第37話 カンファレンス (7)

「…い、おい……しろ」

 どこかから声が聞こえる。その声に揺り起こされるように僕の意識は一気に浮上した。

「しっかりしろ、草太」

「う、あ……?」

 目の前には心配そうにこっちを見つめる大地の姿があった。視線をずらすとこの2週間で見慣れた部屋の天井が見えた。どうやら僕は部屋の床に寝かされているようだった。

「くう……」

 僕が上体を起こすと頭部に鋭い痛みが走った。手で触ってみると頭には包帯が巻かれていた。まだ意識は朦朧としていて、腹部にも痛みがある。

「おい、まだ起きるなって。もう少し寝ていろよ」

「大丈夫……。それよりも今ってどういう状況か教えてくれないかな……」

 寝かせようとする大地の手を遮って尋ねる。大地はしばらく逡巡する素振りを見せてから口を開く。

「……夜中にでかい音がしたから起きたら、お前が頭から血を流して倒れてたんだよ。しかもあいつらも姿消してるし……。

 それで教官を呼んで手当してもらったんだ。頭も軽く切っただけだから少し安静にしていれば大丈夫だろうって言って、教官たちは3人を追いかけに行ってる。でも遅いな。まだ帰ってこないのか……」

 大地は部屋の時計を見る。僕もつられてそちらを見ると時刻は午前1時30分をまわるところだった。

「あの3人、外に出れたの……?」

「なんか玄関の鍵が開いてたらしい。確かに閉めたはずだって教官は言っていたけど……」

「そう……」

 おそらく鍵は本当に閉めたのだろう。だが霊的な存在にそんなものが通用しないことを僕は知っている。

「教官が出ていったのはどれぐらい前?」

「45分ぐらい前だ。そろそろ戻ってきてもいいのに……」

 大地が唇を噛みしめる。不安なのだろう。それも当然か。そう思いながらようやくはっきりしてきた頭で僕は言葉を重ねる。

「最後にもう1つ質問。僕が寝てる間にお坊さんとかキジトラ柄のにゃんことか来なかった?」

「……お前やっぱり寝てろよ。来るわけないだろ、そんなの」

 ……そうか。まだ来ていないのか。ものすごく心配そうに僕を見る大地をよそに僕は考える。

 僕は洗面所から飛び出す前に念のため涼風さんのスマートフォンに電話をかけていた。急いでいたので向こうが出る前に切ってしまったが、それでも履歴は残る。それを見てもしかしたらトラゾーたちが助けに来てくれるかもしれない……。そう思っての行動だった。

 しかしそう現実は甘くはないらしい。僕が連絡してから1時間半経過しても姿を現さないということは、なんらかの理由で来るのが遅れているのだ。最悪なのは寝ていて気づいていないというパターンだが、今晩は涼風さんとトラゾーは徹夜で待機してくれると言っていた。僕からのSOSを見逃すということはまずあり得ないだろう。

 スマートフォンを見る。そこには圏外と表示されていた。大地が「そうなんだよ。さっきから電波届いてないんだ。なんでだ?」と首を傾げた。……僕が悪霊にさらわれたときと同じだ。もうそういう領域ということだろう。

(もうやるしかない……。かなり危険だけど、『もしもの時の保険』を……)

 僕はそう覚悟を決める。先日トラゾーに話した、僕の提案。それをやるしかない。僕は立ち上がる。

「……僕があの平屋に行ってくるよ。大地はここにいて」

「はあ!? お前、何言ってんだ!?」

 部屋を出ていこうとする僕を大地が引き止める。

「なんのために行くんだよ!? ここで待っていたほうがいいだろ!?」

「……戻ってこないよ。あそこに行った5人は自力では戻ってこれない。だから僕が行くんだ」

 僕が力なく首を振ると大地は一瞬体をのけ反らせた。そして口を開く。

「……昨日の話本当なのか」

「……うん。世の中にはいるんだよ。そういう存在が」

 僕が首肯すると大地は片手で頭を掻きむしってから叫んだ。

「あーもう! わかったよ! 信じるよ! お前そういう嘘つくやつじゃないもんな! なんかおかしいことも起こっているし、信じりゃいいんだろ!」

 大地はそう言ってだんだん足を踏み鳴らした。色々溜まっていたものが噴出してはっちゃっけているようだ。

「あ、うん……。ありがとう。その、そういうところもあるんだね。ちょっと以外……」

「誰のせいだと思ってるんだ!」

 僕が少し驚いた顔をすると大地は体をずいっと寄せてきて突っ込んだ。

「お前が行けば助けられるのか?」

「ううん。僕にそういう力はないんだ。でもそれができる人たちを知っているから、その人たちがここに来れるようにしなきゃいけない

 だから僕行かなくちゃ。大地はここで待っていて、多分ここなら安全だから……」

 僕はまた歩きだす。足を1歩踏み出す。すると視界がぐにゃりと歪んでしまって壁に手をつく。目の前がかすむ。気持ちが悪い。まだ体調は戻っていないようだった。

 それでも行かなければならない。僕が肩で息をしていると大地が体を支えてくれる。

「ふらふらじゃないか。仕方ないから俺も一緒に行ってやるよ」

「大地……。でも……」

「危険だって言いたいんだろ? でもそれはお前だって同じだろ。だったら一緒に行った方がいい」

 言葉を遮って、大地は僕の体を肩で支えながら歩く。

「本当はな、あんな奴ら痛い目見ればいいんだって思ってる。あんなに嫌な奴ら酷い目に合えばいいんだ。

 でもお前はそれが嫌なんだろ。無視したら両親が悲しむもんな。だから俺も一緒に行くんだ。友達だからな。2人なら怖くないだろ」

「大地……」

 僕の体重を必死で支えてくれる大地を見て、もう待っていてくれとは言えなかった。

「そっか……じゃあ2人で怖がりに行こうか」

「ほんとにな! 1人で待ってるとか怖すぎるからな!」

 僕が明るく笑ってみせると大地は大きな声で騒いだ。ほんの少しだけ空気が軽くなった。

 大地と2人で外に出ると周囲は墨汁でも撒いたかのように真っ暗だった。

「いつも明かりついてたよな……」

 2人でスマートフォンのライトをつけると大地が不思議そうに言った。教習用のコースの周りは備え付けられたライトが明るく照らしているのだが今は1つもついておらず、闇に満たされていた。空を見ると本来あるはずの星の光もない。

「まあ、そういうものだよ」

「……なんか虫の音とか風の流れとかも感じないぞ」

「まあ、そういうものだよ」

「どういうものなんだよ」

 半眼で見てくる大地に誤魔化すように笑って体を離した。

「もういいのか?」

「うん。もう1人で歩けそう。それよりも早く向かおう」

 僕は腕を振って元気アピールをしてある一点を見つめる。大地もつられてそこを見る。少し離れた場所にぼんやりと光が見える。あの平屋だ。蛍光灯の白い光が闇の中に1階建ての家屋をシルエットとして浮かび上がらせている。

「行こう」

 僕が歩きだすと大地も遅れてついてくる。

 コースの横を歩いて闇の中を進んでいくと薄ぼんやりとした光が少しずつ確かな輪郭を帯びてくる。

 その光は先日僕が見た大きな部屋の窓から漏れ出していた。だがその中に人の影はない。別の部屋にいるのだろうか。

 やがて平屋のある土地の入口に立つ。僕は改めてその建物を見る。どこを見ても普通の一般家屋だが、その実態は遠く離れた場所にまで怪奇を引き起こす危険な場所なのだ。暗闇の中にポッカリと浮かぶその光が羽虫を寄せ付ける誘蛾灯のように思えてくる。

 と、いきなり部屋の明かりが消えた。僕たちは夜の闇の中に取り残される。

「なんで消えたんだよ」

「案内はここまででいいってことかもね……」

 僕がそう言うとライトの中に浮かぶ大地の顔が引きつった。自分たちが危険な罠に誘導されているかもしれないと考えているのだろう。

「どっちみち行くしかないんだろ」

「まあね……」

 僕たちは覚悟を決めて砂利を踏みしめていく。背の高い木々がわだかまる闇と僕らを出向かえる

 平屋の玄関は家屋を右に回ったところにあった。いかにも古民家といった引き戸をライトで照らしながら開けようとする。……が、鍵がかかっているようでびくともしない。ガタガタと音を鳴らすだけだ。

「教官たちが閉めたのか? わざわざ?」

「多分そうじゃないと思う。その多分……」

「……そういうことかよ」

 言わずとも僕の言いたいことはわかったらしい。大地は青い顔で体を震わせる。

「でもじゃああいつらはどこから入ったんだよ」

 大地が重要なことに気づいた。引き戸にはどこかが割れたりとか鍵穴の周辺に傷があるとか、強引にこじ開けた痕跡はない。だが上川たちは鍵を持っていないはずだ。玄関口からは入れないはずだった。

 まさか……と思って裏手に周り、スマートフォンを向けると、光の先で窓の1つが割られ、内鍵が開けられていた。照らし出された光景に大地が顔をひきつらせる。

「あいつらに恐れって感情はないのかよ! 幽霊やお化けが出るかもしれないんだろ!? 罰当たりだろ!」

「あったらこんなことしやしないよ……」

 大地は低い声で憤る。肥大した欲望は、人から目に見えないものへの畏敬の念をあっさりと奪ってしまうらしい。僕は嘆息する。

 どこか別の場所から入れないかと探してみたが、どこも内側から施錠されていた。仕方なく割られた窓から入ることにする。

 それと開いている場所を探していた時に気づいたのだが……窓の向こうライトで照らされた部屋の中には物品が保管されている様子はなかった。やはり物置というのは嘘だったらしい。

 窓枠は僕の胸より下の高さだったので、そこに手をかけて体を持ち上げる。僕が侵入すると窓の近くの床にはガラスの破片が散らばっていた。靴を履いたままでよかった。

「ガラスの破片があるから気をつけて」

「わかった。しかし土足で窓から入るって泥棒かよ……」

 大地がげんなりした顔で窓を越えて部屋の中に着地した。僕も同じことを考えていたのだが、緊急事態だから仕方ない。

 僕たちの入った部屋は暗く静かだった。ライトで中を照らしてみると壁にスイッチがあったので押してみる。

 部屋が明るくなり、中の様子が鮮明に映し出された。

 僕たちがいる部屋は簡易的な給湯室、もしくは台所のようだった。給湯器のついた小さな洗い場の横にはコンロが2つ並び、そのうちの1つにヤカンが置かれていた。細長い部屋の中央には四角いテーブルが置かれている。食器棚の中には皿が並び、人工の光を浴びて光沢を放つ。隅の方を見てみると小さな冷蔵庫が設置され、その扉には色あせたチラシのようなものが磁石で留められていた。

「台所とかキッチンってところか? ……でもなんかこの部屋……」

 部屋の中をキョロキョロ見回していた大地が口をモゴモゴさせる。どうやら部屋の様子に気になるところがある様子だった。

 僕も同じ違和感を覚えていた。部屋を見て回る時におや?と感じたのだが……それがなんなのかうまく言葉にできない。感じた疑問が喉の奥につっかえている。大地も口の中で言葉を転がしていたが、しばらくして諦めたように息を吐き出した。

