第30話 トラゾーお風呂に入る
「トラゾー、お風呂に入らない?」
「何だと……」
ある日の昼過ぎ。草太がそんなことを言ってきた。キャットタワーについたベッドの上でゴロゴロしていた俺は思わず上体を起こす。
「何で急にそんなこと言うんだ? お前も知ってると思うがにゃんこってのは体を濡れるのを嫌がるんだぞ」
「それは僕も知っているけど……。なんか最近トラゾー臭いよ?」
「何だと……」
この日2度目の青天の霹靂。俺は床に飛び降りて、ソファーに座る草太の足元に体を擦り付けるように徘徊する。
「いいか。にゃんこってのは汗をかかないんだよ。より正確に言えば肉球しか汗が出ないんだ。それににゃんこの狩りは待ち伏せがほとんどだ。だから汚れや匂いは毛づくろいで綺麗にして消すんだ。ほれどうだ。全然変な匂いなんかしないだろ」
「いや……なんか酸っぱい匂いがする……」
「何だと……」
俺は強い衝撃を受ける。俺を見下ろす草太の目は本気だ。馬鹿な……。本当に臭いっていうのか……? 俺はあまりのショックにその場にぐったりと倒れ伏す。
「な、なんでだ……。俺は室内飼いだから外にでも行って体を汚さない限り、匂うなんてことはないはずだ……」
「いや……よく外で歩いてない……?」
「そういえばそうだな……」
俺はゴロンと転がる。俺は壁や扉をすりぬけられるので、よく外出していた。この間も野良にゃんこの集会に出たばっかだ。そして足を汚くして草太に怒られたのだ。そういったことの積み重ねが俺の知らない内に体を臭くしていたのかもしれなかった。
草太は俺の両前足の下に腕を入れて自分の目線の高さまで持ち上げる。
「そういうことだからお風呂に入ろう。動物病院の先生にやり方は教わってきたから大丈夫」
「しょうがねえな。俺も身だしなみの整えられないだめにゃんことは思われたくないからな。いいぞ。お前に俺の体を洗わせてやろう」
「それはありがたき幸せ……」
馬鹿なやり取りをしてから、俺は風呂場へと連れてかれた。草太は風呂場に俺を下ろすと洗面器を取り出して、そこにお湯を入れていく。
そしてその中に猫用と書かれた容器からシャンプーを入れた。俺は顔を近づけて嗅ぐ。にゃんこの嫌がるような強い匂いはしないな。温度もあまり高くないようだ。ぬるま湯だ。
「じゃあトラゾー入れるよ」
「ゆっくりやれよ」
草太は俺を持ち上げて洗面器へと体をつけた。俺は4本の足で洗面器の中で立つ。う~ん、この毛の間をすり抜けて液体が肌を濡らす感覚がどうしても好きになれなかった。草太がいなかったら逃げ出していたところだ。
「大丈夫、トラゾー?」
「あんまり大丈夫じゃないから早く終わらせろ」
俺はぷるぷる震えながら言った。にゃんこの祖先は暑い砂漠に生息していた。昼間は暑く夜は冷たい。そんな環境で暮らすのに体に水滴がついていたら急激な温度変化に耐えられない。そのため祖先は体が濡れるのを嫌った。だからその子孫であるにゃんこたちにもそれが遺伝子レベルで受け継がれているのだ。本能と言ってもいい。たかだか600年生きただけでは祖先が長い時間を使って積み上げてきた危険からの守備本能を超えることはできなかった。
草太は手ですくったお湯で俺の体を濡らしていく。俺は死ぬ気で我慢した。少しぐらい大丈夫だろうと思っていたが舐めていた。この全身がずぶ濡れになる感覚は嫌いだ。
「じゃあ洗っていくよ」
草太は宣言すると俺の背中から洗っていく。毛並みに逆らうように下から上に手のひらで包み込むように洗っていく。俺の大事な毛並みが! あとで毛づくろいが大変そうだ。
次に草太は俺の腹へと手を伸ばす。今度は逆に上から下に汚れを落としていくように手を動かす。
