第4話 卯辰と

 目的の場所は、意外に近かった。

 自分たちの就業場所の保育園から徒歩十分の、田畑が長閑な一軒家。

 そこの住所は、エンも知っていた。

 件の幼児が住まう家、だ。

 戸惑う気持ちを押し隠して誉の後に続いた男は、そこで目的の男と会った。

 その男も、知っていた。

 最近、挨拶してもらったばかりだ。

 青谷あおたに、と名乗る鳥の獣だ。

 幼児とは血縁関係にはないが、遠い血縁者である女性と懇意にしており、よく一緒に幼児を送り迎えしている。

 幼児は、野鳩の混血だ。

 もうかなり薄い血なのだが、元祖返り的な何かが発生し、純血種たちが勝手に慄いてしまい、子供の内にその命を絶とうと言う、無謀に出てきた。

 その純血種たちは、猛禽類を主とした、鳩の天敵とも言うべき獣たちだった。

 保育園での襲撃は、もう心配しなくてもよくなったが、家ではそうはいかず、その対策として青谷と名乗る男が、休日の間は訪問しているのだそうだ。

 絶滅危惧種ではないのに、妖怪化した姿は珍しい、鷺の獣だ。

 黒に近い青い髪の、鋭い目をした獣で、あの兎を思い浮かべる要素は一つしかなかった。

「……だからな、これは、ガキの傍にいるから、こうしているだけで、本来はもう少し大きいんだよっ」

 烏の獣の首をわしづかみにしたまま、青谷は力強く言い切った。

「生まれた時期が、その兎が死んだ時期と被るからって、生まれ変わりと言われるのは、大いに心外だっ」

 聞けば、おとぎ話的な逸話は耳にしているが、それだけらしい。

「まあ、肉食の獣を凌駕する兎と言うのは、憧れに似た感情も湧くが、それだけだ。オレ自身は、ただの鳥の獣で、烏の獣すらようやく仕留める程度だ」

「仕留められるのは、素直にすごいですよ。カラスは、頭がいいですから」

 困ったなと思いながら、エンは青谷を宥め、誉に目を向けた。

 伺いを立てる目の巨大な獣の化身は、半分ほどは己の感覚を疑っているようだ。

 その疑いを明確にしてから、こちらに話を持ってきてくれればよかったのにと、つい愚痴りたくなりながら、はっきりと言った。

「ウノさんでは、ない」

「……本当に、か?」

「記憶がなくても、あの法術まがいの力を有していれば、年を負うごとにそれを使いこなせるようにもなるはず。妖しの獣になってもう長いようだし、まだ使いこなしていないと言うわけでもないようだ」

 その力すら、感じられない。

 当然だ。

 生まれ変わる以前の、問題なのだから。

「それに、良く思い出してみてくれ。あの人、ここまで目つき悪くない」

「悪かったなっ。三白眼でっ」

 青谷を指さしてきっぱりと言うエンに、青鷺は更に目を険しくして喚く。

 そんな二人を見ながら、誉は記憶をたどり始め、不意に呆然と顔を上げた。

「……」

「? 誉さん?」

 間抜けた顔になった獣の顔を覗き込んだ優男に、誉は呆然と告げた。

「……思い、出せない」

「え?」

「ウノは、どんな顔をしてた? どんな兎だった? 何故、こんなに思い出せないんだっ?」

 頭を抱える獣を唖然として見るエンの傍で、青谷は呆れたように笑う。

「そんな曖昧な記憶で、オレをその兎の生まれ変わりと、勘違いしたってのか? 馬鹿か?」

 その鋭い言葉は、正確に誉の胸に突き刺さっていたが、青鷺は更に止めを刺した。

「覚えてもいないくせに追い求めてたのか。それは、オレだけじゃない、その兎に対しても、失礼極まりない。あんたがどんなに珍しい獣でも、これは了承できないな」

 あ、不味い。

 そう思った時には、大きなはずのその獣は、完全に意気消沈して、縮み切っていた。


「……という事で、何とかあの家を辞して、引っ張って戻って来たんですが、どうしたものでしょうか?」

 穏やかな声での報告は、聞いた親子を唸らせた。

「今まで、何を思って情が残っていると、勘違いしていたんでしょうか?」

 ひとしきり唸った雅は、獣としての本音を呟く。

 不思議な忘れ方だ。

 約束事は、完全に覚えていて、それを重視するあまりに、肝心な相手の容姿も性格も、忘れてしまっている。

「情が消えたと、思いたくなかったという事だろう。約束事に囚われる余り、それに気づかずに今まで来た」

 兎から目を背けさせる約束事は、約束をした相手側からすると、好都合な結果を生んだようだ。

「哺乳類以外の獣に、関心を持たせるのには成功した、という事だろう」

 誉本人とは程遠いが、卵生の生き物への関心が出てきたのは、いい傾向だった。

「でも、その青鷺さんとの脈は、なさそうですね」

 結果は先程の話で決まっていると、雅は少し誉に同情している。

 エンも困ったように頷いた。

「今は、その児童の保護者の方と親しくしているようですが、どちらかと言うと、その遠い祖先の方と懇意にしていたようですので。その鳩の方が、誉さんと似通っている方なら、脈もあるかと」

 白変種の野鳩で、アヒルと見違うほどに大きい体躯の、雌の獣らしいが、人に化けた時までそうとも限らない。

「人前に出たら大騒ぎになりそうだからと、山奥に住んでいる方だそうで、どうやらその人と、かなり仲がいいようです」

 色恋の仲の好さなのかは知らないが、その女の遠い子孫を気にかけるほどには、親しいようだ。

 山に住む野鳩と、水辺を主に縄張りとする青鷺が、どういう出会いをしたのか、大いに気になる

 余計な好奇心が疼くのを抑えながら、水月は本日飛び込んだ二つの話を、頭の中で並べた。

 先の連中たちの方は、本日の内に和解し、次の段階に入ったらしいから、その親たちは好きなだけ角を突き合わせていればいい。

 どうせならば、あの更に親を呼ぶより、双方の親族の若者を巻き込んだ方が、逆に落ち着くかもしれないが、恐らくは当の若者が捕まらないだろうから、もう放置でいいだろう。

「こちらを重点に、休日中は動くか」

「いえ。休日くらいは、休んでください」

 誉とその青鷺の関係が進むか、このまま終わるか、見届けようと決めた水月に、エンは苦い顔で意見した。

 勿論、聞き届ける謂れは、かけらもない意見だった。


 事が動いたのは、翌日だった。

 保育園に園児たちを預ける保護者たちの中に、青谷ともう一人、見知らぬ女がいたのだ。

 幼児の本来の保護者とは違う、それでいて近い血筋を思わせる、恐ろしく存在感のある女だ。

 女は隣に立つ青谷に一声かけるとそのまま従えて、黒々と染めた髪をなびかせ、真っすぐに水月の元へと向かってきた。

 小柄ながら恰幅のいいその女は、若い見た目で細長く、不機嫌そうな青谷とは違い、世話好きそうな顔で笑いかけた。

「どうも。うちの子がお世話になってます」

「……」

 送り迎えの時は、見える位置にいてそれでも気づかれないよう心掛けていた水月は、内心驚きつつもやんわりと笑顔を返した。

「今日は、代理ですか?」

 一応、丁寧に尋ねる男に、女は頷いて自己紹介する。

鳩田はとた、と名乗っています。あの子の事にはかかわらないと、そう決めていたんですが、のっぴきならない話を聞きまして、久しぶりにこの地を訪れた次第です」

 最後に訪れたのは、初めの子の卒園式だったと答え、後ろに立つ青谷を振り返った。

「こいつが、女性を年甲斐もなく泣かせたと聞きまして。土下座させて謝らせたいと思うんですが、その人と、連絡は取れますか?」

 気まずげな男は、振り返り睨むように見る女の視線に耐えられず、無言で顔を背けている。

 その二人を前に、水月は空を仰いで考えていた。

「……泣かされた、とは聞いていないが」

「おや、そうなんですか? こいつが、取り乱してそう言って来たんで、事情を聞いてここまで来たんですけど」

 女も首を傾げ、その言葉を聞いた水月は目を見開いた。

「何だ、意外にお前さんも、誉を気にしていたのか?」

「そ、それはっ。珍しい獣を前にすれば、気にもなるだろうっ? い、色恋云々以前にっ」

 顔を赤らめて慌てふためく青谷に構わず、男は女に頷いた。

「本日中に、こちらに来れるか聞いてみよう。それが駄目なら、日時と場所を決めて会えばいい」

 意外な収まり方をするかもしれないと、内心期待しながらも、水月は誉の主に連絡を取った。

 代替わりは済んでいるが、主が就職している関係で、今はフリーライターをしている先代の方の傍にいることが多い誉は、連絡を受けてしり込みした。

 だが、丁度取材が終わった頃で暇だった先代が説得してくれ、その日の昼に、顔合わせが決まった。

 朝から大振りではないが、小ぶりとも言い難い雨が降っていたが、約束の時間に二人は現れた。

 石川家の先代、一樹かずきの後に従って、誉が恐る恐る姿を見せる。

 給食時間を終えた食堂は、食器は片づけられ、何処の席も空いていた。

「子供たちも、今は昼寝の時間だから、騒がしくしなければ、ここで自由に話せ」

 二組が向かい合わせに席に着くのを見届けてから、水月はその場を去った。

 こちらはまだ、仕事の途中なのだ。

 外で襲撃の妨害をしながらでも話は聞こえるし、何かしら衝突があっても駆けつけることはできる。

 それに今日は、一人でもなかった。

 保育園の小さな運動場に、黄色い塊がぽつんと座っていた。

 その傍に、見慣れた若者の姿もある。

 振り返った若者は、今しがた捕まえたらしい、獣の男の襟首をつかんで締め上げていた。

「すまんな。仕事を手伝わせてしまった」

「ついでだから、いい」

 透明色の雨具に身を包んだ鏡月は、従兄の短い言葉に答えて短く返し、尋ねた。

「こいつは、初対面か?」

「ああ。何人撃退すれば、二度目が来るのやら」

 いい加減、数を把握して、事を収めてしまいたい気分の水月は、鏡月に捕まっている男を見下ろして、溜息を吐いた。

「気長にやればいいだろう」

 笑って言ったのは、黄色い塊だ。

 雨が降っているのにもかかわらず、朝からこの二人はやって来た。

 こちらは全く報告していないのに、何処情報なのかと疑問を持ったが、石川家から御蔵家に話が行き、鏡月まで届いてしまったと言うのが答えのようだ。

 そしてこの従弟は、今は黄色い塊になっている兎を、同行させてきたのだ。

「……気にするくらいならば、初めから離別を目論むな」

 犬の雨具に似たそれを着込んだ兎は、苦い顔で苦言を呈する水月に、黄色い耳を小さく動かしながら答えた。

「離別をしたからこそ気にしているんであって、今も一緒にいるようならば、気にしていない」

 連れ合いとしての心配ではないのだからと、小さく笑った兎は、誉と石川一樹が訪れる前、青鷺と野鳩の獣と顔合わせした。

 仰天する二人に、兎は当時の事を語ったのだった。


 元々、誉の願いを叶える度量は、ウノにはなかった。

 一度目でも失敗し、危うく死にかけたほど体力も危うかったというのに、あれから数百年経った当時では、危機どころではない騒ぎになると、分かっていた。

 あの時、誉の願いを聞き入れたものの、これが最期だろうと言う思いは、確かなものとなっていた。

 だから、石川家でこなしていた仕事の引継ぎも済ませ、当主とその親族を呼んで、覚悟を伝えてそれに臨んだのだ。

 その上で、自分の死を、誉には隠さないようにと言い含め、今わの際まで本人を引き留めるよう心掛けた。

「お前の子を、芽吹かせられる獣に、生まれ変わってくるから。それまで待っていてくれるか?」

 弱弱しく、しかし苦し紛れにそう懇願し、それに頷かせることで、胎生の獣から意識をそらせればと、心から願って往生した……と、ウノは思ったのだ。

「……目が覚めるとは、思っていなかった。どこぞのガキに助けられたのかと、憤慨して身を起こしたら、当時の石川家当主とその家族が、枕もとにいた」

「……まさか、あの獣相手にやらかしたのか? ただの人間が、騙し討ちを?」

 野鳩が目を剝いた。

 当然だ。

 人間は確かに、術で自分たちを凌駕する。

 だがそれは、己の身を守るために特化した力であって、その力が同等に他人を守れるという事ではない。

 そこまでの域に達した術師は、遠い昔にいたきりだ。

「……そうなのか?」

 鳩田の主張に、水月は首を傾げた。

 身近に何人か、いるようなのだが。

「あれは、人間じゃない。人の皮を被った、異形だ」

 兎が苦々しく、はっきりと吐き捨てた。

「お前もな」

「失礼だな、相変わらず」

 憎まれ口をたたき合い、すぐに話を戻した。

「目覚めた時には、既にオレは死んだことにされて二日経っていて、遺体は火葬したと告げられた。少なくとも誉と他の獣どもは、そう思っていると」

 偶々狩ったばかりの野犬がおり、偶々その色も兎と同じ色だった。

大きさも同じくらいだったため、それに耳をつけてまやかしの呪いをかけた。

兎と犬とでは、骨の形が違うが、それも根回し済みだった。

「灰になるまで燃やし、灰を骨壺に収めて置いていると、そう言っていた」

 それが置かれた場所に誉は入り浸り、他の獣たちも時々拝みに行っている。

 そう言った後、当時の当主は真剣に切り出した。

「……近くの見通しのいい山の山頂に、ウノは眠ってもらう事になっている。埋める作業も、あいつらに任せるつもりだ。その間に、あんたはここを出ろ」

 枕もとに雁首揃えた石川一門に驚く間もなくそう言われ、兎は年甲斐もなく混乱した。

 余計なことをだの、そこまでお前たちに気を使われるいわれはないだの、色々と口走ったが、当主は顔を歪ませて言った。

「あんたは、色々と勘違いしている。元祖がどうだったかは知らない。だが、我らは別に、誉だけを大事にしてきたわけじゃない。今使役している獣全員、同じように大事だと思っている。特にあんたは……幼少期に、我らを養って来てくれたじゃないか」

「……あんた、往生したいのなら、その世話好きを何とかしたほうが、良くないか?」

 兎のしんみりとした昔語りを、水月は思わずぶった切ってしまった。

「だから、今は、そこまでかかわっていないだろう」

 そう言い訳したが、勿論自分でもそうだと自覚し、反省している。

 何故なら。

「誉の願いを初めに受けたのが、その理由だったからな」

 大きい図体の未熟な獣、と言うのが、兎にとっての誉だった。

「誉本人も、オレに好意を持ってはいたが、色恋のそれではなかった。人間の子でもいるんだろう? 自分の親に、大きくなったら結婚する云々と口走るのが。それと、一緒だ」

「……」

 傍で聞いていた鏡月が、空を仰いだ。

 雨具を着込んで外に立つ若者は、昔の事を手繰り寄せている。

 そんな必要もないほど、水月は当時を知っていた。

「卵云々の話を聞いた時、耳を疑った。誉にもこのウサ坊にも、色のある雰囲気は皆無、だったからな。どうしてそうなったのか、ずっと疑問だった。誉本人は、自分が悪いと混乱しているだけで、全く要領を得なかったから、経緯が全く見えてこなかった」

