異世界の住人
大地を一歩踏みしめるたびに軍靴の靴裏に土がこびり付く。ある程度その重量を感じ始めた頃に俺は近くの木を蹴り乱暴に土を落とす。揺れる木から舞い落ちる葉が背中のリュックサックと頭のヘルメットにへばり付く。
俺は木の葉を付けたまま近くの岩に腰掛け、水筒に口を付け水を含んだ。疲れた体に水が染み渡るのを感じ、俺は深く息を吐いた。
「中々疲れるな。……目的地が無ければ当然か」
装甲車から出発し、かれこれ二時間が経過していた。日頃の訓練で森林や不整地の徒歩訓練はよく行っていたので身体の疲労具合はそこまで大きくはない。
問題なのは精神的な疲労具合だ。ただでさえ不安定な足場に土地勘の無い森、さらには襲撃をしてきた化け物の存在。警戒をしながら、探索をしながらでは普通に歩くよりも遥かに負担がかかる。
(当てもなく歩き続けるのは限界だな)
俺は薄く汚れた革手袋でライターを胸元から取り出し、タバコに火を点ける。吐き出す煙と、いつも変わらぬ味に心の疲労が和らいだ気がした。
(タバコも節約しないとな……カートンで持ってるけどいつ戻れるか分からんしな)
孤独感と未知の体験により擦り切れそうな精神を、身体に悪影響と言われているタバコが救ってくれている事に俺は一人笑い、何度も吸い口を唇で挟んでは吸い、満足気に紫煙を大量に吐き出した。
指先に火の熱さを感じ始めた時にそれは聞こえた。
「ーーーーッッ!!」
「っ!? 今のは……人の声……か?」
小さく微かな声だったが確かに聞こえた。野生の鳥の鳴き声でも、俺を襲った醜い化け物の声でも無い。人の、それも女性の声だ。
(どうする? 行くか? ……行くしか無いよな?)
この期に及んで行かないという選択肢は無かった。俺はヘルメットを被り直し小銃を握りしめ声が聞こえた方向へと早足で向かう。
獣道すら無い森の中、方向感覚が狂う。俺は帰りの目印とする為に木に銃剣で印をつけながら前へと進む。
「ーーッ! ーーーーッッ!?」
またしても声が聞こえた。今度は先程よりも近い。
キィンッ……ドゥン……。
俺の耳にカン高い金属音が響いてくる。金属と金属がぶつかり合う特徴的な音だ。続いて何かが爆発するような音が鳴り響く。何か異常事態が起きているのだと確信し、足を早め、半ば駆け出すように前へと進む。
「グギャァァァ……」
「ッ!?」
聞こえてきたのは先程の化け物とよく似た声。俺は即座にその場に伏せ、そっと先を見通す。
視線の先には木々が密集していない開けた場所があった。そこに一人の人間がいた。
俺はリュックの中から双眼鏡を取り出し、覗き込む。
金属製の兜を被り顔はよく分からないが、小柄な体格と声が聞こえた方角、距離、先程聞こえた声の質からみて女性と思われる。……男の娘の可能性も無くはないが。
上半身には革製とおぼしき鎧。下半身は丈夫そうな布生地のズボン。革製のブーツ。背中にあるのは防寒用だろうか使い込まれてボロボロになっているマントを羽織っている。手に持つのは両刃の片手剣、反対の手には短い木製の棒を持っていた。
女性は一人で戦っていた。
戦っている相手は俺が襲われたのと同じ化け物だ。
相変わらずな醜悪な面に、むき出しの汚い歯。ボロを纏い全身が緑色の化け物だ。
しかし、一つだけ俺と相対した時とは違う箇所があった。
下半身の一部が大きく盛り上がっていた。
……男の俺はそれが何を意味しているのかよくわかる。双眼鏡越しに見える人間は女性と確信して良さそうだ。
「ーーーッッ!!」
女性は一直線に魔物へと迫り斬りかかる。化け物はそれを手に持つ粗末な棒で迎え撃とうしていたが、あっさり木の棒はへし折れ、化け物の頭に金属製の剣が深々と食い込む。
女性が剣を振り払うと化け物の頭から血が噴き出し、脳の一部と思われる肉を地面に撒き散らす。
よく見ると女性の周りには化け物の死体が数匹転がっていた。ほとんどが頭を砕かれ、腹を斬り裂かれ、その中身で地面を汚していた。
「うぷッ……はぁ……はぁ……ぐっ……気持ち悪りぃ……」
俺は胸の内にこみ上げる苦く酸っぱいものを吐き出さないように堪えていた。
(脳って……血って……内臓って……あんなに飛び出るものなのかよ……)
初めて見た生き物の中身に言い表せない程の嫌悪感を示す。腹を裂かれた所為なのか、風に乗って血の匂いが糞と小便の不快な臭いとともに漂ってくる。俺は自分の口から出そうになるものを出さないようするので精一杯だった。
「ハァ……ハァ……どうする?」
どうする。そう自分に問いかけたのは迷いがあったからだ。
ここにきて初めて出会えた人間。だがその人間はいとも容易く化け物の命を断ち、臓物の撒かれた場所においても平然とした面持ちで立っている。
(そんな人間と関わってもいいのだろうか?)
確かにあの化け物は人を襲う。だとしても殺すのはどうなのだろう。あれほどの力の差があれば殺さずとも追い返せばいいのでは無いのだろうか?
(そう思うのは俺が日本人だからなのか?)
外国の人間と日本人の考え方が違うというのはよくある話だ。ましてやここは異世界(仮)だ。
日本人としての自分の思考とは大きく違うのかもしれない。彼女と接触しても安全だというにはまだまだ情報が少なすぎる。
俺は双眼鏡越しにいる人間を見ながらそう考えていた。
(……あれは……仲間か?)
眼鏡越しに見える景色に新たな人影三つが現れた。
女性とよく似た革製の防具に、汚れた衣服。短剣と弓を持ち、無精髭が生えた顔の男たちは狩猟者といった風貌にも見える。
三人は女性と談笑している。はたから見ればそれは知り合い同士の会話にも見えるが、自衛官としての俺の目からはその行為に違和感を感じた。
(もしかして、囲んでる……のか?)
女性を中心に男達は三角形の形で周りを囲んでいた。あの状態では必ず一人は女性の死角に入る。そして三方向から一斉に飛びかかれば女性を一方的に無力化できる。
その動きは以前、俺が経験した不審者を捕まえる際の訓練の動きによく似ていた。身体能力、格闘戦能力によほどの差が無ければ簡単に対象を制圧できるのだ。
疑いつつ双眼鏡で先にいる彼らを見つめる。すると彼らは俺の思っていた通りの行動をした。
一人が女性の背後から飛びつき、羽交い締めにしようとする。女性はそれにいち早く反応し後方に剣を向けるが、そうはさせないとばかりにもう一人の男が女性の右腕に抱きつく。バランスを崩した女性の足元へ三人目の男が足元へ抱きつく。まるでラグビー選手の低空タックルのような綺麗すぎるフォームだった。
三人の男に飛びつかれても、女性は倒れずになんとか姿勢を保っていたがそれも時間の問題だろう。
俺はいつの間にか走っていた。
重い装備も日頃の訓練のお陰で走るのに邪魔には思わない。頭のヘルメットはどんなに俺が走ってもズレることなくしっかりと固定されている。履き慣れた軍用ブーツは地面を掴み、走る力に変えてくれる。ナックルガードが付いた戦闘用手袋は手に馴染み、89小銃のグリップをしっかりと握れた。
自分でも驚くほど速く走れた。日頃から鍛えているので身体能力には自信があったが、それにしても速かった。そこまでの速さを俺が発揮できた理由はわからい。
ただ一つ、俺の頭にあったのはある一つの思いだけだった。
(人が……襲われてるのを見て……黙ってられるかよ!)
先ほどまで化け物を殺していた女性に感じていた不信感はどこかに吹き飛んでいた。
困っている人を見捨てられ無い。その想いだけが俺の胸の内を占めていた。
守りたい人がいる。
自衛官としての志しだ。その想いだけが今の俺の身体を支配していた。自分でも驚く程に速く動けることに若干の戸惑いを感じつつも、そのまま猛然と駆け出し彼らがいる開けた場所まで一気に飛び出した。
「お前ら、やめろォッ! その人を……離せよッ!」
森林の中を全力で走った俺の身体には至る所に葉や木の枝が絡まり、足元は跳ねた土や泥がこびり付いて真っ黒だった軍用ブーツを茶色く汚していた。顔に大量の汗が粒となり滝のように流れ落ちる。
そんな男にいきなり怒鳴りつけられたところで男達は怯む訳がなく、下卑た笑みを浮かべて腰の剣を抜き放つ。鈍く、所々に錆がみえるそれは俺の命を奪おうと怪しい輝きすらも帯びて見えた。
男達が立ち上がり、離れた事により女性の姿が俺の目に映った。
鎧は剥がされ、衣服は乱暴に破かれ白い肌が露わになっていた。頭部に着けていた兜も遠くに放り投げられ、その顔を見ることができた。
殴られたのか、腫れた頬に口元からの出血。彼女の髪は日本ではまずお目にかかれ無い、鮮やかな桃色の髪だった。その長い髪が乱暴に掴まれた所為なのか乱れていて周りには抜かれた桃色の毛が散らばっていた。
女性の目がこちらを向いていた。水色の綺麗な瞳が俺を見つめていた。
女性の口が少し開き動いた。言葉は聞こえてこなかったが、俺は彼女が何を言っていたのかわかった。
……助けて……お願い……
突然、俺の目の前にまで来ていた男の頭に穴が空く。続いて少し後ろにいた男の腹に小さな、とても小さな穴が開いた。遅れてその穴から血が噴き出る。
腹に穴が空いた男は何が起きていたのかわから無いようで戸惑っていたが、乾いた破裂音が次いで鳴ると、頭に穴が空き戸惑いの顔のまま倒れていった。最後に女性の側にいた男の頭にも穴が空き、そのまま崩れ落ちるように倒れる。
(何が……起こった?)
突如倒れた三人の男に俺は一瞬混乱した。一瞬だけだった。理由はすぐにわかった。
鼻腔に香る硝煙の匂いは今まで何度も嗅いだ匂いだが、血の匂いに混じったそれは初めて嗅ぐ匂いだった。手に響く慣れ親しんだ感触。自衛官として数千発は撃ったであろう小銃射撃の反動だ。
俺は、いつの間にか構えていた。
この手に銃を構え、この目で狙い、この指で引き金を引いていた。
初めての感触は何よりも簡単に、あっさりと、なんの手応えも無く、俺の手に一片の感情すら残さなかった。
この日。
この時。
この場所で。
俺は。
人を殺した。
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