第22話 魂は昇る(4)

「それじゃあじいちゃんとばあちゃんは墓参りに行ってくるでの。ちゃんと休むなきゃいかんぞ」

「急に具合が悪くなるなんて、やっぱり昨日雨にうたれたのが良くなかったのかしらね」

 靴を履いたおじいちゃんとおばあちゃんが僕を心配そうに見てくる。対し、廊下に立つ僕は曖昧に笑う。

「うん。そうかも。今日は1日寝てるから山魂祭も見に行けそうにないや」

「そりゃ残念じゃ。まあ来年もあるでの。お父さんとお母さんには2人で草太のこと伝えておくから安心せいよ。にゃん吉、草太のこと頼んだぞ」

 じいちゃんが僕の足元に視線を向ける。僕にピッタリと寄り添うトラゾーは大きなあくびをしてから「ウニャン」と鳴いた。

「おばあちゃんも夜はお祭りの片付けの手伝いに行っちゃうけど、ご飯は作っておくから食べてね」

「うん。分かった。じゃあ行ってらっしゃい」

 2人は玄関から出ていった。車のエンジンがかかる音がして、道へと出ていく。僕はそれを見送ってからふうと息を吐く。

「トラゾー、2人は大丈夫だよね。襲われたりしないよね」

 僕がその場でしゃがむとトラゾーはナイフみたいに鋭い視線を向けてきた。

「狙われてるのはお前だけだから、あっちを襲うなんてことはない。さ、広間に戻るぞ。こっちよりはあっちのほうが安全だ」

 トラゾーはもう一度あくびをしてから広間の方へと歩いていく。僕も慌ててあとを追いかけた。


「お前! そりゃ完全に悪霊だ!」

 昨日の夕方。図書館で遭遇した男の話をし終えるとトラゾーは牙を向き出しにして大きく叫んだ。その声の大きさに僕は慌ててあたりを見回す。

「声が大きいよ! じいちゃんに聞こえる! ……悪霊? 今、悪霊って言った?」

「そうだよ! お前、このままじゃヤバいぞ! そいつに連れてかれるぞ!」

 つられて声が大きくなる僕にトラゾーはうにゃーっ!と吠える。

「連れて行かれるってどこに?」

「あの世に決まってんだろ! お前を殺してあっちの世界に引きずり込むつもりなんだよ!」

 それを聞いて僕は青ざめる。ようやく事の重大さに気づいた僕は体を前のめりにしてトラゾーの前に顔を突き出す。

「なんで!? 僕、なんか悪い事した!?」

「返事をしちまったからだよ! それで了承を得たと思っちまったんだよ!」

「そ、それだけ? それだけの理由で……?」

「馬鹿! お前民俗学やってるんだろ! 死者の呼びかけに答えてさらわれるなんて話、どこにでもあるだろうが! そもそもそんな怪しいやつと話そうとするな! 明らかに不審者だろうが! 子供だってわかるぞ!」

 怒鳴られて僕は肩をすくめる。それを言われると何も言い返せない。

「でも、どうして僕なんだ? 口ぶりからして前から僕のこと知ってる感じだった……」

「そりゃお前が精神的に不安定だったからだ」

 僕は畳の上であぐらをかき、腕を組んで唸った。そんな僕に対しトラゾーは目を細める。

「人間ってのは精神的に追い詰められたり、傷ついたりすると、肉体と魂のバランスが崩れるんだ。その不安定な状態と発せられる負の念につられて、悪い霊や魂が集まりやすくなる。お前はかなり悩んでいたから、そこに付け込まれたんだろうよ」

「そんな……。じゃあ僕こっちに来てからずっと狙われていたってこと……?」

 体中に悪寒が走る。あの貼り付けたような笑顔がずっと僕のことを見ていたのかと思うとゾッとする。

「山魂祭の時か、昨日あちこちほっつき歩いている時か。いつ頃からは分からん。……ああ、しかし臭い。本当に臭いぞ、お前」

 トラゾーは僕の周りを歩き回ってクンクンと体の匂いを嗅ぐ。そのたびにフレーメン反応を示す。

「そんなに臭いの……?」

「ああ、臭い。俺の知り合いの妖怪100人に聞いたら100人が臭いって言うだろうな」

「そんなに……!」

 僕の反応をよそにトラゾーは舌打ちする。

「クソ。こんなに穢れた匂いは俺も生まれて初めてだ。数年放置した程度ってレベルじゃないぞ。何十年、何百年って長い時間をかけて腐ってきた魂の匂いだ。何が魂を導く山の神だ。ちゃんと仕事しやがれ!」

 そう言ってその場にドスンと横になってしまう。苛立ちを表すように尻尾がペチペチと畳を叩く。ここまで焦ったトラゾーの姿は見たことがなかった。その姿から状況はかなり切迫しているのだということを改めて理解させられる。

「トラゾー、僕はどうすればいい?」

 僕が不安な感情を隠さずに尋ねると、少し間をおいてからトラゾーは口を開いた。

「……今のお前は完全に取り憑かれたってわけじゃない。匂いを付けられてるだけだ。マーキングってやつだな。だが匂いがついている限りはお前をどこまでも追ってくるはずだ」

 トラゾーはゴロンと転がって天井を見上げた。

「こういう奴は祓っちまうのが1番だが、俺にはそれができない。知り合いにそういうことができる奴はいるが、あちこち飛び回っていて連絡を取るのが難しい。だからもう手段は1つしかない」

 トラゾーは立ち上がって僕を見る。

「今日から送り盆の翌朝までお前はこの家から一歩も出るな。そして送り盆の晩は例の迷信通りにするんだ」

「山には入らない。夜出歩かない。家の出入り口を全部塞ぐ……」

「そうだ。これは俺の推測でしかないが、昔に今のお前みたいに悪霊に狙われて取り殺された奴がいたんだろう。だからそれを防ぐためにそういう風習が生まれたんだ」

 ありえる話だった。不幸な出来事や事故の再発を防ぐための対策が、文明の発展とともに形骸化し、因習や迷信として現代に伝わるという話は民俗学を学んでいるとたくさん出てくる。そのすべてが霊の祟りを発端にしているわけではないだろうが。

「だから多少の効果はあるはずだ。お前が姿を見せず、ずっと隠れ続けていれば連れて行くのを諦めて去るだろう」

「ならどうしよう。今日の夜から全部閉める?」

「それはだめだ。1軒だけそんなことしている家があったら逆に目立って目を付けられる。ああ、それに強力な悪霊だ。戸締まりをするだけじゃだめだ。他にもいくつか策をこうじなければならん……」

 トラゾーはぐるぐる唸りながら広間の中を歩き回る。対策を必死に考えているのだろう。僕は固唾を飲んで見守る。

「よし、草太。万が一のために俺がお前にずっとついていてやる。そうすれば襲われても対処される」

「それってトイレとかお風呂とか寝る時とかも?」

「そうだ。お前の行くところには俺も必ず行くからな」

 トラゾーは目を細めた。

「それ以外にもいくつか方法を考えてある。お前も手伝えよ。自分の命を守るためなんだ。嫌とは言うなよ」

 そう睨んでくるトラゾーに僕は静かに頷いた。


「まあ昨晩は何もなかった。今日の夜が正念場だな」

 そして現在。広間に戻ってきたトラゾーは伸びをしながら言う。

「2人がほぼ1日中外にいるのも好都合だ。俺もこっちの姿でいられる」

 トラゾーはいつもの普通のニャンコではなく化けにゃんこの姿になっていた。分かれた尻尾がゆらゆら揺れて2つの人魂が宙に浮いている。

「おじいちゃんとおばあちゃんには嘘ついて、なんだか申し訳ないけどね」

 僕はトラゾーの前に腰を下ろした。具合が悪いというのは2人を巻き込まないための嘘だ。2人と外に出て悪霊に襲われたら目も当てられない。その為、体調不良だと嘘をつきおじいちゃんとおばあちゃんを僕から引き離した。午前中は墓参り。午後は山魂祭の準備と後片付け。トラゾーの言う通り2人が家の外に用事があったことも運が良かった。そうじゃなかったら2人は僕を心配してそばにいただろう。嘘をついたことも申し訳ない気もちだが、2人のためだと思って、今は罪悪感を押し殺す。

「まあ仕方ないだろ。全部喋っちまうわけにもいかないしな。

 昼間だからって油断すんなよ。幽霊の得意な時間帯は夜だが、明るい時間にも普通に活動しているからな。まあ俺がいるから大丈夫だと思うが……」

 トラゾーは大きなあくびをする。さっきからトラゾーはとても眠そうだった。その様子に僕は少し心配になる。

「トラゾー、本当に大丈夫? 昨日の夜から寝てないんだよね。今ぐらいはちょっとお昼寝しても……」

「馬鹿。1晩寝ないだけで倒れたりとかしないわ。お前は自分の心配だけしてろ」

 トラゾーは足で顎の下をかきながら言った。寝るのが大好きなトラゾーが睡眠を取らずに僕を守ってくれていることに申し訳無さを感じてしまう。

「ごめん、トラゾー。僕のせいで……」

「本当だぞ。お前、変なのに目を付けられやがって。これが終わったら色々要求するからな。おやつとかおもちゃとか俺の欲しいもの買ってもらうぞ」

「うん、お金の余裕のある範囲でなら買ってあげる」

 命を守ってもらっているのだから、それぐらいの恩は返すべきだった。僕が了承するとトラゾーは嬉しそうに言う。

「よし、言質は取ったぞ。その約束を破ったら俺の抜け毛を1000本飲ませるからな。

 それで俺が言っといた物は集めたか」

「ああ、うん。これだけど」

 僕は家中から集めてきた様々な物品を畳の上に広げた。

「これで何か作るってことかな。御札とか……」

「その通りだ。察しが良いな。今晩は戸締まりだけじゃだめだ。送り盆だからな。強引に連れて行こうとするはずだ。だから悪霊が家に入ってこないように色々やっておくんだ。これから俺が作り方を教えてやるから手順通りにやれよ。そうしないと効力を発現しないからな」

 トラゾーは前足で顔を擦る。

「気合入れろよ。さっきも言ったが今夜が正念場だ。悪霊を追い払うぞ」


(ああは言ったがやっぱり眠くはなるんだよな)

 俺は草太の足元で歩きながらもう何度目になるか分からないあくびをした。

 準備をしている内に夜になってしまった。くだんの迷信の事もあってか、明るい内に提灯を返しに行くことになっていたそうで、じいちゃんとばあちゃんは夜の6時頃には帰ってきた。

 2人がメシを食って寝る準備をしたあと、全員で家の戸締まりをする。本当に出入り口という出入り口を塞ぐようでとにかく徹底的だった。草太と家の中を回っている最中に見えたが、隣家も戸や窓を閉め切っていた。家の光が見えずしんと静まり返ったそのさまは俺でもどこか不気味に思えた。

 じいちゃんとばあちゃんが寝たのを見計らって俺と草太は行動を開始した。昼間の内に作っておいた盛り塩や御札を家中の出入り口に置きに回った。皿に乗せた盛り塩を入口の外側と内側に置く。御札は五芒星を書いたよくあるもの。線がちゃんと引っ付くように書かせた。あのマークは穢れたものを入ってこれないようにする力もあるからな。その一部分に隙間があると効き目が薄れる。それを扉や戸の内側に貼る。

「これで入ってこれないのかな」

 すべての作業を終えて広間に戻る中、草太が不安をにじませた声で言った。家の電気は広間以外は消えているため懐中電灯をつけて廊下を歩いている。

「正直言うと未知数だ。手慰みみたいなもんだからな。それでも多少の効果はあるはずだが……」

「そっか……」

 草太はゴクリと喉を鳴らした。命を狙われているわけだからな。緊張しても仕方あるまい。それにこいつ自身にあまり落ち度はないからな。昨日は色々言っちまったが、家族のことで悩むのは人間としては当然だろう。そこにつけ込んでくるやつのほうが遥かに問題だ。

「トラゾー今晩も、その……」

「そんな心配そうな顔すんな。いざって時は髭からビーム撃って追っ払ってやる」

 申し訳無さそうな顔をする草太に俺は明るく言ってやる。が、内心は俺も不安でいっぱいだった。これが妖怪同士の喧嘩なら生きた年月の長い方が強いので心配はない。だが増幅された人間の恨みつらみというのはそんなもの簡単にひっくり返す。草太の体についた残り香ですら鼻がねじ曲がりそうなほどの穢れを持っていたのだ。はっきり言うが正面から戦ったら俺でも勝てん。向こうが諦めてくれるのを祈るしかない。

「トラゾーさん」

「うおっ」

 廊下の隅にわだかまった闇の中からハチが顔を出した。相変わらず神出鬼没なやつだ。俺は少しジャンプしてしまった。

「ハチか。そんなところから顔出すなよ」

「すみません。閉められる前には中にいたんですけど……。それよりも大変なことになっているみたいですね……」

 ハチはのっそりと闇から出てくる。

「ああもうめっちゃ大変だ。そういえばお前、昨日から姿が見えなかったがどこ行ってたんだ?」

「……実はボンがえらい目にあってるって知って、私お山の神様にお願いしに行ってたんです」

 こいつそこまで……。俺は感嘆した。飼い主のために神に守ってくれるよう嘆願しに行くなんてこいつ聖にゃんか?

「そうだったのか……。でもあの山の神、適当だぞ。そいつがちゃんと魂をあの世に連れて行っていればこんなことにはなってないんだからな。ご利益があるかどうかわからんぞ」

「……あはは、これは手厳しい。でも私がお願いしたのはまた別のことなので……」

 ハチはそうやって笑う。そうなのか。じゃあ何を願ったんだろうな。草太に関することであることはは確かだろうが。

「トラゾーさん。、今日は私も一緒にボンを守ります」

「お前……、気持ちはありがたいが危険だぞ。化けにゃんこの俺ですらヤバイって思ってんだ。普通のにゃんこにゃ荷が勝ちすぎてる」

「分かってます。けど、今の私はボンを守るためにここに戻ってきたんです。力になんてなれないかもしれないけど、少しでも近くにいてなにかしてあげたいんです!」

 ハチ、お前……。俺はもう何も言えなかった。こいつは飼いにゃんこ界のレジェンドだ。もう断る理由なんてない。こいつのこの勇気がもしかしたら悪霊を追い払ってくれるかもだ。

「そこまで言うなら力を貸してくれ。俺とお前で広間の反対側の出入り口を見張るんだ。一定の時間が経ったら互いに呼びかけて交代だ。何か異変があったらすぐに声を出す。いいな?」

「はい! 私たち2匹で必ずボンを守りましょうね!」

「もちろんだ」

 俺とハチは熱い友情を交わし合う。俺たちは最強の2匹だ。悪霊だろうがなんだろうがどんとこいだ。

「……? トラゾー何してるの?」

 少し先に行った草太が懐中電灯をこちらに向けてくる。俺とハチは並んで草太のもとへと急ぐ。

 しかし……。草太よ。ハチだっているんだからそっちにも何か反応してやれよ。俺はハチが不憫でならなかった。

 俺たちは広間の4面の入口もすべて閉じる。縁側と廊下側の障子戸。別の部屋へと繋がる襖。その外側と内側にも盛り塩を置き、御札も貼る。最後の砦として布団の4隅にも盛り塩を置いておいた。

「よし、これで最後だ。草太今日は早く寝ろ」

「そうするよ」

 草太は布団に入る前に両親の遺影に手を合わせていた。もう両親の魂は山の中だろうが、それでもそうしたい気持は良くわかった。ハチもそんな草太の姿に思うことがあるのか、何も言わずにその後ろ姿をじっと見ていた。

「じゃあ消すね」

 そう言って草太が電気を消すと広間は暗闇に包まれた。唯一の明かりは縁側の方から障子をすり抜けてくる月の光だけだ。俺は縁側に、ハチは廊下側に配置に付き見張りを開始する。草太の寝息が背後から聞こえてくる。

 これまでのにゃん生で1番長い夜が始まった。


「うん……?」

 何か物音を感じ取って僕の意識はゆっくりと浮上した。目を開くと薄暗い広間の風景が映る。目を擦りながら視線を動かすと、頭のすぐ横にトラゾーの姿が見えた。

 トラゾーの横顔は今まで見たことのない怒りの形相だった。二又の尻尾は真っ直ぐに立ち、人魂は激しく宙を動き回る。キジトラ柄の毛並みは鋭く逆立っていた。ほとばしる殺気が頭の奥に残っていた眠気を吹き飛ばす。トラゾーは鋭い歯をむき出しにしてある一点を見つめ何度も威嚇する。一体何が……。トラゾーの視線を追って頭を動かした僕は――呼吸が止まりそうになった。

 縁側の障子に人影が浮かび上がっていた。月の光を逆光にした何者かの影が障子に写っている。その人影はまるで人形のようにピクリとも動かない。

「何があっても絶対に声を出すなよ」

 トラゾーが小声で言った。僕はこくこくと頷く。

「ねえ、いますよねえ。中にいますよねえ」

 障子戸の前に立つ人物が喋った。僕は悲鳴を上げそうになる口を両手で必死に抑えなければいけなかった。……図書館にいたあの男の声だ。

「返事は絶対にするな。入っていいって判断して強引に来るぞ」

 トラゾーはそれだけ言うと障子戸の前に立った。悪霊に立ち向かい、僕をかばうその姿に強い安心感を覚える。

「迎えに来たんですよお。あなたを追いかけてようやく見つけてここにいるんですよお。行きましょうよお。逝きましょうよお。生きてたって意味ないよお。何もないよお。笑いましょうよお。笑いましょうよお。私があなたの顔をぐちゃぐちゃにしますからあ。まがっちゃったねえ。まがっちゃったねえ。まがあっちゃったねえ。まがあれ。まがあれ。あっちゃったんだからあ」

 障子戸の向こうから間延びした声が聞こえてくる。その声はまるで機械で再生しているかのような抑揚のないイントネーションだった。意味不明な言葉の羅列に僕の体が金縛りにあったかのように動かなくなる。喋っている間も人影は動かなかった。ウナオーン!とトラゾーが強く威嚇する。

「こないんですかあ。こないんですかあ。分かりましたあ」

 すると人影は諦めたように言った。そして流れるように動き出し、その姿を消した。

 諦めてくれた? ほっと胸をなでおろした次の瞬間。

 突如として障子戸と襖がガタガタと激しく揺れだした。やがてバンバンと外側から何かが叩く音が混じり始め、さらに強烈な勢いになる。

「まがっちゃったねえ! まがっちゃったねえ! 私はあなたをまがっちゃったんだからだめだねえ! まがっちゃったねえ! まがっちゃったねえ!まがっちゃったねえ! まがっちゃったねえ! まがっちゃったあ! まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!」

 悪霊の声が全方位から聞こえてくる。その呪詛が加速していくたびに叩く勢いと揺れは大きくなっていった。いやもはや出入り口だけではない。僕の見上げる天井も、広間の壁も、床に敷かれた畳ですら強く叩かれ、激しく揺れていた。家中が震えている――!

 まがっちゃったあ!まがっちゃったあ!まがっちゃったあ! 叫びと振動が奇妙に鳴り響く中、僕は見てしまう。貼られた御札が力なく剥がれ落ち、盛り塩がブスブスと煙を上げ黒く変色しているのを。「草太! 布団の中に隠れてろ!」

 トラゾーの焦った叫びに僕は頭から布団を被った。それとほぼ同時にバアンッ!と何かが弾け飛ぶような音。ウニャオアァァンッ!というトラゾーのの鳴き声。布団をかぶっていても分かるほどの強い光。静寂と暗闇。それらの事象が一瞬の間に起こり、広間は静けさを取り戻した。

(何だ……? どうなったんだ……?)

 僕は布団の中で震える。全身からは汗が吹き出し、歯はガチガチと音を鳴らす。心臓は早鐘のように脈打つ。

 どうして音がしないんだ。悪霊は去ったのか? ならなぜトラゾーは何も言ってこないのだ? トラゾーは無事なのか? 僕はパニック状態になる。

 見るなのタブーという伝承・説話の類型がある。民話では禁室型とも言われるこれは、何かをしているところを見てはいけないのにそれを破ってしまい悲劇に見舞われたり、決して見てはいけないと言われたものを見て恐ろしい目に合うということほとんどだ。

 今の僕はまさしくそれだった。どうして見てはいけないのに見てしまうのか、小さい頃は疑問に思っていたが今ならその理由も分かる。

 怖いのだ。本当に恐怖は去ったのか? 危険はもうないのか? それがわからないから直接見て確認しようとする。一時の安心を得るために行動を取ってしまう。それが自身の破滅を招くとも知らずに。

 そして今まさに僕はその誘惑に負け、恐る恐る布団を持ち上げていた。一瞬確めるだけだ。そう言い訳をして数cmほどの隙間から僕は外の様子を見る。

「いたあ」

 満面の笑顔。

 僕の意識はそこで途切れた。


「…ゾーさん。トラ…さん。トラゾーさん!」

 俺は誰かが自分を呼ぶ声と頬に当たる冷たい感触で目を覚ました。

「良かった! 無事ですね!」

「ハチ……」

 目の前には心配そうな顔をしたハチがいた。どうやら気を失っていたらしい。俺は頭を振って重い体を立ち上がらせる。あたりはまだ夜の暗闇に包まれている。

 広間は酷い有り様になっていた。障子や襖は外れて外から吹き飛ばされたかのように内側に倒されている。棚は倒れて全ての引き出しが開き、中の物が散乱していた。唯一仏壇と遺影は無事だったがそれだけだ。まるで嵐が通り過ぎたかのような光景に俺はしばらく絶句する。

 そして布団の中にいるはずの草太は忽然と姿を消していた。

「おい、草太はどうした!」

「それが私が起きたときにはもう……」

 俺はグルルと唸る。悪霊が入ってきた時、俺はすぐさま迎え撃った。髭からビームを発射したが、奴はピンピンしていた。悪霊の穢れは想像以上だった。ただそこにいるだけで周囲を腐らせてしまうほどの凄まじい怨念だった。それにあてられた俺は一瞬で意識を失い倒れてしまった。今も胃の中の物が逆流してしまいそうな気持ちの悪さが残っている。600年生きてきた化けにゃんこである俺の魂すら侵すとは。あの悪霊は文字通りの化け物だ。御札は引き裂かれ、塩は真っ黒く変色している。奴の前ではこんな物は藁の楯にすらならなかったらしい。

「すみません。私一目見ただけで気を失ってしまいました……。ボンを守るって決めたのに……!」

 ハチは悔しそうに俯く。俺ですら耐えられなかったのだ。ハチを責めることなどできない。

「トラゾーさん、ボンはどこに連れて行かれたんでしょうか? まさかもう殺されてしまったなんてことは……!」

 ハチが最悪の想像をして顔を青ざめさせる。ようやく冷静さを取り戻してきた俺の脳みそは冷静に思考を回転させる。

「いや、まだ殺されてはいないはずだ。魂を奪うならこの場所でやればいい。それなのに奴はそうせずどこかに草太を連れ去っている。おそらくそこで草太をあの世へ引きずり込む気なんだろう………」

 そしてその場所は1つしかない。ハチもそれに気づき声を上げた。

「山神様のお山ですか!?」

「ああ、今あそこはあの世への道が開いてる。あいつはあそこで草太をあっちの世界に引きずり込む気なんだ。早く追いかけないと間に合わなくなる……!」

 もう山に立ち入ってはいけないとか言っている場合ではない。かなり危険だが草太を助けるために行かなければならない。

「トラゾーさん。私はこの家に残ります。まだ夜です。別の霊や魂が迷い込んでくるかもしれません。誰かがこの家を守らなきゃいけません」

「ああ、それは任せた。俺は草太を追う!」

 俺はその場から走り出す。めちゃくちゃになった広間と縁側を駆け抜け、俺は庭の上空へと飛び上がる。化けにゃんこの力なら空を飛ぶぐらいは余裕だ。

「トラゾーさん! ボンのこと……、ボンのこと必ず助けてください! よろしくお願いします!」

「ああ、分かってる! こっちは頼んだぞ!」

 縁側まで出てきたハチに俺は空中から声を投げかけた。そして身を翻し、山魂祭の行われた山へ一直線に飛ぶ。

 頼む、間に合ってくれ。無事でいてくれ。

 俺は激しい焦燥にかられながら、空を突き進んでいった。


 


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