第21話 魂は昇る(3)

「また出かけるのか」

送り盆の前日。味のしなくなってしまった昼食を食べてから、玄関で靴を履いてると、廊下の奥からトラゾーが歩いてきた。

「……うん、ちょっとね」

 なんとなくトラゾーと顔を合わせづらくて、僕は靴紐を結びながら曖昧な返事をした。

「悩んでいるのは両親のことか」

 投げかけられたその言葉に、僕は顔を上げて振り向く。そこにはちょこんと座ったトラゾーが、僕を見すえていた。

「仲直りできなかったことと我儘言って家を出るのを遅らせたから事故にあったのかもしれないって前から思ってたんだろ。今まではそんなに気にしなかったが、俺の言葉でもしかしたら両親は自分のことを恨んでいるのかもしれないって考えるようになった……。それで悩んでる。そんなことか」

 ゆるゆると体から力が抜けていった。トラゾーには両親のことはほとんど喋っていないはずだ。それなのにどうして僕の考えている事がわかるんだろう。600年も生きていればなんでもお見通しになってしまうのだろうか。

 隠しても無駄だと悟った僕は乾いた唇を舐めてから震える声で言う。

「トラゾーはどう思う。父さんと母さんは僕のこと恨んでると思う……?」

「……はっきりとしたことは言えん。死者の気もちなんて流石に俺でも分からんからな

 ただそれでもあえて言うなら、恨んでなんかないんじゃないか」

 トラゾーは一度言葉を切ってから続ける。

「事故を起こしたのは酒飲んで車運転してた馬鹿なガキどもだろ。恨むんだったら普通そっちだろ。少し喧嘩しただけの子供を恨んだりなんかするかよ」

 トラゾーの見解は驚くほどすとんと胸に落ちた。たしかにそっちの方が筋が通っている。それと同時に、そんな簡単なことにも気付けないほど視野が狭まっていたのだと気づく。

 でもそれは……。新たに胸に湧く感情もトラゾーは見抜く。

「どうせ今度は両親はそんなふうに誰かを恨む人じゃないって思ってんだろ。なら少なくともお前の中ではそういう両親だってことだ。そういうふうに思ってくれる実の子供を、親が祟ったり逆恨みなんかするもんか」

 話は終わりだと言わんばかりにトラゾーは耳の裏を後ろ足でかく。

 なんだか僕は急に馬鹿らしくなってきた。どうして僕はあんなに優しかった両親に恨まれているなんて思っていたのだろう。他者に憎しみを抱くような人じゃないと僕が思うのは、両親がそういう姿を見せなかったからだ。ならやっぱり父と母はそんな人ではない。一緒にいられたのは短い時間だったけど、たくさんの愛情を注いでくれた人たちだったのだから。だから、きっと僕を嫌いになったりなんかしていない。そう思いたい。そう信じる。

「ありがとう。トラゾー。なんか体が軽くなった気がする」

「そうか? ならいい。ついでにもう1つ話をしておいてやる。この前の魂と霊の話だ」

 トラゾーは体を伸ばしてから続ける。

「魂と霊ってのは普通の人間には見えないし触れない。これは話したよな」

「そういえば電車でそんなことを言ってたような……」

「お前、その時から心ここにあらずだったのかよ。まあいい。それでな、死者の魂ってのは基本生きてるやつに干渉できない。それができるのは生前によほど強い感情を持っていたやつだけだ。

 つまり何がいいたいかと言うとだな。生者と死者はお互いに干渉はできないんだよ。同じ空間にいても交わることはない。だから一方通行の感情のやり取りをするしかないんだ。生きてるやつは死後の安寧を願うしかないし、死んでるやつは今そこにある命を見守るしかない。

 だからな。お前が父ちゃんと母ちゃんのことを好きなら、悩んで苦しんでるばっかじゃなくて、安心してもう大丈夫だって思えるようなところを見せてやれ。それが今ここで生きているお前のやらなきゃいけないことだ。俺の言いたいことはこれだけだ。」