「あの当時見えられても、こちらが恥ずかしいだけだったな。良かった。ごく最近の時もそうだが、あれは、ただの業務だった」

 卵に種付けするための、業務。

「え。という事は……」

 青谷が顔をひくつかせて言いかけたが、その後が続かず口をわななかせた。

 そんな鳥を見ながら頷き、兎は言った。

「交尾だの生殖行為だの、全く皆無、だった。これで、恋焦がれていると言われても、正直どう返せばいいか、分からん」

「……オレも、分からない」

「昔も先程の話の時も、涙目で懇願されたから、ついつい受けたが、どちらも後悔しきりだ」

 卵の中身を芽吹かせられなかった事が、誉を使役する家にとっては、落胆しかないだろうと思い、それを責められるのも正直、しんどかった。

「だから、全力で誉に答えて、死ぬ気だったんだが」

 そうすることで、近い獣に目を向けてほしかった。

 毛や羽毛がある生き物ではなく、爬虫類か魚類ならば好都合だった。

 こうして生き残ってしまったが、遠くで見守ろうと言う気持ちはあった。

 なのに、更なる犠牲者が出そうになっていると知り、ついついやってきてしまったのだった。

「傘をさせば行けると思っていたんだが、丁度雨具が仕立て終わったと、昨夜の内に届けられたんだ。赤と黄色の二種類届いたが、赤は被る兎がいるという事で、黄色にした」

「……兎用の、雨具か?」

「すごいだろう? お前の娘の、父親違いの弟が、これからペット服の業界にも足を踏み入れるからと、試作してくれたんだ」

 水月の家系は、すっきりしたものだったはずだが、複雑になる傾向がここに出て来ていた。

 あの旦那にかかってしまっては、仕方がないと思っているから、気になったのは一つだ。

「犬猫を飛ばして、何故真っ先に兎だ? しかも、中型犬並みの兎は、余りいないだろう」

 耳まできっちりと布で覆われている黄色い塊を見下ろし、何よりもそれが気になった。

 意外に似合っているから、余計に気になる。

「珍獣の服も作成予定だから、だろ。手始めに大兎と、腕まくりしていたらしい」

 鏡月が答え、次いで溜息を吐いた。

「成程。死んだとは聞いたが、遺体を見る間もなかったから、どういうことかとは思っていた。当時の石川家の当主と、あんたの望みが一致した結果、あいつを騙した形になったんだな」

「と言うか、その時の当主が往生した時、葬儀に参列した。誰も、気づきはしなかったぞ」

「……」

 それもどうなんだと唸る二人に構わず、雨具を自分で着ることが出来ず、古谷家の当主の手を煩わせてしまったが、苦労してやってきた甲斐はあったと言って、兎は頷いて話を戻した。

