第5話 従弟その他と
園児が全て帰宅しても、従業員は雑務に追われる。
ただの給食担当の研修員であるエンは、それを手伝ったのちに寮に戻った。
部屋に入って、真っ先に目に飛び込んだのは、長々と横たわった二人の男だった。
いるとは思っていたが、二人ともかと溜息を吐き、帰宅の挨拶と共に尋ねる。
「ただいま帰りました、水月さんは?」
「おお、お帰り。意外に広い部屋だな」
「お疲れだな。ミズ兄は晩酌用の肴を買いに、使い走りしてる」
晩酌用……エンは、嫌な予感がして冷蔵庫を開いた。
夕飯に作り置きしていたものが、すべて消えている。
「……」
園児が全員帰ったのは三時間ほど前で、今は二十時過ぎだ。
小柄な兎の男は、基本酒しか飲まないから、水月と鏡月で平らげてしまったのだ。
「口に、合いましたか?」
「ああ。ミズ兄も、飯が何杯もいけると喜んでた」
それならばいいかと頷き、二人の前にある物を差し出した。
「?」
「着替えてきますので、その間の時間稼ぎにどうぞ」
我ながら意地が悪いとは思うが、最近気分がどっちつかずで持て余し気味なため、ここいらで溜飲の一つ下げたいと、そう思っていた。
偶々、食堂のテーブルの裏にある物を見つけ、回収できたからこそそれが出来る。
天井を壊してしまった部屋が修繕され、三日前から使っているこの部屋だが、多少のプライベートは守られる作りになっていて、同居はしているが水月と同衾する羽目にはなっていない。
個室が、今男二人が寝そべっていた部屋の他に二つあり、それぞれベットが設置されていたのだ。
見張りを兼ねている水月が難色を示すと思ったが、あっさりと部屋の割り振りに賛成した。
それだけ、自信を持っているのだろうと思うと、それが確かだと知っているエンは、なんとも悔しい気持ちになる。
風呂は後でいいかと考えながら着替え、自分にあてがわれた部屋を出てくると、二人の様子より先に、ベランダに干された物が目に飛び込んだ。
一瞬、兎の生皮が干されているのかと錯覚したが、それにしては鮮やかな黄色で、雨具を干しているだけだと察した。
隣に人間用の雨具らしいコートも、ハンガーにかかって揺れているところを見ると、本日は随分と手の込んだ訪問となったようだ。
雨の日にご苦労様ですと、しんみりと心の中で呟き、そこにいた男たちを見下ろした。
兎の男は、白い頭を抱えていた。
若者の方は目を見開いて、畳の上に置かれた細い機器を見下ろしている。
食堂のテーブルの裏に取り付けられていたそれは、ボイスレコーダーだ。
誰が取り付けたか分かっているエンは、しんみりと呟いた。
「手の込んだ訪問日に、相応しい手土産になりそうですね」
「……ここでそれを、再生する気はなかったんだが?」
落ち着いた声音で答えたのは、その部屋が見える玄関先で、扉を背に立つ水月だった。
エコバックを下げた男は溜息を吐き、続ける。
「今、回収に行ったら、もう消えていたからもしやと思って帰ってみれば、既に再生済みか」
「触りだけです。恐らくは二時間丸まる、録音されていますから」
「五時間は行ける奴だ。なのに、なんで音が途切れた?」
その理由も予想できるが、わざとらしく尋ねる水月に、鏡月が答えた。
「……その触りを聞いて、ウノが叩き止めた」
兎は、頭を抱え込んで震えていた。
「不味い。逃げよう」
切羽詰まった呟きを拾い、水月はあっさりと言う。
「無理だろう。逃げても今ここにいるうちの一人が、誉と通じているのだから、無意味だ」
弾けるように顔を上げた兎は、目の前に座る鏡月を見た。
咳払いをして顔を背ける若者に、呆然と尋ねる。
「……同行した理由は、これか?」
「偶々、だ」
そっぽを向いたまま、鏡月が答えた。
「昼前に誉から連絡が来て、心配になったんだ」
