう。

 子供には罪はないが、だからこそその親には健在の上で、あの恐ろしい人の弾除けとして、少しでも活躍してもらわなければ。

 風呂から上がり、寛いでいる水月をそっと伺い、考える。

 ついでに、この人の方の問題も、調べてみるか。

 そのためには、本当に接触したくない人と、会わなければならない。

 それだけが躊躇いを生むが、とどまるほどではなかった。

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