「お前さんが、少しでもその気があるならば、オレほど、体力は不足していないようだから、誉を頼みたい」

「無理だ」

 ここまでの話を聞いて、完全に慄いていた青鷺は、身を縮ませてはっきりと言い切った。


 まあ、当然だよなと、水月もしんみりと思っている。

 こっそりと、誉が石川家の先代当主と食堂に入るのを見届けた兎も、しんみりと運動場で座り込んでいた。

「動物園で、突然変異か何かで、鰐の妖物が現れていないだろうか?」

「そういう、高望みはやめておけ。ぬか喜びにしかならん」

 雨が落ちてくる空を見上げながら兎が呟くのを、水月は即座に窘める。

 そう簡単に、そんな危険な獣が誕生してたまるか。

「そういう奴が出て来ても、人に害があるなら、ミズ兄が何とかするだろう?」

「身近なら、な。目の届く範囲でないなら、無理だ」

 鏡月の言葉に返事を返した時、空気が張り詰めた。

 兎が、食堂のある方向を振り返る。

「……聴覚の優れた者にも、聞かれない工夫を研究したんだな。あの主殿は」

 テレビとラジオの音が、食堂の方から小さく聞こえる中、その内側に壁が張り巡らされたのに気づき、兎は微笑んだだけだったが……。

 水月は、壁が張り巡らされた瞬間、鏡月の顔が正直に強張ったのに気づいた。

 その後、兎の様子を伺ってすぐ表情を戻したが、違和感があった。

 壁を張られては入ることはできないし、音すらも雑音で遮断されており、中で起こっていることも分からない状況になっている。

 話し合いのために立ち合いもいるから、よからぬことは起きないとは思うが、その徹底した遮断の意味が、分からない。

 日々の仕事を再開しながら待った四人が、食堂から出てきたのは二時間後だった。

 全員が、焦燥していた。

 ただ一人、見送りに出てきたエンだけは、若干呆れの滲む笑顔だ。

「どうも、お邪魔しました」

 代表で頭を下げた石川一樹は、何とか笑顔を浮かべているが、それは引き攣っていた。

「ちゃんと、話せたのか?」

「ええ、まあ……」

 曖昧に答え、乾いた笑いでごまかしたのは、野鳩の女だ。

「色々と、お話ししました、はい」

「謝罪もしあって、交友も深めたようです」

「そう、か」

 穏やかに付け加えたエンの言葉で、色恋の話は矢張り進まなかったのだなと頷き、水月は四人を送り出した。

 見送った後振り返ると、エンは既に中に戻ってしまっていた。

 逃げたな、と内心舌打ちする男に、兎が暇を告げる。

「雨の中、構いもせず、すまなかったな」

「いや、いい。どうせ、違う相談もあったんだ。本当は、エンがもう少し落ち着いた時に、持っていこうと思っていたんだが……」

 言葉を切り、四人が出てきたときには、兎と一緒に身を隠していた鏡月を見上げた。

「こいつの空元気、どうにかしてやれ」

「は?」

 ずばりと言われ、若者が目を見開く。

「何を、言ってるんだ?」

「シノギの旦那では、埒が明かん。未だに立ち直る兆しがないところを見ると、適当な慰めすら、言われていないんだろう?」

「だ、だから、何を言ってるんだと、言ってるだろっ」

 しれっと言い切る兎に、慌てた若者の叫びが続き、水月は雨空を仰いだ。

 簡単な防御のお仕事のはずなのに、その合間の仕事が途切れない。


 時を戻して、二時間前。

 向かい合った二組に茶を出したエンは、誉に手招きされて近づいた。

「……あんた、もうあの組紐、持っていないよな?」

「組紐と言うと、あれの事か?」

 苦い気持ちを隠さずに返す男に、大型の獣は答えを見つけて安どの溜息を吐いた、

 代替わりした時に貰った、セイの切り髪で作った組紐は、雅と共に舞い戻った時に、全て取り上げられていた。

 もし持っていても、本人が死んでしまった今、役に立つかも分からないがと考えつつ、調理場に向かおうとしたエンは、不意に立ち止まった。

 振り返った先で誉が立ち上がり、備え付けられているテレビを付け、持参していたらしい携帯ラジオを数台、部屋の方々のテーブルに置き始めた。

「?」

 他の二人も、そんな謎の動作に不審を抱き、座ったままの石川一樹に目を向ける。

「一応、プライベートの話だからと、壁を張るように頼まれました」

 へらりと笑い、一樹は式神の合図を受けて、壁を作り上げた。

「……これで、聴覚を誤魔化せる。ここの話は聞かれない。水月の旦那や鏡月にも……そして勿論」

 誉は天井を仰いでから、やんわりと笑った。

「ウノにも」

 空気が張り詰めた。

「へ? ウノ?」

 音を立てて青鷺が立ち上がる前で、一樹が目を剝いて呟いた。

「ウノって、あの、昔うちにいた?」

「ああ」

「な、何で……」

 取り乱す先代に、大きな獣はゆっくりと近づいて言った。

「元々、死んではいなかったんだろう? 肉食の獣の遺体なんかが代わりになると、本気で思っていたのか?」

 実際、騙されかけたが、誉は気づいていた。

「よくよく見ないと、よくよく匂いを確かめないと、気づかないまやかしだった。流石は我が当主と、褒めてやりたかったよ」

「本人を褒めろよっっ。オレじゃねえしっ」

「褒めようにも、本人はもういない。だから、代わりに褒めているんだが」

「訳わからんぞっっ」

 喚く先代に構わずその隣に座り、座ってはいるが目を見張り身構える女と、立ち上がって逃げ腰になっている男を見て、やんわりと言う。

「まずは、感謝の意を示そうか。昨日の訪問を受けて、すぐに対応してくれて、感謝する。おかげで、数年ぶりにあの人の元気な姿が見れた」

 これは、偶然だった。

 こちらは意図して、目の前の青鷺に目を付けた。

 こちらの意図を伝える場が整ったところに、兎が訪ねてくると言う幸運は、考えていなかった。

「……目を付けた? 色恋云々じゃあ、なかったのか?」

 エンがつい、話に口を挟んでしまった。

 立ったままのその男を見やり、誉は呆れた声を出した。

「あんた、本当にまだ、立ち直っていないんだな。オレ如きの、落胆の振りに騙されるとは」

「……捌かれるか?」

「やめろ」

 心底呆れ顔の男についいらっとしてしまい、エンは穏やかに急所を突いてしまった。

 一瞬怯みつつも、すぐに立ち直った大男は、咳払いして話を戻す。

「兎に角、青谷殿も座ってくれ。頼みがあるんだ」

 恐る恐る座る青鷺を見ながら、エンは不味いことに気付く。

 出られない。

 ここでの話を、このまま聞いていなければならないのか?