例の青鷺が、本当に方法を知っているのか、それ如何では、また誉が傷つくだろうと心配していた。
「こっそり向かおうと準備してたら、あんたが誘いに来たんだ」
「……」
呆れた溜息を吐く水月に構わず、若者は続ける。
「あんたが生きて元気でいると知ったのは、あの電話がきっかけだったが、その後誉に聞いたら、あいつも承知していると言うんだ。なのに、知らないふりで古谷家にも出入りしているから、どういうことかと問い詰めたら……」
方法を探していると、誉は言った。
「何の、方法だ?」
探している方法の種類をぼかされ、深く問う水月に答えたのは、あの場で話を聞いていたエンだった。
「兎になる方法を、探しているらしいです」
「……は?」
兎の口から、珍しく間抜けな声が出た。
「正確には、兎を取り憑かせる方法を」
「意味が分からんぞっ」
「ええ。まさに、魚脳ですよね」
さらっと気に入った言葉を口にし、言葉を無くしている兎に言う。
「あなたとの間に子が出来ないのなら、子はいらない。しかし、近くによるだけで卵ができる生体では、昔と同じ悲劇が起きると、ない頭で考えたようです」
「……」
「その青鷺さんですが、人が憑依して生きながらえた獣らしいんです。そのために、鳥を子作りの対象にできずにいる。そんな人を捕まえて、相談を持ち掛けたんです」
水月が眉を寄せた。
「まさか、そんな曖昧な方法で、兎になれると本気で思っているのか?」
と言うより、と男は真剣に思う。
人間が憑依したという事は、取り憑いた人間側も取り憑かれた青鷺側も、のっぴきならない事態であったはずで、選択の余地などなかったはずだ。
今は後悔していて悩んでいるであろう本人に、何を相談しているのか。
苦い顔になった水月に、エンが補足する。
「青谷さんのほうは、もう割り切っています。逆に、人間の女と遊んでも、問題ないから気が楽だと。ですが、そういう相談をされても困りますよね」
「……その辺り、そこの兎と一緒か」
真面目に頷く男に、兎は反論する余裕はない。
その様子を見て、エンは穏やかに提案する。
「録音された全てを、聞いてみてください。結論には至りませんでしたが、誰か老齢の方に相談すると言う判断は、四人の間で下されていますから」
「……」
部屋の中の全員が、嫌な顔になった。
「お前、当人を捕まえて、相談する気だったのか?」
水月が顔をしかめたまま問うと、娘婿候補はとんでもないと首を振り、答えた。
「戻ったら、お二人がいたもので、もしや水月さんは、誰かを呼びに行ったのではと思いまして。丁度いいから、その人を含む老齢の方々に、この問題を押し付けようかと」
「取り繕いすら、やめたのか。お前と言う奴は」
雅の父親は呆れた溜息を吐き、先程閉めた玄関の扉を開いた。
「……一体、何事だ?」
買い出しついでに呼び出された大男は、室内にいる男たちを見回し、呆れ顔だ。
銀髪の色白の大男は、紫色の瞳で部屋を見回し、若者を見つけて後退しかかった。
それを止めたのは、後ろにいた女だ。
「叔父上? 逃げちゃだめだよ。今度こそ、色々とけじめを付けなきゃ」
その声を聞いて、エンが目を見開いた。
「おや。ヒスイさんたちとの修羅場、今日に持ち越されていたんですか?」
「違う違う。……本当に、違うからねっ。あんたが帰ってからまた、集まったとか、そういうことはないからっ」
首を振った小柄な女は、自分を見た水月に慌ててそう言いつくろった。
「そこまで卑屈な奴らとは、オレも思っていないが」
その慌てように呆れつつ返し、ここに至る経緯を話した。
「エンの夕飯まで平らげてしまったんで、近くの店で買ってきた。そのついでに、この旦那は呼んだんだが……途中で、この女とばったり会った」