「ここには誰もいないみたいだな」

「他の場所も見てみよう」

 しばらく部屋の中を見てみたが人の気配はない。僕たちは頷きあうと家の中を探索するために部屋を出ようとした。

「気をつけろよ。なにがあるかわからないからな?」

「うん……」

 僕が扉のドアノブに手をかけると大地がそう忠告してきた。僕は静かに頷き、慎重にゆっくりとドアノブを回す。

 ぎぃ……と軋んで扉が開く。その先は真っ暗だった。再びスマートフォンのライトを点灯するとすぐ目の前に別の扉が見える。

 恐る恐る部屋を出てみるとそこは廊下のようだった。大地もそれに続き部屋から出てくる。背後でばたんと扉が閉まった。

 一方の先を照らしてみるとすぐ近くに先ほど僕たちが入ろうとした玄関が見えた。そこの壁にスイッチがあったので押してみると廊下の電灯が点いた。

 玄関側から廊下を見ると家の構造がわかった。玄関から家の奥まで真っ直ぐに廊下が続いている。右側の壁――僕たちが出てきた部屋がある壁には等間隔で5つ扉が並んでいた。おそらく今の給湯室のような小さい部屋が並んでいるのだろう。左側には玄関の近くと廊下の奥に2つの扉があるだけだった。この前見た会議室のような広間があるのだろう。

「これからどうする?」

「右側の部屋から順番に確認して、最後にあの大きな部屋に入ろう。さっき明かりが消えたのはそこから出て別の部屋に身を隠しているからかもしれないし」

「物理的に姿が消えてなければいいけどな……」

「……そうだね」

 大地は額から冷や汗を流しながら廊下の奥を見つめている。

 この家に入った時から思っていたのだが、まったく人の気配を感じない。耳を澄ましてみても物音や息づかい1つ聞こえなかった。ただ静寂が満ちている。僕たちが入ってきたなら上川たちも教官たちもそれに気づいて顔を出していいはずだ。それなのにそうしないということは……。大地のような発想になっても仕方ないだろう。

 僕たちは意を決して廊下を進む。木張りの床は歩くたびにぎっ、ぎっ、と軋んだ音を出した。天井からぶら下がった電灯は切れかかっているのか不定期な明滅を繰り返す。

 給湯室の扉は素通りし、僕たちは2つ目の扉を開けた。そこはトイレだった。洋式のトイレだ。上蓋が開き、便器の中には透明な水が溜まっていた。壁に取り付けられたホルダーにはトイレットペーパーがはまり、誰かがそれを千切ったあとがあった。長時間そのままだったのか、トイレットペーパーは日焼けしてガサついているようだった。

「……ここにはいないな」

「……そうだね」

 僕たちは中に入ることなくトイレのドアを閉めた。人が隠れられるような場所はなかった。僕と大地は3つ目の部屋を目指す。……胸の中の違和感をより大きく鮮明にさせながら。

 3つ目の部屋は洗面所、脱衣場、風呂場が一緒になった部屋だった。給湯室やトイレと比べるとかなり広い。僕たちは2人で探索する。

 部屋を入って正面に鏡がある。その下には蛇口と洗面台が取り付けられていた。洗面台には小物が置かれ、そこに数本の使い古した歯ブラシが立たっていた。蛇口をひねるとタパタパと水が出て排水口へと流れていく。……水も出るし流れるようだ。

 鏡に映る大地の姿が左側へと消えた。そちらを見ると大地が洗濯機の前で立っていた。蓋の開いているそれは古い型式の縦型洗濯機だった。壁には鉄の棒が取り付けられ、バスタオルやワイシャツなどの洗濯物がハンガーで掛けられていた。

 その先の引き戸を開くとカラカラと軽い音を立てて開いた。2人でスマートフォンのライトで照らすとうっすらと浴槽が浮かび上がる。成人男性が足を伸ばしてもまだ余裕のある大きな浴槽だった。蛇口から伸びたシャワーヘッドからは水滴がぴちゃんと落ち、足元を照らしてみると敷き詰められたタイルは完全に流れなかったらしい水で濡れていた。

 浴槽の中を見てもそこには誰もいなかった。栓も抜かれてくろぐろとした小さな穴が広がっている。

「なあ、この家なんかおかしくないか?」

 3つ目の部屋を出るともう耐えられないというように大地が小さく囁く。

「なんか……妙に綺麗すぎないか?」

 その通りだった。家の中は掃除でもされているかのように綺麗だった。床やテーブルには埃が積もっていなかったし、ゴミ1つ落ちていない。食器はしっかり洗われ棚の中で整頓されていた。トイレの水は濁ることなく透明だった。洗面台の鏡には水垢や曇りもない。

足元を見る。廊下には埃やゴミはなく、極めて清潔だった。まるで誰かが掃除機をかけたり、雑巾がけをしたように。

「うん……。それに生活感が、あるよね……」

 それに加えてここまで見てきた部屋には人の暮らした痕跡が残っていた。トイレの紙は手で破ったようなあとがあった。脱衣所には洗濯された衣服があったし、浴槽の床は水で濡れていた。まるで誰かがさっきまで使っていたかのように。

「なあ、あの感じだと教官たちもこの家には入っていないはずだよな!? じゃあこれって、おかしいだろ!」

 大地が両手を広げた。その体はおこりのように震えていた。

 僕たちが覚えた違和感はどれも人が出入りする空間にはあって当然の痕跡だ。人が日常を暮らした跡。人間が生活する家にはどうやっても残るもの。だから普通はおかしくないのだ。普通なら。

 だがこの家はそうではない。わざわざ物置だと嘘をついてまで合宿の参加者を遠ざけ、入らないようにしていた。教官の様子からみるに教習所側の人間もここに立ち入ることは稀のようだ。宿泊施設の職員がここを整備している様子もない。いつからそうしているかはわからないが……最長でも10年以上、最低でもこれまでの合宿の期間である2週間近くは人の出入りはないはずなのだ。

 つまりこの平屋は長期間放置されている家のはずだ。人の出入りがなければもっと汚れて劣化するだろうし、生活の痕跡だって残るはずがない。それなのにこの家にはそれがある。家の経歴に対してその実態はあまりにそぐわないものだった。これではまるで――

「なんでこんなに掃除したみたいに綺麗なんだよ?

 

 なんでこんなに生活感があるんだよ?


 これじゃまるで――」


 誰か住んでるみたいじゃないか。

 

 口に出さずともその言葉は僕たちの心の中で共有されていた。それを言わなかったのはやはり怖かったからだろう。言ってしまったら、人の気配のしないこの家のどこかから、ひょっこりと住居人が現れてきそうで――。

 じわじわと。家に入ってからじわじわと薄気味の悪い恐怖が体と心を侵食してきていた。家の中を進むほど、理解を深めていくほど、頭の中に無理矢理に恐怖がねじ込まれてくる。

 ズキリと頭に痛みが走った。怪我をした部分が一定のリズムで激しく痛む。今までほとんど痛くなかったのに……。この痛みは怪我によるものだけではないのでは? ……それ以上そのことを思考するのを僕は拒否した。きっと無理をして歩いていたからそれでだ。僕はそう自分を納得させる。

「あと見ていないのは奥の2つとあっちの広い部屋だ。もう少しだけ頑張ろう」

 わざとらしく明るい声で肩を叩くと、大地はゆっくりと無言で頷いた。再び僕たちは廊下を歩く。大地は僕にピッタリ引っ付くようにして歩いた。

 その体はまだ震えていた。


 4つ目の部屋は寝室だった。2つのベッドが並べられている。シーツも毛布も枕も真っ白く清潔だった。陽に当てて乾かした時のあの独特の匂いがわずかに鼻に入ってきた。そこには染みや汚れも一切ない。軽く触れてみる。ふわりとした感触が少しばかりの弾力となって手を押し返してきた。上川たちと教官はいない。

 5つ目の部屋は最後の部屋はとても簡素だった。小さな丸いテーブルが中央に置かれ、それを挟んで木製の椅子が向かい合っている。ただそれだけ。テーブルの上にはガラス製の花瓶が置かれ、そこに花が活けられていた。黄色い小菊の花だ。それが1本そっと花瓶に刺さっている。造花ではないそれは夜にも関わらず、花瓶の中の綺麗な水を吸って誇らしげにこちらを向いていた。人はいない。

 とうとう右側の部屋はすべて見終わってしまった。僕たちは廊下の突き当りで立ち尽くす。もう残っているのはあの会議室のような部屋だけだ。

「これで最後だ。頑張ろう」

 小さな声で言うと大地は白い顔で頷いた。彼はもう1言も発さなくなっていた。僕たちは最後の部屋の扉へと向かう。

 いよいよ僕の体調は悪化していた。めまいと動悸は激しく、全身から嫌な汗が止まらない。腹部にも鈍い痛みが戻ってきた。側頭部はズキズキズキズキと痛みが内側から叩いてくる。包帯を触ってみるが出血が酷くなったわけではないようだ。

 無理してここまで来たせいか。この家のせいか。いや、両方か。そう思いながら僕は最後の扉の前に立つ。

 困っている人間や危ない目にあってる人間を助けたいという気持ちは今もある。しかし、この扉の先に上川たちや教官がいてほしいのか、いてほしくないのか、もう僕にもわからなくなっていた。

 ここに来るまで大きな異変はなかった。ということは必然この部屋になにかあるということになる。トラゾーたちは間に合うだろうか? もう少し待つべきか? 逡巡は一瞬。僕はドアノブに手をかける。

「この前窓から見た時、ドアの横に明かりのスイッチが見えたんだ。僕が開けたらすぐに点けて」

「ああ……」

 か細い、声になるかならないかの音を唇の間から漏らして大地は頷いた。よし行くぞ。僕はドアノブを回す。

 扉を開くと蛍光灯が点いた。まず目に飛び込んできたのは窓の向こうの闇。そこから視線を切って下の方を見ると窓の下で身を寄せ合いながら震える立川たちと、その隣に並んで座る筒井教官と竹島教官の姿が見えた。それ以外に人の姿はない。

「こんなところにいたのかお前ら……」

 ようやく人の姿を見つけたことで恐怖が和らいだ様子の大地はあれだけ嫌っていた上川たちに安堵の表情を向けた。まだちゃんといたらしい。僕もほっとする。

「ひっ、なんでお前らここに……?」

 僕たちが近づくと怯えた様子の上川は僕たちを見た。ため息を吐いて傍まで行った僕はしゃがんで視線を合わせた。

「あなた達を助けに来たんです。……その様子だとかなり怖い目にあったらしいですね」

 3人は尋常ではない様子だった。上川は僕が触ろうとすると壁の方に逃げるし、中山は口の端から泡を出すほど歯をガチガチさせている。下田にいたってはなんの反応も返さず、茫然自失としていた。その周りには撮影器具が転がっている。

 さっきの威勢が嘘のようだ。明らかに普通じゃない態度に、やはりここにはなにかがあるのだと改めて僕は確信する。

「筒井教官! 竹島教官! しっかりしてください!」

 顔色がいくらか元に戻った大地は教官に呼びかけていた。しかし両者ともなにも言わない。2人は口をぽかんと開けて、虚ろな目で宙を見ていた。体を揺すったりしてもピクリと動かず完全に脱力している。まるで魂が抜けてしまったかのようだ。

「ここでなにがあったんですか?」

 唯一まともに話せそうな上川と目を合わせると、その体がびくりと跳ねて「俺は見てねえ! なにも見てねえ!」と両腕で頭を抱えてうずくまってしまう。

「やっぱりこの家なんかおかしいんだよ。全員見つけたんだから、早く出よう!」

 上川たちはの様子に希釈されていた恐怖が蘇ってきたのだろう。大地が怯えながら言った。

「そうしよう。僕もこれ以上ここにいちゃいけない気がする」

 僕は頭痛に耐えながら賛成する。この部屋に入って、窓の近くに立ってから頭は割れてしまいそうなほど痛かった。予定とは変わってしまうが、彼らを助け出し、あとのことはトラゾーたちに任せたほうが良い気がした。

「よし、どうする? 窓が近いからそこから担ぎ出すか?」

「いや、それはだめだ。窓からはだめだ」

 僕は大地の提案を蹴ってその場から立ち上がる。

 その部屋の中は以前見た時と同じ印象を僕に与えた。窓を背にして立つ僕の目の前には4つの長机が長方形になるように置かれ、パイプ椅子がその前にに並んでいる。僕は顔を左前方に動かす。そこには手押しで移動できるタイプのホワイトボードと、その前にもう1つ長机が置かれていた。広間を会議室として使っている……。そんな感じだった。

 僕は顔を大地の方に向ける。

「少し大変だけど、玄関から出よう。内鍵なら開けられるはずだから、大丈夫なはずだ。往復することになって大変だけど、頑張」


ガチャガチャ

バタンバタン

カラカラ


その時、

家中から音がした。


 家中の扉という扉が開く音だった。唯一会議室の2つの扉は開いていないが、おそらくそれ以外はすべてが開いている。

 そしてそれと同時に家の中のあちこちで人の気配を感じた。1人や2人ではない、10人以上はいる。その息づかいや衣擦れの気配が突然、平屋の中に現れた。

「うわーもうこんな時間。早いなあ」

「あー、そうだ。誰か飲み物持ってきて。冷蔵庫にあったよね?」

「お茶は午前中のお話の時にほとんど飲んじゃったんですよね。ポカリでいいかな……」

「お願い。今日も長くなりそうだから、喉が渇くよね」


 そんなふうに。

 楽しそうに談笑しながら、日常的な会話をしながら声が近づいてくる。

スタスタ。ペタペタ。ジャリジャリ。人が歩く音がする。それに混じってぎっ、ぎっ、と廊下の軋む音。

「……なんで?」

 大地が呆けたように声を出した。だってそうだ。この家に僕たち以外に人間がいるわけないのだ。僕と大地は家の中を見て、それを確認している。つまり誰もいないという事実の証左は僕ら自身であるわけで。思考が混濁する。

 気配は1つの場所に集まろうとしていた。この会議室だ。声が、足音が、気配がどんどん僕たちに近づいてくる。


がちゃん


 そして両側の扉のドアノブが同時に回る。


 人が入ってきた。ざわざわと人が廊下から会議室に溢れてくる。それは眼鏡をかけた女性だったり、ジャージを着た男性だったりした。性別も格好も違う人たちが入ってくる。その手にはクリアファイルだったり、文房具だったり小物が握られていた。

 普通の見た目をしたその人たちは窓際にいる僕たちのことなど見えていないかのように次々と真ん中の長机へと着席し、向かい合う。最後にホワイトボードの前に3人の男女が着席した。その中心の男性が口を開く。

「はい。全員いるね。じゃあ夜のカンファレンスを始めよう。議題はどうやったら幽霊が見えるようになるか。みんなには具体的な案を出してもらって、これからの活動方針を決めたいと思います」

 隣の女性が立ち上がってマーカーでホワイトボードに文字を書く。どうすれば幽霊は見えるようになるか。そう黒い文字で書かれていた。

 僕の隣で大地が口を開こうとしていた。僕は素早く手で口を塞ぎ、耳元で囁いた。

「絶対に喋っちゃいけない。あの人たちが話しかけてきても答えちゃいけない。そうしないと同じだと思われてしまう。あなたもいいですね?」

 僕は歪んだ顔の悪霊を思い出しながらそう伝えた。大地と、最後の言葉は足元の上川に。大地は今にも泣き出しそうな顔で刻々と頷いた。

 上川は返事をしないので、そっちを見てみると……床の上で丸くなって震えていた。この状態ではなにもできないだろう。可愛そうだが今は放っておくしかない。

「じゃあみんな、なにかあるかな。……おっ、みんな積極的だね。じゃあ最初は君」

「はい。私思うんですけど、見えないものが見えるようになるにはそういう力が必要だと思うんです。超能力者がよくやってるじゃないですか。封筒の中に入れたカードの絵柄を透視して当てるってやつ。ああいうことを特訓として取り入れれば力が養えるんじゃないでしょうか」

「なるほど、なるほど。超能力的な力も取り入れるってことだね。まったく違う観点からのアプローチというわけだ。うんうん。いいスタートだね。最初からすごくいい意見だ。次は……君のお話を聞こうかな」

「僕思うんですけど、普段の活動をやめちゃいけないと思うんです。心のカンファレンスの本来の存在意義。色んな人の不安を聞いて、それを分け合う。それを忘れてしまったら幽霊を見ることってできないと思います。そういう応用的なことは基本的なことをしっかりやらなきゃ身につかないと思うんです。だから普段の活動も大事にして、素養を育む土台を作っていくべきです」

「君、君それね。すごく素敵な意見です。そうだね。幽霊を見ることに囚われすぎて本来の目的を見失ったら本末転倒です。僕、ハッとしました。普段の活動ももっと力を入れるべきですね。素晴らしい意見を出してくれた彼に、みんな拍手を」

 会議室に大きな拍手の音が響く。キュキュっとマーカーがホワイトボードに文字を書き連ねていく。

 僕と大地はなにもできずにただその場に突っ立っていた。逃げることすらできず、ただその光景を見る。本当は一刻も早く逃げ出したい。だが、動いたら目をつけられてしまうのではないかという想像が、大きな恐怖になって僕たちを金縛りにしていた。

 なんなのだ、これは。目の前にいるのは心のカンファレンスのメンバーらしい。カンファレンス。その名を冠しているのだから会議のようなことは当然やるだろう。だがこの人たちは20年前に失踪し、まだ見つかっていないはずだ。心のカンファレンスという名前のサークルはもう存在していない。ではこれは一体なんだ? 目の前で起こっているこの現象は? 頭痛がより一層強くなる。

「よくあるじゃないですか。霊的な力をつけるために滝行をするの。ああいうのはどうでしょうか」

「いい意見だね。でもその滝を見つけるのが大変そうだ。現状では難しそうだね」

「そうですかあ……。いいアイディアだと思ったんですけど……」

「うん。面白い意見だとは思います。けどね、少し現実的ではないね。もう少し僕たちでも達成可能なことをやっていきましょう」

「そうですね。次はもっとよく考えます」

「はい。次のカンファレンスではいい案を出せることを期待しています。うん。全員分出揃ったね。じゃあこの中からどれを実際に活動に加えていくかみんなで考えよう。どうやったら幽霊が見えるようになるのかをね」

「なに言ってんだ。そんなのいるわけねえだろ」

 別の場所から震えた声が聞こえた。僕と大地が目を剥きながら声のした場所を見ると、そこには床にへたり込む上川の姿があった。

「なんなんだよ、お前ら。さっきから何度もおんなじような話ばっかしやがって。幽霊なんているわけねえだろうが。頭おかしいのか」

 そう言う上川の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。恐怖と絶望で半笑いを浮かべながら心のカンファレンスのメンバーを見ている。

 先ほどの僕の声は聞こえていなかったのだろうか? いや、聞こえていようとなかろうと関係はなかったのかもしれない。飽和した恐怖に耐えきれず、精神が限界を迎えているのだ。僕たちが来る前にもこれを何度も見ていたのだとしたら仕方のないことだった。

 メンバーは一瞬動きを止めて上川を見た。そうしてから笑い出す。

 どっと空気が盛り上がった。あはは、うふふ、ひいひい。みなそれぞれに笑っていた。爆笑や大笑いのたぐいのそれは相手を馬鹿にしているのではなく、言っていることが心底面白いという明るい笑顔だ。腹を抱えて、よじれそうになるほど笑う。

「笑ってんじゃねえ! なに笑ってんだ!」

 上川が髪をかきむしりながら喚き散らす。それを見た1人の女性が指で涙をすくいながら言った。

「それは、だって……ねえ? まだそんなこと言っているんだもん」

「本当ですよね。この状況、幽霊じゃなかったらなんなんだって話で」

「こんなこと普通の人ができるわけないし」

「それでも信じてもらえないって言うなら仕方ないよね」


「君には見えているんでしょ?」


 メンバー全員の声が重なった。すべての視線が僕に集まる。

 いや、正確に言えば彼らが見ているのは僕ではない。僕の真後ろに立つ『それ』にだ。

 この部屋に入った瞬間、1番最初に見えたのがそれだった。窓から盛れる光。それに照らされて、1つの影が入り口の方に立っていた。それを見て僕は確信した。あれは見てはいけないと。

 その後僕はとにかく窓に目を向けないようにしていたが、音は聞こえていた。ジャリジャリと砂利を踏みつけにする足音だ。

 それは少しずつ少しずつこちらへ近づいていた。ゆっくりとだが大きくなっていった。そして視線が僕に集まったその時、真後ろまで来ていた音が止まった。

 僕はゆっくりと振り向いた。

 窓の向こうには男が立っていた。男。そう男だ。だが人ではなかった。体にはなにも着けず全裸だ。肌色の皮膚が部屋の明かりで光っている。

 窓には肘から上の上半身しか映っていなかった。下半身は窓枠より下なので見ることができない。

 窓に密着しそうなほど近づいた男の首は伸びていた。本来肩のすぐ上にあるはずの頭部はなく窓枠の上まで伸びて、見えなくなっていた。長い首には細く長い傷が無数についていた。皮膚が裂け、断裂した筋組織が露出している。もともと伸びていたのではなく、無理矢理誰かが頭を引っ張ってそうなったかのようなそんな姿だった。


「幽霊を見ている」


 心のカンファレンスのメンバーが声を合わせて言った。夜になり鏡のようになった窓にはメンバーたちが満面の笑みでそのなにかを見ている姿が映っていた。……ああこれが八雲教授の見た……。確かにあの笑い方は覚えておきたくない。


ゴキッ。ブチン。


 窓枠より上、途切れてしまった首のすぐ上でなにかが折れたような音とちぎれたような音がした。


「幽霊を見ている」


 窓の最上部。僕が見ているそこに黒く細長い束が揺れる。


「幽霊を見ている」


 垂れ下がったそれが右側に動いていく。男の額が反時計回りに回転しながら降りてくる。


「幽霊を見ている」

 

 男の顔は首に対して並行になる部分で止まった。上下逆になった頭部は上半分だけを窓に出した。


「幽霊を見ている」


 異様に長く縦に伸びた黒い瞳と僕の目が合った。不定形のアメーバみたいに蠢くそれから僕は目を離すことができない。


「幽霊を見ている」


 どれぐらい見つめ合っていただろうか。数秒か、数分か。それとももっと長くか。僕は視線を切り、窓に右手を当てて、安堵の息を吐き出す。

 僕には見えていたからだ。反射した窓にキジトラ柄のにゃんこがふわふわ浮いているのが。僕は振り向く。

「トラゾー……」

「すまん。準備に時間がかかってな。なんとか間に合ってよかったぞ。お前のおかげでスムーズに入れた」

 トラゾーは化けにゃんこの姿で空中に浮きながら会議室に入ってきた。上川と大地がそれを見て口をあんぐりと開ける。

「草太どの、拙僧もおりますよ」

 続いて法乗院さんも姿を現す。開いた扉からヌッと会議室に侵入し、編笠を取る。

 心のカンファレンスのメンバーは2人が入ってきても無反応だった。微動だにせず窓の向こうのなにかを見つめて笑顔のままだ。

 そんな彼らの様子にトラゾーはどことなく悲しげな視線を向けた。

「なるほどな。確かに今俺は幽霊を見ているぞ。だけどな、死んだあとまで幽霊なんて探してんじゃねえよ。そんなん見たけりゃ鏡でも見ていろよ。今のお前たちが鏡に映るかどうかは知らんがな」

 トラゾーは法乗院さんの肩に乗る。自分の顔の前に人魂を1つ浮かべるとそこにビームを撃った。

 人魂に当たったビームはいくつもの細かい光線となって部屋の中へと拡散した。それがトゲのようにメンバーたちの背中へと突き刺さる。そんな事態になっても彼らは表情を変えなかったが、その体が半透明になり、周りの光景が透けて見えるようになる。

「迷える魂たちよ。成仏めされよ……。ふん!」

 法乗院さんは片手で印を結び、何事か唱えると、錫杖で床を叩く。

 すると目に見えない波動が会議室の中を突き抜けていった。先日お祓いを受けた時に感じた気のさらにすごいやつだ。

 それを受けたメンバーたちはそのまま姿を消していった。長机の上に広げた物品も、ホワイトボードに書かれた文字も、彼らの痕跡を残すものはなにも残っていなかった。20年前彼らが失踪しした時のように……。

「こっちは片がついたが……時貞よ、あれはどうする?」

「どうしましょうなあ。どうにかする存在ではないのですが、せめてここからは立ち去っていただかねば……」

 僕が再び窓の方を見るとまだそこにそれは立っていた。顔は元の位置に戻ったのかもう僕を見ていない。

 するとそれは右腕を上げて異様に長い指を見せてくる。その人差し指と中指で窓のガラス、僕の両目がある位置をトントンと叩いた。窓ガラスが軽く揺れる。

 そうして、ゆっくりと振り返るともと来た道を戻っていった。ジャリッ、ジャリッ。その異様と足音は、やがて夜の闇へと溶けて消えていった。

 終わった……。体から力が抜けて僕はその場に尻もちをつく。安心感から汗腺が緩んだのか、汗が止まらなかった。

「草太、大丈夫か? もう安心していいぞ。もうこの場にはなにも残っていない。危険は去った」

 普通のにゃんこの姿になったトラゾーがトコトコ歩いて僕の方にやってきた。僕は無言で、けれどしっかりと頷く。

「お前、また怪我してるのか? 今度は何が理由だよ」

「あー……これはあの人たちに蹴られちゃって……」

「ああ? ああ、あいつらが例の……」

 僕が上川たちの方をちらりと見ると、トラゾーが低い声でそっちを見る。

「気がやられてしまいましたか。どれ、私が喝を入れましょうか……。はあ!」

 そこでは法乗院さんが様子のおかしくなっていた中山と下田を介抱していた。法乗院さんが背中を叩くと2人は正気を取り戻し、「ひいっ! 幽霊はどこだ!」「俺の空手が効かない……」と上川と一緒に怯えはじめた。

 次いで、法乗院さんは筒井教官と竹島教官にも同じことする。2人はあたりをキョロキョロ見回しながら「あ、あなたは……? 一体何が……」「た、確か人がたくさん入ってきて……」と周囲の環境の変化に困惑していた。

「あいつらは見ちゃいけないもんを見て、一時的に正気を失っていただけだ。時貞がそれを戻したから後遺症とかもないはずだぞ」

「そうなんだ。なら良かった……」

 にわかに騒がしくなった会議室でトラゾーがあくびをしながらそう言ってくれる。僕は安心して胸を撫で下ろす。

「まあ恐怖体験による心の傷は如何ともし難いが……。それはおいおい向き合ってもらうしかないな」

「それでも良かったよ。みんな無事で……」

 僕が笑みを浮かべるとトラゾーも「それもそうだな」と言って体を伸ばした。

「いやなんで猫が喋ってんだよ。なんで猫と喋ってんだよ」

「あ」

 大地が近くに立って僕とトラゾーを見つめていた。額から汗をだらだら流して信じられないようなものを見る目だった。

 どう説明しよう……。そう思っているとおもむろにトラゾーが大地の足元に進み出て、床に横になった。

「お前が大地って奴だな。俺はトラゾー。600年生きてる化けにゃんこだ。今は故あって草太の飼いにゃんこやってる。よろしくセクシー」

 トラゾーはそのまま後ろの両足をおっぴろげた。トラゾー渾身のもふもふでセクシーなポーズだ。

「……なあ、まだ幽霊現象って続いてるのか?」

「人を怪奇現象扱いすんじゃねえ」

 僕の顔を見てくる大地の足をトラゾーが軽く叩く。そして「助けてやったんだからお礼としてモフりやがれ!」とヘソ天した。……トラゾーのことは後で僕が詳しく説明すればもうそれでいいだろう。あと、化けにゃんこは十分怪奇現象です。

「しかしまあお前は毎回危ない目にあうな」

 ものすごい複雑そうな表情の大地にお腹を撫でられたトラゾーが僕のところにまでやってきた。

「だからもしもの時の保険を残しておいたんでしょ」

「……今回ばかりはそれに助けられた。お前がいなかったらここに入るのに時間がかかってだめだったかもしれん」

「僕の予想通りだったってこと?」

「ああ、時貞も感心してたぞ。よく物事を見てるってな」

「そう……。それで僕の体どうなってた?」

 僕がそう尋ねると、トラゾーはニヤリと笑った。

「ああ、外側から見てもわかるぐらいに光っていたぞ」


「何? どうしても止められないときはお前が俺たちを呼び込む?」

 先日、僕の提案を聞いたトラゾーは意味が理解できずに聞き返してきた。

「言っている意味がわからん。説明しろ」

「うん。僕思ったんだけど、今回の現象って僕が遭遇した悪霊とは真逆な気がするんだ。どこまでも追ってくるんじゃなくて、自分たちのところまで誘導するみたいな」

 お盆に僕を襲った悪霊はどこに行っても追いかけてきたり、狙った相手をさらったりしてかなりアグレッシブに動いていた。

 だが張り紙事件を起こしていると思われる心のカンファレンスの霊はそうではない。気になる内容の張り紙を自分たちがいる場所とは別のところで出現させ、それを追跡させる。つまり自分たちの領域まで標的を誘導するようなやり方ではないかと思ったのだ。まるで巣を貼り獲物を待ち構える蜘蛛のように……。実際その網に絡み取られようとする人間が少なくとも3人はいる。

「お前、なかなか鋭いな……。俺と時貞も同じことを考えている」

「やっぱりそうなんだ」

「ああ、そういうタイプもいるんだよな。その土地から動けない地縛霊がやることが多いな。けどそれがどうかしたか?」

「そこまで考えて思ったんだけど、標的を自分の領域まで誘い込んだら、外に逃げたり外部からの侵入者が入ってこれるようにしておくのかなって……」

「!」

 電話の向こうでトラゾーが息を呑む様子が伝わってきた。

「確かに……その可能性は高いな。招き寄せる段階では誰でも入れるようにしておくだろうが、それが終われば誰にも邪魔されず標的が逃げられないような状況を作るだろうな。そうなれば俺や時貞でも侵入するのが難しくなる。それを破る術や道具を用意しなければいけなくなる。

 ……おい、まさか、そういう状況になったらお前が俺たちを中に入れるって言ってんのか? そんなことどうやってやるつもりなんだ」

 トラゾーは困惑した声で尋ねてくる。僕は唇をぺろりと舐めた。

「山の神様の加護があるでしょ。迷える魂を導く神の力が」

「!」

 トラゾーはこの日何度目かの絶句をした。

 悪霊に山の中で追いかけられているとき、突然目の前に白い光が見えた。そこに向かって走ると僕は参道に出ており、その結果事なきを得た。

 あのときはなんとも思っていなかったが、1ヶ月半の時が経ち、あの時のことを冷静に思い返せるようになった僕はある1つの仮説を立てていた。

 あの時僕が参道に入れた理由。それは魂を導く神の光が、山の中で道を踏み外し迷っていた僕の魂に作用し導いてくれたからではないかと。

 そう考えると死者でない僕があそこに侵入できたことにも納得がいくのだ。僕がうっかり立ち入ったのではなく、導かれてあそこにたどり着いた。山の神が僕をすんなりと帰してくれたのも、両親の口添えがあったからだけではなく、そのことを知覚していたからかもしれない。

 そして僕は考えた。トラゾーや時貞さんに見えているという白い光。それは参道に満ちていた光と同質のものだ。ならばあの時と同じ現象を起こすことができるのではないかと。僕を目印にして閉じた領域の中に迷っている魂を導けるのではないかと。僕自身が魂を導く小さな光――『灯火』になるのだ。

 それを聞いたトラゾーは最初は反対していた。可能性はあるが、本当にお前の思っていることがあっているかわからず危険だと。

 だけど僕はトラゾーを必死で説得した。誰かのために僕ができることがあるならそれをやりたかった。

「もちろんこれは3人を止められずに外部との連絡が取れなくなった時の保険だよ。立川たちを止められるならそれが1番だ。仮に止められなかったらトラゾーに連絡して待機する。

 でもそれがだめだったときは僕を見て。僕のいるところに真っ直ぐに来て。絶対にトラゾーたちを迷わせないから」

 僕が言い終わったあとトラゾーはずっと黙っていた。たっぷりと時間をかけて熟考してから口を開く。

「……わかった。だがそれはお前が言った通り、もしもの時の保険だ。使わないことに越したことはない。

 とにかくお前は持てる手段のすべてを使ってその平屋に誰も入らないようにするんだ。そうすれば俺と時貞で後日解決できる。いいな? 間違っても無茶はするなよ」


「そう言ったはずなんだがな。あれも今思い返してみればフラグみたいなもんだったか」

 短い回想を終わらせるとトラゾーがぼやいた。僕は申し訳ない気持ちになった。

「トラゾー、ごめん。ここには誰も入れるなって言ったのに……」

「まったくだ。お前から電話がワン切りでかかってくるからなんかあったのかって心配して来てみりゃあ、お前自身がここに入っているしな。どうせ呼ぶなら元凶の場所のほうがって思ったんだろうが、危なすぎんだろ。そこまでやれとは言ってないぞ」

「ごめん……」

 僕は肩を落とした。実際この平屋への侵入は一種の賭けだった。一刻を争う事態ならいっそ危険に近いほうがすぐにトラゾーたちに介入してもらえる。部屋で目を覚ましたときはそう考えたが、今になって思うとかなり危険な行為だった。やっぱり脳震盪で思考もぶれぶれだったのかもしれない。反省しなければ。

「まあでも今回お前はよくやったよ。最善は尽くしたし、その結果俺たちもなんとか間に合った。だからそこまでしょげるな。次はもうちょっとうまく立ち回ればいい。その時は俺ももっと早く駆けつけてやるよ」

「トラゾー……」

 僕は顔を上げて香箱座りで慰めてくれるトラゾーを見る。トラゾーは首を回してニヤッと笑った。

 その時、部屋の中に眩しい光が差した。窓の向こうを見ると東の空に太陽が昇っているのが見えた。夜明けだ。その光が木漏れ日となって僕たちに降り注ぐ。

「とりあえずの問題は後始末だな。どう説明したもんか……」

 朝日に染められる部屋の中、トラゾーのあくび混じりのぼやきが響くのだった。




 

 

 

  

  





 

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