 そんな男を一瞥し、大男は意地の悪い笑みを浮かべる。

 本当に、捌いてやろうか。

 まだ本調子でないエンが、物騒なことを考えているのに構わず、誉は真顔で切り出した。

「青谷殿が、今のようになった経緯を、律から聞いた」

「……」

「怨念が、その身に宿ったために妖し化したと。その怨念は、人間だったと」

 それを聞いた鳩田が、諦めの溜息を吐いた。

「あの人には、隠せないのか。このせいで、同族との子が出来ないんだ、この子」

 完全に、取り憑かれてしまったせいで、子孫が残せないようだと言う。

「思考が、人間の方に近くなっちゃったんだ。鳥を、そういう対象に見れなくなったんだね」

 しんみりと言う女の隣で、青谷は警戒したまま黙っている。

 一樹の方も、戸惑ったまま黙っている。

 当然だ。

 エンでもその話が、何処に行きつくのか、想像ができない。

 戸惑いの空気の中頷いた誉は、真顔で尋ねた。

「どうすれば、他の生き物を、取り憑かせられるんだろうか?」

「? さあ? この子も、取り憑かせようと思って取り憑かせたわけじゃないから、方法を問われても、ねえ?」

「そんなの知って、どうする気だ?」

 困惑した先代に、大男はあっさりと言った。

「向こうが生まれ変わらないのなら、オレが近づくしかないだろう。兎を取り憑かせられるのなら、話は簡単だ」

 一瞬、間があった。

「いや、ちょっと、待てっ?」

 一樹が我に返って誉を見るが、若干目が据わって見える獣は、構わず前の獣たちに意見を言う。

「習性が、取り憑かれることで変わるのなら、生まれ変わる必要すら、ないだろう?」

「いや、だからっ、ちょっと待てっ」

 思わず立ち上がり、先代主は叫んだ。

「お前、習性を重視して、自分自身を失う気かっ?」

「……全くだ。あんた、本当に、魚脳だな」

 冷静な男の声がそれに続き、毒舌なそれを吐いた青谷の後頭部を、鳩田がすかさずどつく。

「言い方っ」

 気が合いそうだなと、エンが青鷺を見直していると、男は咳払いをして小さく謝罪し、言った。

「この体の持ち主は、生まれてすぐに死んでいる。つまりオレは、死んだ青鷺に取り憑いた人間、という事だ」

「つまり、オレが兎に取り憑けば、万事解決、だな」

「おい」

 真顔で頷く大男に、青谷は頭を抱える。

「あんたほど珍しい種族を、そんな訳の分からん状況にする手伝いを、オレに振る気かっ?」

「珍しくはないだろう。池や川に、腐るほどいる」

「腐るほどいたら、この国は大騒ぎだよっ」

 鳩田が、叫ぶように反論した。

 蚊帳の外のエンは、日本の水辺から、次々と細長い生き物が飛び出す様を想像し、頷いた。

「店が開けそうだな」

「あんたは一度、調理法から離れろ」

「こちらを止めたければ、少し順を追って話せ。何故、そちら側の方法の成就を、考えるようになったんだ?」

 恐怖で我に返った誉に、エンは改めて尋ねた。

 発想が、飛び過ぎている。

 だが、本人はそうは思っていないようだ。

「妙案だろう? ウノを死ぬ寸前まで追い詰め、それでも卵を芽吹かせることができないなら、子はいらない。だが、一緒にいるとどうしても、その状態になる不安がある。オレは、あの手触りのいい毛並みが、あの体つきが、憧れであり好みなんだ。決して、鱗まみれの爬虫類になぞ、興奮しないっ。ならば逆に、オレが哺乳類になれば、万事解決だろうっ?」

 力強い主張である。

 ウノさん、悪寒がしていないかなと、内心心配しながら、エンは穏やかに返した。

「だったら、あなたのままで、体を進化させる方を、努力してみてはどうだ?」

「ん?」

「……なんて無茶を」

 鳩田が呆れて呟いたが、誉の方は食いついた。

「どうやって?」

「逆に問いたい。あなた、魚からその獣に至るまで、何をしたんだ?」

「それは……」

 逆に問われ、大男の姿の雌の魚は、記憶をたどって答えた。

「昔住んでいた湖の近くの滝を、てっぺんまで登った」

「……リアルな滝登りをしたのか。それで爆誕できるって、本当だったんだな」

 鳩田が呟くのに構わず、エンは頷いた。

「成程、鯉だったのか。……ならば、哺乳類になる方法も、何処かにあるかもしれない」

「そ、そうか」

「いや、あるはずがないだろうっ」

 憑依云々よりも無茶な話に、青谷がついに怒鳴った。

「おい、本当にふざけてるのか? 種族の違いで片方に負担を強いるようでは、もう終わったようなもんだろうがっ。何故、諦めないんだっ?」

「じゃああんたは、我慢できるのか? 鳥を孕ませる行為を、子孫を残すためと言う理由だけで、なせるのかっ?」

「そ、それはっ」

 言葉を詰まらせた青鷺と誉は、真面目に口論を始め、もうついていけなくなった他の二人の客は、冷えた茶をすすりながらも諦観していた。

 結果、二時間もの間食堂を貸し切っていたのに、何も解決しなかった。


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