「ここには、お礼に行くところだったんだよ」
女、カ・シュウレイは言い、手土産を差し出す。
「子供を挟んでの時には、虚勢の意もあって話が進まなかったし、今回もそうだったけど、遠慮がなくなった分、言いたいことを言い合ったらしくて、戻って冷静になったら、色々と思うところも出来たみたい」
血の繋がらない父子は、向こうの男の言い分も思い出し、反省した。
その上で、子供に向こうの連絡先を聞き、改めて場所と時間を指定して、今度は保護者であった面々だけで、面会することになったらしい。
素直に驚いて見てくるエンに、水月は内心居心地悪い思いをしながら、咳払いして言った。
「そうか。まあ、どうにかなりそうならば、良かった」
更なる修羅場を期待していたとは、とても言えない。
外面だけの返しを受け、シュウレイは笑顔で頷いた。
「巧の方も、話が一気に進んで、次の連休に、双方の家族と遊びに行くんだって」
本当に、一気に前進している。
保護者のいがみ合いが、いい方向に功を奏したようだ。
そちらは、素直に良かったと思う。
遊びに行くにしても、年頃が微妙な三人の子供が、何処まで楽しめるかは分からないが。
「荒治療だったけど結局は、それが正解だった。有難う。これ、うちの会社の最新作」
手のひらに収まるくらいの小瓶が数個、シュウレイの提げている紙袋には入っていた。
「二人部屋じゃあ、女の人を連れ込めないでしょ? これはね、リアルな情事の夢が見れるんだ。朝からすっきりっ」
「……また、媚薬系か」
「夜に二錠飲めば、好きな人で楽しめるよ」
鏡月が呆れて呟くと、シュウレイは笑いながら続け、父親の叔父を見上げた。
「叔父上も、試してみたらどうかな? 誰が出てくるのか分かれば、流石に自覚できるでしょ?」
「自覚も何も、そういう女は、一人だけだった。……女の方は、違ったようだが」
真面目に答える大男を、水月は一瞥しただけだったが……。
その一瞥が、鋭い刃並みだった。
何故、それに気づかないのか。
エンが呆れるその前で、鏡月が顔を伏せた。
畳の上に置かれた機器を見下ろしているようにも見えるが、小さく吐いた吐息が、そうではないと言っている。
「……明日も、仕事なんですけど」
よりによって、どうして今日の内に片を付けようなどと思ったのか、と言う意の呟きを拾い、水月はエンを見た。
「二手に分かれれば、今日中に解決するだろう」
「しませんよ。どれだけ長く、拗れている問題だと……」
「お前はまず、飯を食って風呂にでも入れ。その間に、オレはウサ坊と部屋に移る。ああ、茶の準備は、お前に任せるぞ」
より拗れている方を押し付けられそうな気配に、エンが思わず文句を言いそうになるが、その前に身を寄せた水月が言った。
「お前もここいらで、けじめを付けとけ」
突然の指摘に胸を詰まらせている間に、舅候補は兎を促した。
完全に油断していた、そう反省する。
誉が兎の生存に気付いたのが、先代の当主の祖父に当たる人物の、葬儀の時だったと話しているのを聞いて、尚更深くそう思った。。
「……あの時の当主の、息子じゃないかっ」
「早っ」
頭を抱えた兎の横で、カ・シュウレイが思わず短い呟きを漏らす。
「元々、疑ってはいたようだな」
ボイスレコーダーの音をかき消さぬよう、小声での会話だ。
先刻の会話を余すことなく拾ったそれは、誉の心境にも迫っていた。
暫くは、恐ろしく無謀な計画を止めようと躍起になっていた面々は、それに代わる計画を考え始めた。
一番妥当と思えたのは、野鳩の女の意見だ。
「……あんたが、医学上でどの種類になるかは知らないけど、不妊手術するのが、一番手っ取り早いんじゃあ?」
それを猛反対したのは、石川家の先代当主だ。