このへんで俺はおや?っと思った。なんというかそこまで嫌ではない。相変わらず体が水に濡れるのは嫌なのだが、体を洗われるのはその逆だ。少し、気持ちがいい。草太の手のひらを使った優しいマッサージのようなやり方は全身の緊張がほぐれてかなり良いぞ。
腹を終わらせた草太は足や尻尾も洗っていく。やはりその手つきは体のこりや疲れをとるような動かし方だった。俺はもう体が濡れる嫌悪感のことなど忘れ、草太の手から伝わってくる気持ちよさに身を委ねていた。
「最後に顔を濡れタオルで拭くけどいい?」
「全身びしょびしょなんだから今さら一緒だ」
草太がそう尋ねてきたが俺は上機嫌で返す。……顔を濡らされるのはまだちょっと嫌いだな。
「よしじゃあ泡を流すよ」
草太は俺を洗面器から風呂場の床へと下ろした。そしてシャワーノズルを持って蛇口をひねる。お湯が出るが、その勢いは弱いものだ。
そして草太はノズルを俺の体につけて、上から下にお湯を流していく。ぬるいお湯が毛を伝って流れていく。これもこれで気持ちいいな。ゆるいお湯の勢いが疲れを押し流していく。人間で言うヘッドスパみたいだ。うん、これは悪くない。
「よしこんなもんかな……」
草太はそう言ってお湯を止める。俺はブルルッと体を震わせる。
「うわっ! 水がすごい飛んできた」
「本能なんでな」
そう言いながらなんの気なしに鏡を見るとそこには濡れそぼった1匹のにゃんこがいた。俺はこの日何度か目の衝撃を受ける。そこには普段のもふもふでセクシーな姿はない。道に迷った子にゃんこのような頼りなさしか鏡には映っていなかった。
「おい、なんかえらくみすぼらしくなっちまったんだがもとに戻るのか」
「戻ると思うよ。次は体を拭くからじっとして」
草太は大量のタオルを出した。そのタオルで俺の体を拭いていく。しっかりと水分をとって、それでいてやはり優しくマッサージするように動かしていく。タオルが濡れてしまったら、新しいタオルを使ってまた拭いていく。
「水気はなくなったね。次はドライヤー」
草太は俺をまた抱っこして洗面所から出た。普段使っているドライヤーをコンセントに差してスイッチを入れる。低い音が響き、熱い風が出る。
草太は風に手を当てて熱さと勢いを確かめる。そしてしゃがんで床で立っている俺に風を当ててくる。
体から20cmほど離れたところから吹く風はそこまで熱くない。にゃんこの平均体温と同じぐらいか。湿度も低くできるようで、乾いた風が俺の体にまだ残っていた水分を飛ばしていく。低温低湿の風が体を吹き抜けていく。湿っていた体が乾いていくこの感覚、悪くない。
「よし! 完全に乾いたね」
草太がドライヤーを止める。実際もう体に水気は感じない。体を震わせてみせるが水滴は飛ばなかった。
「仕上げにブラッシングだ」
最後にいつも使っているお気に入りのブラシで毛並みを整えていく。それが終わると草太は手鏡を向けてくる。
「こんなんでどうかな」
俺の体は劇的ビフォーアフターを遂げていた。毛艶は光り輝き、風で膨らんだ体毛はブラッシングされることで普段よりもふっくらとしていた。もふもふさもセクシーさも3割増しと言ったところだ。
「おお、いいじゃないか。前よりも男前になった気がする。」
「それは良かった。変な匂いも取れたし一件落着だ」
足や手を拭いた草太と部屋に戻った俺は草太のベッドの上で丸くなる。体がポカポカしているせいかなんだか眠い。日差しも最近ようやくいい塩梅の強さになってきた。体を包む陽だまりのような暖かさに俺は体を回転させる。
「まあたまには風呂もいいかもな」
俺は多幸感の中で喉を鳴らしながらそう呟くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます