第32話 カンファレンス(2)

「おう、天原か。どうした?」

 数日後。僕は八雲教授のもとを訪れていた。講師室のデスクに向かう教授の顔は少しやつれていた。

 あれから心のカンファレンスの紙は増え続け、他の場所の掲示板にも貼られるようになっていた。学生たちの間で噂は噂を呼び、中には僕が先輩から聞いたような話を流す人もいた。SNSで話が盛り上がったせいかニュースサイトも取り上げるようになった。まだ数は少ないが取材の許可を大学に求めている組織もあるらしいと小耳に挟んでいた。大学側はそれへの対応に追われ、連日多くの職員が忙しそうに歩き回っていた。

「どうした? 何の話だ?」

 目頭を押さえる教授に申し訳ないなと思いながら来客用の椅子に座り口を開く。

「その……あの紙のことで気になることを聞いて……」

 僕は先輩の友人が調べたという話をした。口を挟むことなく聞いていた教授は話が終わると疲れた表情で椅子に深く身を沈み込ませる。

「そういうルートで当時の話が表沙汰になるかもしれないとは思っていたがな……。

 そんな話をして俺に何を聞きたいんだ? 関わるなと言ったはずだぞ」

 その態度に僕は疑惑が確信に変わったことを知る。

「すみません……。でもどうしても聞きたくて……。

 僕の想像でしかないんですが、教授は20年前の心のカンファレンスの1件を身近で見ていたんじゃないですか?」

「……どうしてそう思う?」

「教授たちの話が聞こえてしまったんです。20年前のことがどうこうって。それでもしかしたら教授たちは当時のことをよく知っているんじゃないかって……」

 教授はしまったと顔を歪めた。

「聞こえていたのか……。なるほどそれで20年前の話と繋げて……。ああよく理解したよ……」

 教授はくしゃくしゃと髪をかき乱す。そうしてから腕を組み目を閉じた。その様子は過去の記憶を反芻しているように僕には見えた。

「……確かに俺は当時この大学の学生だった。だからあの時の事もよく覚えている」

 どれだけ時間が経っただろうか? 教授はゆっくりと喋る。

「やっぱりそうだったんですね。その時からずっとこの大学に?

「ああ。卒業して大学院に進み、修士課程と博士過程を経て、この大学の講師になった。それから長い時間をかけて教授の立場についた。それ以来ここを離れたことはない」

「なるほど……。それで当時心のカンファレンスになにがあったんですか?」

「大体、お前の聞いた話と同じだよ。とはいえ俺から話を聞くまでは帰らないという顔だな? なにがお前をそうさせるのかは俺にはわからんが……仕方ない。いつまでもここに居座られても困るからな。話してやろう」

「ありがとうございます」

 僕が頭を下げると教授は1度頷いてから、遠いところを見るような目で語りだした……。


 20年前というと今ほど大学のセキュリティや防犯意識は高くなくてな。外部から来た怪しい集団の一員が勧誘をしてくるということがよくあった。

 時々あるだろう? 怪しい物品を高額で売りつけてくる詐欺まがいのグループや怪しいカルト宗教の存在が。それらが普通に大学に入ってきて活動するっていう時代があったんだよ。

 心のカンファレンスもその1つだった。M大学で結成された小さな集団だった。そのメンバーが自分たちのサークルに入りませんかって勧誘を続けていたんだな。他の大学でも同じことをしていてなかなか積極的な集団だった。

 カンファレンス……。そうだ、英語で議会や協議会という意味の単語だ。彼らの活動目的は他者との対話の中で悩みや不安を分け合い、お互いを高めあうというものだった。

 言ってしまえば自己啓発のサークルだよ。今でもよくある考えだ。別に珍しくともなんともない。多少のうさんくささはあったがな。だが他の団体と比べたら何倍もましで雲泥の差があった。

 精力的な活動が実を結んだのか各大学で参加者が増え、人数だけで見れば大規模なサークルになっていた。この大学からも十数名のサークルメンバーが出た。

 人数の増えた心のカンファレンスはより活動を行うようになった。講堂を貸し切ってセミナーを開いたり、駅前でビラを配ったりとかな。彼らが特徴的だったのはメンバーでなくても悩みや不安があれば誰でも話を聞いていたことだ。目的が目的だから自分たち以外の人々のことを放っておけはしなかったんだろう。さらにその行動は下手な勧誘よりもよほど効果的だった。人間誰でも不安や悩みは持っているものだ。話をしにいく人は多かったし、そこから加入する人間もいた。そうしてわずか1年足らずで心のカンファレンスは急激な成長していったんだ。


 ここで知っておいてほしいんだが、心のカンファレンスはさっき話した詐欺集団やカルト宗教のような、いわゆる悪い集団ではなかったということだ。相談しに来た外部の人間から高額な金銭を要求したりすることはなかったし、危険な儀式やまじないのようなことは一切しなかった。心の悩みを共有し自分を高める。その目的に沿った行動しかしていなかったんだ。俺も1度だけセミナーに出席したことがあるが、そこでは悩みの相談や自己を高めるという話しかしていなかった。金欠で腹をすかせた友人がタダ飯目的で飲み会に行った時も先輩たちは真摯に参加者の話を聞いていたらしい。

 そしてそれはサークルとしての規模が大きくなっても変わらなかった。これはすごいことだと思うよ。組織が大きくなれば初心を忘れて本来の目的とは違う活動をして元の姿とはかけ離れてしまうこともある。人が増えれば諍いが多くなり、組織が空中分解してしまうことだってありえる。組織の成長とはそれらの危険と常に隣り合わせだ。でも彼らはそうじゃなかった。どんなに人員が増えても傲慢にならず掲げた目的を忘れなかった。そういう意味ではとても健全な組織だったんだ。

 

 何が言いたいかというと、心のカンファレンスは危険な思想を持ったり、暴力的な行動で訴えかけてくる集団ではなかったということだ。目的のためにどこまでもストイックな活動を続ける善良な集団というのが当時の大学関係者の見解だった。俺個人としてはとても純朴な人間の集まりだと思ったよ。もちろん良い意味でな。

 

 だからそこを踏まえてここからの話を聞いてほしい。


 心のカンファレンスが結成してから1年が経ったとき、彼らは初めての合宿を行うことになった。共同生活を行うことでより自分たちを高める。そんな理由でな。

 合宿は夏季休暇の間に実行されることになった。夏季休暇の3分の1を使った長期間の合宿だ。ほとんどのメンバーが大学生だったからな。サークル活動で講義をサボるわけにはいかなかったんだろう。こうして彼らは旅の準備をして発っていった。

 これは後で聞いた話だったんだが、彼らは全員で1つの場所で寝泊まりしていたわけではなかったらしいんだ。大学ごとで分かれてそれぞれ選んだ宿泊施設やレジャー施設に泊まっていたらしい。その時にはメンバーが数百人にまで膨れ上がっていたから、全員で合宿できる場所が見つからなかったというのが理由だったらしい。事前に作られたしおり通りの活動をして、各大学の代表がそれを報告しあう。そういうやり方だったらしい。当時はまだSNSもスマートフォンもなく、折りたたみの携帯電話や公衆電話が主流の時代だ。毎日報告するというのは大変な手間だったろうな。


 もしかしたらそれがいけなかったのかもしれない。帰ってきたこの大学の心のカンファレンスのメンバーはみんなおかしくなってしまっていたんだ。


 夏季休暇が終わり、大学に戻ってきた学生たちはその変化にすぐ気づいた。メンバーたちは皆一様に決まったことしか言わなくなったからだ。

「自分たちは素晴らしいものを見た」

「どうして今まで信じていなかったんだろう」

 ありていに言ってこんなようなことだ。彼らはあれだけ積極的に行っていた心のカンファレンスの活動を全くしなくなった。相談も断るし、自分を高めるような行動をぱたりとやめてしまった。誰かが話を聞いてもさっきのようなことを繰り返すばかりだった。

 そして彼らは奇妙な活動を始めた。創作物でよくあるだろう? UFOを呼び出す儀式とか死者の魂を蘇らせる手段とか、そういうのだ。彼らはそういったことを大学内外問わず行うようになった。講義や日常生活を無視してそれらの活動に熱中するようになったんだ。

 学生たちはみんな薄気味の悪さを感じていた。あまりの人の変わりように合宿で何かあったのかと心配する人間も多かった。その中の1人が他の大学のサークルメンバーに連絡を取ったことがあった。彼らは他の心のカンファレンスのメンバーとも連絡を取り合わず「自分たちはもう自己を高め終わった」「あとはまた見れるようになるだけだ」とだけ言って関係を断っていることが判明した。合宿が終わった直後に一方的に切り出されたようで、他のメンバーも困っているという話だった。

 学生たちはいよいよ彼らを避けるようになっていった。さっきの話が人づてに伝わり、みんなが関わってはいけない存在だという共通認識を持つようになっていた。俺もそうだった。その時の彼らはまさしくカルトといった言動だったからな。そうして大学中が腫れ物を扱うようになった頃、彼らは大学を休むようになった。そして少しずつ少しずつそれが多くなっていって……ある日を境に完全に姿を消してしまった。大学だけでなく、家や賃貸からもいなくなってしまった。

 すぐさま集団失踪事件として警察が捜査を開始した。好奇心旺盛なマスコミはこの事件をセンセーショナルに取り上げ、大学や家族のもとには連日記者が訪れカメラのフラッシュを焚いた。ニュースやワイドショーでは専門家や有識者の方々が招かれ、事件についての見解を語った。ありとあらゆる媒体で事件の憶測が流れ、消えていった。

 失踪したのが同じ自己啓発サークルの一員だということがばれると、マスコミは面白おかしく世間をかきたてた。悪魔崇拝をしている危険な組織だとか、犯罪行為に手を染めてそれがバレたからいなくなっただの、あることないこと言いふらした。実際はさっき言った通りの真逆な組織だったわけだが、マスコミとしてはそれでは面白くなかったんだろうな。視聴率や売り上げ部数を上げるためなら嘘でもなんでも良かったんだろう。メンバーのところにもマスコミは押し寄せたらしい。可哀想に。彼らは何も悪いことをしていないのに。

 世間の熱狂とは相反して警察の捜査は行き詰まっていた。失踪した彼らの行き先の痕跡。それがまったく見つからなかったんだ。電車や新幹線、高速道路や船。ありとあらゆる公共機関を調べたが、彼らの行方を示す証拠はどこにも残っていなかった。家宅捜索を行っても不審なものは何も出てこなかった。彼らの行き先が分かる痕跡は何1つ見つからなかった。

 捜査が行き詰まった警察はとうとう失踪者の個人情報を明かしての公開捜査を行った。一般市民から情報を集めようとしたんだ。だが結局のところ有力な情報はなく、彼らを発見することはできなかった。彼らはどこかへと消えてしまった。まるで霞のように。


 ただ1つだけ有力な証拠があった。失踪事件からから1週間後、あるメンバーの家族のもとに失踪者がかけてきた電話があったんだ。

 その電話は都内の公園内の公衆電話からかかってきたものだった。深夜、母親が電話に出ると相手は何も言わずにただ無言だったらしい。だが母親は直感的にそれが息子からの電話だとわかったらしい。親の愛情からくる第六感だったのかもしれないな。

 母親は何度も息子の名前を呼び、何度も語りかけたが、返事は何も返ってこなかった。母親は最後には泣き叫んで息子の名前を呼んだ。それに対してただ一言だけ言葉が返ってきたらしい。

「僕は見ている」

 それを最後に電話は切れた。警察はすぐさま使われた公衆電話を特定した。すでに誰もいなかったが、調べてみると失踪者の真新しい指紋が受話器に残っていた。しかし周囲には防犯カメラはなく、真夜中だったため目撃者がいなかったせいで聞き込みでもこれといった情報はなかった。結局事件解決の手がかりにはならなかった。……彼は一体何を見ていたんだろうな。


 当時の学生たちはおかしくなったメンバーが自分たちの意思でどこかへ行ったのを知っていた。なぜならいなくなる前日、彼らが大学内で旅の支度をしていたのを大多数の学生が目撃していたからだ。彼らは荷物の入った大きなリュックサックを持って和やかに談笑していた。……ああ、当然このことは警察に証言したよ。だから誘拐事件ではなく失踪事件として警察も最初から捜査していたんだ。

 この時点でほとんどの学生が気味悪がっていて話しかけようとはしなかったが、俺はどうしても気になって聞いてしまったんだ。「一体どこに行くのか?」と。そうしたら彼らは会話を止めて全員で俺を見て……声を合わせて言った。



「会いに行くんだよ」



 誰に? 何に? どこで? どうやって? 続く質問は俺の口からは出てこなかった。理由は簡単だ。

 あいつらは笑っていた。多幸感と嬉しさの混ざりあった満面の笑みだった。だが、あの笑顔はとても、とても……奇妙だった。白い歯をむき出しにして、赤い唇を限界まで釣り上げて、目を細めて……。確かに笑顔だったんだ。笑顔だった……。だけどあれでは、まるで……。



もう一生思い出したくない。



 ……ああ、すまない。大丈夫だ。話を続けよう。

 結局事件は迷宮入りとなった。誰1人として行方不明になったメンバーは見つからず、警察は捜査を打ち切った。警察が対応するべき犯罪は数多く起こっている。ろくな手がかりもない中でこれ以上マンパワーを割くわけにはいかなかったんだろう。事件が起こってから半年後、警察は捜査本部の解散を告げ、刑事たちは新たな事件へと向かっていった。

 マスコミも最初は色々憶測を述べていたが、しばらくすると別のスキャンダルを報道するようになった。現代社会の話題の移り変わりは早い。そうして失踪事件はだんだんと世間から忘れられていき、人々の頭の中から風化していった。やがて学生たちもあれは奇妙な出来事だったと胸に秘め、話題に上がることもなくなっていった。


 それで終わったら良かったんだが、お前も知っての通りこの事件には続きがある。

 それからさらに半年経ったあと。ちょうど失踪事件から1年が過ぎた頃だ。突然掲示板に奇妙な紙が貼られるようになった。そうだ。あの紙だよ。断言してもいいが、今回貼られているものと20年前のものは内容含めて紙質すら一緒のものだよ。なんでそんなことがわかるのかって? 先日掲示板から剥がした時に指に伝わった感触が20年前のものとまったく同じだったからだよ。濡れた紙を乾かしたようなごわごわとした質感。間違いないよ。あれは20年前の紙とまったく同じものだ。

 話を戻そう。当時も現在と同じように日に日に紙の枚数は増えていった。その内容は否応なしに俺たちに失踪事件のことを思い出させた。学生だけでなく、世間やマスコミにもな。どこから嗅ぎつけてきたのかマスコミたちは大学に押し寄せてきた。連日多くの記者たちが詰め寄ってきてカメラやマイクを向けてくる。あの時は大学に入るのも一苦労だった。

 世間も再び失踪事件に目をつけた。また根拠のない憶測やデマが行き交いはじめた。この紙の内容はサイコパスが書いたものだとか、当時の犯罪心理学の権威が発言して、一層世論は加速した。

 ただその時の騒ぎは長く続かなかった。10日ほど経ったら紙が貼られることはなくなったからだ。そうなれば世間の関心も離れていく。

 結局それは誰かのイタズラだということで終わった。犯人は見つからなかったが、例の事件を知る何者かの悪質なイタズラだろうと。全学生を集めて厳重注意をして大学側の対応は終わった。もうわけの分からない現象はごめんだという職員側の感情が透けて見えたな。それと同じ気持ちを抱くことになるとはその時は思ってもみなかったが。


 心のカンファレンスは活動を大幅に制限されることを余儀なくされた。一連の事件で好奇の目を向けられ、捏造された事実を流布されたことによって、おおっぴらな行動ができなくなってしまった。いわれのない誹謗中傷に耐えきれず何人ものメンバーが去っていった。

 仕方なく名前をカンファレンスサークルに改め、活動内容も対話による自己啓発から運動やスポーツによる身体の健康維持へと変わりなんとか存続できた。今は当時の事件を知らない人間がほとんどのようだが……それでも都市伝説じみた話が伝わってしまっているようだな。


 これで俺の知っている20年前の事件のことはすべて話した。真相は不明のまま幕は閉じ、釈然としないことを多く残していった。

 合宿で何があったのか? 何を見たのか? どうして姿を消したのか? あの紙の内容は? すべてが謎のままだ。すべて。

 俺は時々思うことがある。行方不明になったあいつらは今でもどこかで活動していて、何かを見るために自己啓発をしているんじゃないかってな。俺たちには見えない何かを感じるために、必死になっているのかもしれないとそう思う時があるんだ。

 

 そうなった場合、まだ人間として生きているのかは分からないがな。


 部屋はとても蒸し暑かった。9月も半ばだが、地球温暖化の影響か近年は秋になっても暑い日がある。それに加えて講師室は風の通りが悪いようで湿度の高い空気が滞留している。古いエアコンがガタガタと部屋を涼しくしようとしているが、あまり効果はないようだった。体中から汗が吹き出していた。

「教授はどう思っているんですか。20年前の一連の事件と今回の件はいわゆる……不可思議な現象だと考えているんですか?」

 僕は胸元に張り付いたシャツを指で挟んで引き離しながら尋ねた。教授はデスクの上のペットボトルに口をつけ、ごくごくと飲む。

「……まあ、それに属するものだと考えているよ」

 しばらくして教授は重々しく口を開く。

「当時はそういう変なこともあるんだろうと思っていたが、民俗学を学ぶ中で説明のつかない事象を多く体験して、あれもそうだったのかもしれないと考えるようになった。

 そして今回の1件でそれはより強いものになった。あんなものを見せられたらそうならざるをえない」

「あんなもの……?」

 首を傾げる僕を教授はちらりと横目で見てくる。

「当時と違って今の大学の敷地内にはありとあらゆる場所に防犯カメラが設置されている。それは当然エントラスにもだ」

 僕は大きく目を見開いた。防犯対策の意識が高いこの時代、大学に防犯カメラの1つや2つない方がおかしいだろう。

「うちの大学の防犯カメラの映像は外部の警備会社のクラウドに保存されている。それで会社の方に頼んでこの1週間の映像を確認させてもらったんだ」

「何が映っていたんですか?」

 僕は思わず身を乗り出していた。教授はそんな僕を一瞥し、一呼吸おいてから言った。


「何も。防犯カメラには不審なものは何も映っていなかった。夜が明けるといつの間にか掲示板にあの紙が貼られていた」


部屋の温度が氷点下まで下がったような錯覚を僕は覚えた。全身を伝う汗が冷たい。

「教授……それはつまり……」

「まあ、そういうことなんだろう。クラウドから抜き出した映像をそのまま見たからフェイクの可能性は限りなく低い。俺以外の教職や職員も一緒に見て同じ反応をしていたから見間違いということもないだろう」

 震える声を出す僕に、教授は淡々と言った。論理的な説明で不合理な現象であると証明するその様は、かえって奇妙だった。

「今回の件はもう関わらないほうがいいだろう。20年前と同じだとしたら、あと数日で事態は終わるはずだ」

 教授は僕から視線を外しデスクに向き直った。僕はどこか釈然としない気持ちでいた。確かに20年前と同じなら事態は終息に向かうのだろうがそれは根本的な解決になるのだろうか?

「本当にそれでいいんでしょうか……?」

「いいも悪いもあるか。自分が巻き込まれた不可解な現象ならば解決の手段を探すが、それ以外の現象には首を突っ込みたくないというのが俺の考えだ。それで自体が悪い方向に向かうかもしれない。そう考えたら迂闊に手はだせん。

 現状は貴重な森林資源が無駄になっていること以外に実害はない。なら事態を静観するしかないだろう」

 そう言い切って教授はデスクの上に視線を落とした。

「それに俺は心のカンファレンスの関係することにはもう関わりたくない。

 あの時の貼りつけたような笑顔が頭にこびりついて忘れられないんだ。

 もう思い出させないでくれ」

 そう弱々しく頭を振る教授の姿を見て、僕はそれ以上何も言えなくなってしまうのだった。


「その教授の言う通りだろ。このまま無視しとけよ」

 大学が終わり、もやもやとした感情を胸に抱きながら部屋に帰ると、トラゾーはそう言って大きなあくびをする。

「やっぱりそうなのかな……」

 テーブルの前であぐらをかいて悩む僕にトラゾーはため息を吐き出す。

「そりゃな。確かに奇妙な話だが、だからって首を突っ込んでどうするつもりなんだ。最近妖怪や幽霊に会って勘違いしているかもしれんから一応言っておくけどな。お前自身はただの人間なんだ。盆の騒ぎだってお前1人でなんとかしたわけじゃないだろ。厳しいことを言うけどな。お前にできることなんて何もないんだ。だから自分から危険なことに関わるのはやめろ。お前に何かあったら悲しむ奴が大勢いるんだぞ」

 トラゾーは一気に言ってソファーの上で体を伸ばした。言い方は強いが僕のことを気づかっているのだという気持ちは伝わってきた。その気持ちは嬉しいが、けれど――

「そうだね。だからこそ悩んでるんだ」

「何だと?」

 驚いたようにトラゾーが僕の顔を見る。僕はテーブルの上に視線を落としながら口を開く。

「この前、悪霊に襲われたときすごく怖かったんだ。本当に殺されてしまうんじゃないかって思って……。あの時は色んな人のおかげで僕は助かったけど……。それ以来考えるんだ。もし身近な人が同じ目にあったらどうしようって」

「!」

 トラゾーがその丸い目を大きく見開いた。

「人知の及ばない現象があるんだって知ったら、そのことがすごく怖くなっちゃって。

 それに僕、もう少ししたら合宿でしばらくみんなのそばを離れなきゃいけないから……。その間に事態が悪化して先輩や大学の友人が危ない目にあったら、僕すごく後悔するような気がするんだ。

 トラゾーの言う通り僕にはなんの力もないから、この考え自体が傲慢なのかもしれないけど、それでも……」

「……」

 トラゾーは僕の言葉を何も言わずに聞いていた。僕も押し黙る。

 自分と同じ目にあって知り合いが傷つくのが嫌だ。それが僕が周囲の事象に敏感になっている理由だった。あんなふうに怖い気持ちには誰にもなってほしくなかった。

「お前……それは……。ああ……そうか、そうだな。お前人間だもんな。そういう気持ちにもなっちまうか……」

 トラゾーはブツブツとつぶやくとテーブルに飛び乗って僕を視線を合わせてくる。

「悪かったよ。少し言い過ぎた。確かに不安になっちまうよな。でもな、お前自身が思ってる通り、お前にはそういう事態を解決する力はない。そういう力ってのは一朝一夕で身につくもんじゃないし、覚悟がなきゃ習わない方がいい」

「うん……」

 僕が頷くとトラゾーは前足を伸ばして額に肉球を押し当ててきた。

「だからその時は俺が力を貸してやるよ。場合によっちゃ時貞とか他の知り合いもだ。

 お前自身にはなんの力もないが、それができる知り合いはいるんだ。頼りゃいい。礼や敬意を忘れなきゃ、助けてくれるさ」

「トラゾー……」

 僕はトラゾーの瞳を見つめた。危ない時は自分が助けてやるとそう言ってくれているのだ。

「ありがとう……。助けてもらってもいいかな?」

「仕方ねえからなんとかしてやるよ。このもふもふでセクシーな俺がな」

 トラゾーはテーブルの上で後ろの足を大きく広げた。最近知ったのだがこれはトラゾーのセクシーポーズらしい。僕はくすりと笑う。

「とりあえず今までの話を時貞に話して相談するぞ。あいつまだこのあたりにいるはずだからな。お前がいない間は俺と時貞で様子を見ておく。20年前とは違って事態が収まらない可能性も十分にあるしな」

「じゃあ僕も合宿に行っている間は自由時間に連絡するよ」

「そうしろ。沙也加のスマフォにでも電話してこい。あいつも仕事ある時は難しいだろうが、部屋にいる間は出れるだろう。俺の方からもなにかあったら報告する。現状とれる対策はそれぐらいだろ」

 トラゾーはテーブルの上でひっくり返り、お腹を天井に向ける。

「まあこっちのことはあんまり気にせずちゃんと免許を取ってこいよ。車の運転ってのは結構集中力が必要なんだろ? 気がそぞろじゃ事故起こすぞ」

「そ、それはそうだね。なるべく考えないようにするよ……」

「あとはあんまり周りのことに敏感になりすぎるな。前にも言ったが、ちょっと気にしすぎだ。危険に気をつけるのはいいが、考えすぎてもそれはそれで疲れるからな。そこのバランスは上手くとっておけ」

「はい……」

 改めて僕は反省する。まあ幽霊や妖怪以外でも危険なことは生きていたら普通にあるのだから、気にしすぎるのも問題だ。僕はもう少し肩から力を抜いた方がよさそうだった。

「まあ免許取ったら気晴らしにドライブにでも行ったらいいんじゃないか。車でも借りてよ」

「いいね。トラゾーも一緒に行く?」

「助手席に乗って、窓から顔を出してみるか」

「それは危ないからやめてね……」

 僕たちはいつもの調子に戻る。さっきまでの張り詰めた空気が嘘のようだった。

 窓の外の夜空には星が瞬きはじめていた。

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