「駄目だ。そりゃあ、子孫を残すのは難しいかもしれないが、最小限の期待は残したいんだ」
「でも、残せそうもない人を望んでるんでしょ? どちらかが妥協しなきゃ、今みたいに悶々としているだけになるよ」
「大変だよな。オレみたく好都合な状況じゃ、ないもんな」
青鷺の男がしんみりと言い、溜息を吐いた。
「そこの人の言うように、あんたの進化を促進させる方法を見つける方が、いいんじゃないか?」
「それだと、時間がかかる」
誉の言葉に、その案を提示したエンが、穏やかに同意する。
「初対面してから今までで、未だに魚だか爬虫類だか、判別不能な状況なのに、あと何百年かければ、哺乳類に行きつくか、完全に不明だからな」
「それまで、ウノが生きているかも分からない」
「うちの親父さんを子守した兎らしいから、今でも相当の高齢だ」
野鳩が唸って呟いた。
「確かに、さっき会ったあの兎は、かなりの老齢だったね。神話の中の兎かと、一瞬思ったもの」
「それはない」
きっぱりと言い切ったのは、誉だ。
「海に散歩に出た夜、海の中の鮫どもにその神話の白兎の話で難癖付けられていて、岩場で立ち往生してるところを、オレが見つけたのが初対面だ」
それを聞いた面々は素直に驚いた声を上げたが、数時間遅れでそれを聞いた水月も、素直に驚いた。
「そうだったのか」
「大陸に渡ろうか迷っていた時に、その辺りにいた鮫どもに難癖付けられてな、どうするんだと、代わりに食いたいのかと尋ねたら、こんな大勢いるのに兎一羽で腹がたまるかと言う。そんなに群れているのが悪いだろうと、広い海で餌になりそうな動物が多くいる場所で、数匹ずつで別れて生きればいいと案を出したら、岩場に置き去りにされたまま、立ち去って行ってしまったんだ。あれは、困ったな」
音でその特定をしてやったにもかかわらず、そこまで礼を欠いた動きをされてしまい、途方に暮れていたところに、鮫より大きな波紋が前で立ち、あの獣が顔を出したのだった。
「心臓が止まらなかったのが、今でも不思議だ」
「だから、気絶していたのか」
静かに会話する二人を、何故かこちら側に合流したシュウレイが不思議そうに見やる。
自分たち姉弟も、様々な経験があるが、彼らの経験値はそれ以上のようで、突飛のない状況でも少し驚く程度のようだ。
その後数十分、議論と言ってもいいほどには盛り上がっていたが、石川家先代当主が溜息を吐き、呟いた。
「オレたちだけで考えても、埒が明かない。年嵩の式神に、それとなく聞いてみる」
「あ、そうだね。私も、色々と調べてみるよ。どうせ、暇だし」
野鳩もそう言い、二人は真面目な声で誉に言った。
「だから、無謀なことは、考えるなっ」
「いいっ? 間違っても、取り憑かれようとして、無暗やたらに兎を手にかけちゃ、駄目だからねっ」
「わ、分かった」
その勢いに押され、珍しく誉が引いた声を出したから、相当切羽詰まった顔だったのだろう。
「まあ、ウノさんに嫌われたいのならば、止めないがな」
「やらないっ」
エンの穏やかな指摘で、誉は完全に言い切った。
「……こういう時の釘差しは、手慣れているな」
「うん……物理的に、刺すこともできる子だし」
いつだかの雅との共同作業を思い出し、シュウレイは一人唸ってる。
「親父さんを頼るのは、得策ではないが、その周囲の人に聞けば、何がとっかかりがつかめるかもしれない。水月さんたちにも相談して、手の空いた時に探してみよう」
しれっと言った男に、誉は疑いをかけることなく同意した。
「頼む。別口でも探してくれてはいたんだが、最近まで別なことで忙しくなっていたから、少し自棄になりそうになっていた。人出が増えることで、色々と手立てが思い浮かぶのは、有り難い」
そこで会話は途絶え、雑談と客が立ち上がって立ち去る音が聞こえ、すぐに静かになった。
「……」
「まあ、あれだ。鏡月と連れ立ってきた時点で、あんたがこちらに巻き込まれることは、内定していたわけだ」
水月の指摘に、そのようだなと、兎も諦め顔だ。
諦め顔ながら、妙に表情は穏やかだ。
「情が、消えてくれなかったんだな。それなら、仕方ないか」
そんな表情を見ながら、やれやれと笑い、水月は缶飲料を差し出した。
「清酒のノンアルはなかった。だからこれで、我慢しろ」
「お前な……まだ、年齢的に飲めないなら、炭酸水か水でも構わなかったぞ」
受け取りながら苦い顔になる兎に、水月は優しく言った。
「ほろ酔いになりたい気分に、なっただろう? オレも、このノンアルとやらに、興味があったんだ」
どちらが本音で建て前なのか、判断に悩む返しだ。
普通の酒飲料と似たような絵柄のノンアルコールの飲料は、まだ二十歳にならない水月も買える。
呼び出した凌が、購入前に来ていれば、酒の一つも買えたのにと、残念に思いながら、黙ったまま思考をよそに向けていたシュウレイにも、それを差し出す。
「あ、ありがと」
受け取りながら、矢張り隣を気にする女は、小さく呟いた。
「ちゃんと、話をしてるのかな?」
「さあな。あの人は、無意識に盗み聞きの対処をする人だ。本当に、防音効果のいらない人だな、相変わらず」
「……誉に入れ知恵したのは、セイ坊だろうな」
あちらは、聞かせたくない時は聞かせず、聞かせたいときは聞きやすくする、臨機応変の対処ができる子だった。
「……おかげで、セイ坊呼びが、定着しそうだ」
先の修羅場の会話を聞いていた兎の、苦笑じみた言葉に、水月は天井を仰いだ。
「恐らく、いち早く気づいて、誉があんたの元に近づくのを、止めたんだろう」
「ああ。当時の当主の時も、その後の当主の時も、葬儀に付き添ってくれていたから、そうなんだろう。年寄り扱いが過ぎる子だが、それを嬉しく思う日が来るとは」
「ん? 元々、喜んでいたんじゃないのか?」
ほんわかと笑う兎は図星を付かれ、缶を口元で傾けたまま少し止まった。
考えながら缶を床に下ろし、言う。
「あんなに前から、爺さん扱いしてくれているとは、思っていなかったから、改めてうれしく思ったんだろうな」
爺さん扱いではなく、老人扱いでは、とも思うが、あの若者にかかれば、同じ意味合いだろう。
しみじみと言う兎に頷きながら、水月はシュウレイの方に目を向けた。
缶飲料を飲みつつ、まだ隣を気にしている。
「あんたは、吹っ切れているのか?」
「何を?」
「例の、絵画の剣の事、だ」
「ああ……うん」
曖昧に頷き、女は答えた。
「完全に、いなくなったと思ってた子、だったし。何よりも、私よりも大切にしていた獣の方が、今は落ち込んでるみたい」
絵画の中でへこんでいる白猫は、昔と同じくらいに痩せた上に、窶れてしまったらしい。
「画廊の主人と話し合って、色々と気にかけているんだけど、もしかしたらあのまま……」
「そうか」
元凶を消したその煽りが、違う形で現れていた。
覚悟していたとはいえ、矢張り悔いは残る。
「……あの獣にも、事情は話して納得してもらってたから、これも覚悟の上のことかもしれない。最期は看取れればとも思ってる。その位しか、恩は返せないから」
知らずにとられた子供を大事に扱ってくれた獣に、こんな形でしか恩を返せない。
何とも歯がゆいが、その獣の信念を思うと、それ以上できないとシュウレイは語った。
「猫の獣って、生涯の伴侶を持たないんだって。持ってしまったら、相手の死に耐え切れずに死を願うようになるから。そんなことしたら、主持ちは主を守り切れないでしょ?」
力が強く、子孫も残しやすい獣は、力が弱くて子孫を多く作らざるを得ない者たちとは違い、生涯の伴侶を持つことが多い。
その中で主を生涯守るその獣は、性質上伴侶を持たないのだが、こいつは馬鹿だと、画廊の主人は吐き捨てた。
吐き捨てながらも、苦し気な顔だった。
「子供のつもりで養っていたのに、いつの間にか、あの子を伴侶と同じように思って大切にしていたらしいって。辻さんが言ってた」
そうなれば、外野が何をしようと、この世にとどまりはしないだろうと、辻ながれの姿をした獣は苦い顔で言い切った。
「そうか」
静かに相槌を打った水月を見、シュウレイは慎重に尋ねた。
「律ちゃんは、大丈夫なの?」
「……昔は、まだ相手が猫だったから大丈夫だったが、恐らくはもう、辞めさせるには手遅れだ」
オキを、既に伴侶としてみている。
ただ一人の弟子の現況を答えると、女は深い溜息を吐いた。
「そう。じゃあ、あの猫の獣には、長生きしてもらわないとね」
「そのつもりだ。死にかかっても、地獄に落ちる前に、必ず引きづり上げる」
問題は、それが出来るほど、こちらの目の届く範囲で、死にかかってくれるかどうかだが、意外に、勘の鋭い連中が多いから、何とかなるだろう。
そう言った男に、シュウレイは懐疑的な目を向けたが、兎の苦笑交じりの言葉で納得した。
「……セイ坊を、それとなく見張っていれば、背後についているだろうからな」
「あ、成程。そうかあ。あの子が本当に、命の危険があった場合は、捨て身になるだろうから、それを助ければいいんだ」
「その危機を察することができる奴が、意外に多い。正確に、と言う意味では少ないが」
正確でない方が、まだ余裕ができるとも言えるだろうが……。
言葉を濁した水月に、兎は缶を傾けながら頷いた。
「正確に察しなかったばかりに、今回のような、苦しい選択をしなければならない事態になることも、ある」
誤った判断で混乱し、逆に足を引っ張ってしまう事も、ある。
「うーん」
シュウレイは唸り、三人がいる扉の向こうの気配を伺った。
矢張り、話声一つ聞こえない。
「……エンを、あちら側において、良かったの?」
「他の二人は、真実を知っている。だから、袋叩きにはしないはずだ。真相を話すかは、あの二人の心境次第だろ」
水月の蹴落とすような物言いに、女は再び唸った。
「……ねえ」
「ん?」
「鏡月さんの、あの刀。あれ、叔父上の子、なの?」
躊躇いがちの問いに、水月は慎重に答えた。
「恐らくな。大昔、鏡月を現場に送り込む前に、あの旦那の閨に送り込んだ数日後から、あの子以外の心音が、重なるようになった」
確かめるより前に、現場に向かう事となり、あの悲劇へと繋がってしまった。
「……オレは、あの心音の持ち主は、セイ坊だとばかり思っていたんだが……」
兎があっさりと、当時の心境を漏らした。
「え?」
「事情を聞いたら、複雑な事情があったらしくてな」
驚いた声を上げたシュウレイは、曖昧な説明をする兎を見つめ、慎重に言葉を紡いだ。
「……鏡月さん、二度目は自分で気づいたんだね。己に宿った自分以外の命に」
「……」
「怖くなって、叔父上に再び接触して、その体内に託した」
「……押し付けたか、子本人が、鏡月の意に応じたか、微妙なところだが」
ゆっくりと続ける女の声が低くなったのに気づき、兎は首をかしげながら答える。
シュウレイは大きくゆっくりと頷くと、さらに続けた。
「それを、早くから気付いていたあの狼が、横取りしたんだね?」
「……」
「強引に奪ったわけでもないようだが。あの子本人が、父親の相手であった女の願いに答えて、移った」
「成程。強引か否かで、話は随分と変わってきちゃうね。難しい問題だから。セイ本人に訊くのもどうかと、セキレイとは話してて、あの狼を締め上げるくらいしか、出来なかったよ」
これが例の、真倉家と河原家の顔合わせでの、二度の修羅場拡大の原因らしい。
その件を聞いてから、カ姉弟が何かを察したと推察していた水月が、矢張りかと頷く前で、兎がしれっと返す。
「本人に訊けばいい。ちゃんと答えてくれる」
実際、兎は随分前に、その不思議を問い詰めた。
「保育園に入園した男孫を連れていた狼を、ついつい背骨をへし折る勢いで踏みつけてしまったら、それを聞いたあの子が咎めに来てな、怒りの勢いのままに問い詰めたんだ」
すると、本当にあっさりと答えた。
「胎教の影響で、母体の願いを叶える子供は幾人か見たが、その母体も離れた上に更に移るような子供は、本当に珍しい」
「そう、なんだ。珍しい、ってだけなんだ」
つまり、いないわけではない、という事かと頷きつつ、シュウレイの歯切れは悪い。
そんな女の傍で、水月はしみじみと言う。
「頑丈なのは変わっていないんだな、あの狼。あんたの全力の踏み付けで、背骨を折れないとは」
「ああ。残念だった。女に生涯介護をさせる罰をくれてやろうと、目論んでいたんだが」
「女の性格によっては、それは褒美だろう」
逆に、子供に押し付ける場合もあるから、寝たきりにならなくて幸いだったと、水月は思う。
こちらが請け負った件は、解決とは言い難いが、大きく進んだ。
「……進んだ? オレには、後退したように思えるんだが」
「あんたからすると、そうだろうね。あのおかしな獣の情愛から、逃げられなかったのが、分かったんだから」
「無駄骨感が、消えない」
一番年かさの、小柄で童顔の白髪の男の顔を覗き込みながら、シュウレイはその頭を撫でながら慰めの言葉を言う。
落ち込むその男をしみじみと見、つい呟く。
「うん、可愛い。毛も、ふわふわ」
不思議である。
獣の時は、毛皮と肉としか思わないのに、人間になったら愛らしく感じる。
「私も、獣とのそういう行為は、お断りだなあ」
「……オレも別に、獣のままの狐と契ったわけでは、ないんだが?」
盛大に勘違いされているように思い、水月が苦い顔で主張した。
「どれだけ毛並みがいい狐でも、人間に化けられるからこそ契ったのであって、獣のままであれば、女として見ていたかもわからん」
「へえ。あんた、本当に、女に目がないんだ」
やんわりと微笑みながら言うシュウレイの目が、きらりと光ったのを、男二人は見逃さなかった。
「……」
「年下女は首尾範囲外だが、あんたくらいならば、丁度ど真ん中だ」
優しい笑顔を返しながら、それに答えるのを聞いて、兎はそっとベランダの方へと移動する。
「私は、相手がいいと言うならば、どの年齢でも大丈夫だけど……いいの? 私、意外に男を食うみたいなんだけど。一線超えたら、戻れなくなるかも?」
「超えられれば、だろう?」
凄みのある笑顔で首をかしげる女に、水月も優しく微笑みながら首をかしげる。
「果たして、一線超えるほどまで、あんたがもってくれるか、疑問なんだが?」
兎は先程、鏡月が買い込んできた酒で少しだけ酔ったが、この二人はアルコールを少しも入れておらず、素面のはずだ。
そんな状況でよく、好きでもない男女が、勢いでここまで盛り上がれるものだ。
ほとほと呆れながらも、兎はこっそりとベランダへと出た。
雨は上がっているから、雨具の着用はしなくてもいいが、寮の出入り口と周辺の至る所に、監視カメラがあるから、このままベランダから帰るわけにもいかない。
兎の姿で出るにしても、同行者の鏡月もなくそれをするのは、目立って仕方がない。
隣の部屋と今出た部屋の境に当たる場所に足を揃え、これから聞こえてくるであろう声を聞かぬように心がけながら、兎は朝まで瞑想にふけることにしたのだった。
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