 トラゾーの言葉を聞いて胸の中に渦巻いていた感情がほどけていくのを感じた。僕は死んだ人が自分をどう思っているのか分からないから、あれだけ悩んでいた。けれどそれは死者の魂も同じなのかもしれない。生き残った大切な人が苦しんでいるのを見て、何もできないでいるのはとても辛いことのはずだ。双方が不幸な状態。生き別れるとはそういうことなのだ。

 だからこそ生きている側は悲しみを乗り越えて立派な人間になる必要があるのだろう。それが死者の鎮魂の一番いい方法のはずだ。だから僕は両親に頑張っている姿を見せなければいけない。僕はそう心に決める。

「トラゾー、心配させてごめんね」

「まったくだ。顔も合わせない。メシも出さない。1人で思い詰めやがって。それにまだ完全に心のしこりが消えたってわけじゃないんだろう」

「うん……」

 僕は正直に頷く。悩みはほとんど消えたが最初に戻っただけだ。仲直りできなかった後悔はまだあるし、僕のせいで事故にあったのではないかという疑念は完全に消えていない。

「俺は言いたいことは言った。だから今度はお前の方から言ってこい。悩んでること、迷ってることがあったら話ぐらいは聞いてやるよ。飼いにゃんことしてな」

 辛いことがあったら抱え込まずにちゃんと話せ。トラゾーはそう言っている。

「分かった。今度からはそうするよ」

「そうか。理解したならいい。俺は別にいいが、じいちゃんとばあちゃんはあんまり心配させるなよ」

 おじいちゃんとおばあちゃんも僕の異変には気づいて不安に思っているはずだ。僕の思っていること含めて、ちゃんと話をしたほうがいいかもしれない。僕はそう考える。

「じゃあ俺は寝る。お前はどうする。結局出かけんのか?」

「うん。高橋先輩に山魂祭の資料を渡してあげたいからちょっと資料を調べてくるよ」

「そうか。なんか夕立ちが来るって言っていたからなるべく早く帰ってこいよ」

 最後にそれだけ言ってトラゾーは廊下の奥へと消えていった。僕はそれを見送ってから靴を履き外に出る。

 昨日よりも足取りは軽かった。


 おじいちゃんから借りた自転車で僕が向かうのはT市の小さな図書館だ。自転車を漕いで15分ほど、周りを木に囲まれた建物が見えてくる。

 ガラス張りのドアを開けるとカウンターで作業をしていた司書が顔を上げた。僕が小さく会釈するとすぐに手元に視線を戻す。僕は入口の近くに設置されていた資料検索用のパソコンの前に立つ。あちこち傷の付いた古い型式のパソコンに山魂祭と入力すると、関連する文献の名前とその場所が一覧として表示される。僕は近くにおいてあったメモにそれを書き写して探しに行く。

 小さく蔵書の少ない図書館だからか、1つの書棚ごとにカテゴリーが分かれていた。僕は早速1冊目のある棚のある段を見る。

「ん……?」

 あいうえお順に並んでいる背表紙を追っていくと本来文献のある場所には1冊分のスペースが空いていた。

 表示された一覧は貸し出しの状態が分かるようになっていたが、どの本も貸されていないはずだ。おかしい。僕は首をひねりながら仕方なく次を探す。

 僕はそれと同じことを何度も繰り返した。あるはずの文献は見つからず、あったのは1冊の風土記だけだ。どうなっているんだ? 山魂祭の事が書かれた資料がすべてなくなっているなんて、明らかに普通ではない。まるで誰かが隠してしまったみたいだ。

 それでも僕は唯一の収穫である風土記をテーブルの上で開いた。目次を見て山魂祭の記載があるページを開こうとする。

「あれ?」

 ページ数を見ながらめくっていくと急に数字が飛んだ。よく間を見てみると紙を乱雑にちぎったようなあとがあった。誰かが山魂祭のページだけ破ったのだ。

 僕はいよいよ薄気味の悪さを感じた。なぜ山魂祭の情報だけがなくなっているんだ? イタズラにしては手が込みすぎている。まさか盗まれたのか? だとしたらそもそもなんのためにそんなことを? どれだけ考えても答えは出ない。

 僕はこのことを司書に報告することにした。もし泥棒だったら大変だし、蔵書の一部が損壊されているのである。対応を求めた方がいい。僕はそう思い。立ち上がって――

「それで良いんですよお」

 男と目があった。

 いつの間にか僕のすぐ隣に男が立っていた。中年の男だ。薄汚れた服を着て、直立不動で立っている。その姿はあまりに奇妙だ。

 男はニコニコと僕に笑みを向けていた。なんだこの男は? いつの間にこんなに近づいたんだ? 僕はあまりに異様な状況に半歩退く。

 男は笑いながら唇を開いた。

「良いんですよお。あなたに見せないように隠したんです。だからそれで良いんですよお」

「は……?」

 僕は呆けた声を出す。山魂祭の資料が消えたのはこの男の仕業……? 僕はうまく状況が飲み込めず、思わず言葉を発してしまう。

「あなたがやったんですか?」

 すると。

 男の表情が固まった。笑顔はそのままに顔が一切動かなくなった。瞬間、僕は何かやってはいけないことをしたのだと本能的に理解する。

 突如男の口角が上がった。まるでなにかに引き伸ばされるように、耳の辺りまで上がっていく。明らかに人間じゃない。僕の背筋を冷たい汗が一筋流れる。

「まがっちゃったねえ! まがっちゃったねえ! 連れてこうねえ! 一緒に行こうねえ!」

 突如男は叫んだ。金属がこすれるような大きな声だ。僕は思わず耳を塞ぐ。

 そして耳を塞ぐときに見えてしまった。男の肩越し。カウンターで作業を続ける司書の姿だ。男の存在に気付いていない。まるで男が見えていないかのように。

 僕の中で何かが決壊した。風土記はそのままに荷物だけを掴んで全速力で男の脇を駆け抜ける。「ありがとうございました!」と叫んで図書館から逃げ出した。そして停めてあった自転車に飛び乗ると一目散に走り去る。

(やばい! やばい! なんだあれ!)

 息を切らして自転車を漕ぐ僕の心臓はうるさいほどに拍動していた。何か危険な存在に遭遇してしまった。逃げなければ。僕はただただ家に向かって自転車を必死に漕いだ。

 家まであと半分ほどの距離になった時、鼻の頭にポツリと何かが当たった。空を見上げるといつの間にか分厚い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうだった。夕立ちだ。

 雲は僕を追いかけるように急速に発達していった。雨足はすぐに強くなり、バケツをひっくり返したような雨が僕の体を叩く。

 そのさなか、耳に雨以外の音が聞こえた気がした。あり得ない。そんなまさか……。僕は恐る恐る背後を振り返った。

「……あ」

 喉から声にならないかすかな音が漏れた。一瞬だけど見えてしまった。曇天の下、米粒のような小ささに見える距離だけど、あの男がいる。追いかけて、きている。

「うわああああああっ!」

 僕は絶叫して土砂降りの中を走った。


「草太、びしょ濡れになってしもうたの。そんなに震えて。お風呂入ってきなさい」

 ずぶ濡れになって帰ると、おじいちゃんはそう言って僕を出迎えた。僕は重たくなった服を脱いで風呂場に入り熱いシャワーを浴びる。

 あれは何なのだろう。妖怪……ではないような気がする。あれはもっと凶悪で邪悪な何かのように思えた。あの笑いを思い出すと全身に鳥肌が立つ。

 排水口に流れていくお湯に視線を落としながら考える。あの男は連れて行くと言っていた。僕を? どこに? 理由は分からない。分からないが僕を追いかけてきていた。もしかしたら今も僕を探しているかもしれない。脱衣所に繋がる引き戸を見る。人影はない。

 トラゾーに相談するべきだ。何がなんだかさっぱり分からないが、トラゾーならどうすればいいか教えてくれるはずだ。僕はそう思い風呂場を出る。体を拭いても震えは止まらず、僕はタオルを肩から羽織った。

「出てきたか。まだちょっと震えてるな。飲んでいきなさい」

「……うん」

 トラゾーを探して廊下に出ると、台所の方からおじいちゃんが僕を呼び止めた。冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いでいる。僕はふらふらと台所に入る。

 テーブルの前に座って麦茶を一口飲む。少し気持ちは落ち着いた。おじいちゃんも僕の前に座る。

「どうした。顔色悪いぞ。どっか具合でも悪いんか?」

「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」

 流石に図書館での恐怖体験は話せなかった。黙ってしまう僕を見て、おじいちゃんは頷く。

「ちょっと言いにくいことか。それにしてもそうやってるの見てると、草太のちっちゃかった頃を思い出すの」

 僕は思い出す。幼い頃の僕は機嫌が悪くなると布団を頭から被って何を言われても言葉を返さなかった。確かに今の僕と似ているかもしれない。

「お父さんとお母さんの事故の日もそうじゃったなあ。お父さんが草太を怒らせてしまって、布団の中で寝ちゃってなあ。それでもお父さんとお母さんは買い物行かなきゃいけなかったから帰ってきたら謝るって言ってなあ。それで事故にあってしまった……」

「え……?」

 父さんが僕を怒らせた? 僕とおじいちゃんの記憶の齟齬に困惑する。

「でも確か、あの時は僕が我儘を言って……」

「違うよお。お父さんあの頃仕事が忙しくて、草太と全然遊べなかったからなあ。あの日は休みが取れて遊びに行こうかってなったけれど、お父さん急に仕事行かなきゃいけなくなって……。それで草太が怒ってしもうて。お父さん早く帰ってきたけど、口きかなくなってのお。お父さん、草太の好きなもの買って機嫌直してもらってちゃんと謝るって言って、お母さんも一緒に選びに行くって言って出ていったんよ」

 僕は大きく目を見開いた。僕の覚えている記憶と全然違う。けれど、言われてみるとそうだったような気もしてくる。

「そう、だっけ……。僕ずっと自分から我儘言ったって思ってた……」

「お父さんとお母さんが亡くなった日だからちゃんと覚えてる。忘れられん。草太も子供だったし、その後も色々あったから、そう思ってしまったのかもしれんなあ」

 拍子抜けしたような、はしごを外されたような奇妙な感覚を僕は味わっていた。テーブルに置かれたグラスが両手の中で揺れる。椅子に座っていなかったらその場にへなへなと崩れ落ちていたかもしれなかった。

「おじいちゃん、お父さんとお母さんは僕のことどう思っているかな」

「……そうだなあ、やっぱり草太に謝れなかったことやちゃんと家に帰れなかったことを悔やんでたりするかもしれんなあ」

 おじいちゃんの返事に僕は少し目を伏せる。それは僕がずっと抱えてきた後悔と同種のものだ。やはり人が命を落とすというのは多かれ少なかれそういった未練を互いに残していくものなのだろう。

「でもなあ、草太がこんなに大きくなってくれて、嬉しくもなってると思う。この時期は近くで草太のこと見ていられるからもっと嬉しくなってるかもなあ」

「そうかな……」

「そうだよお。じいちゃん毎年お盆になるとお父さんとお母さん、家に連れて帰ってる。だから分かるよ。お父さんとお母さん、毎年草太が立派になって喜んでる。じいちゃんとばあちゃんもそうだからなあ。お盆はみんなが草太のこと見て、嬉しくなってるよ」

「うん……」

 僕は照れくさくなって麦茶を飲む。父さんと母さんはそうやって僕の成長を見守ってくれていたのかもしれない。今も近くで僕を見ていてくれるのかもしれなかった。そう思うと震えは自然と止まっていた。

「おじいちゃん、ありがとう。もう大丈夫だから」

「うん、そうか。なら良かったよお」

 僕が立ち上がってそう言うとおじいちゃんはにっこりと笑った。

「それと心配かけてごめん。最近少し悩みがあって……。でも解決したからそっちも大丈夫」

「そうかあ、昨日ぐらいから草太の様子が変だったから何かあったんじゃないかとばあちゃんと心配してた。でも解決したんならそれでいいな。

 嫌なことあったらな、すぐ相談してくれていいからなあ。じいちゃんとばあちゃん、話聞くからなあ」

「ありがとう。少し疲れたからもう休むね」

「うん、ゆっくり休むとええよ」

 そうして僕は台所を出た。今のやり取りも2人は見ているだろうか。そんな事を考えながら廊下を歩いていった。

 雨足は弱まったがそれでもまだ雨粒は家の天井を叩いていた。広間を見るとトラゾーがヘソ天しながら幸せそうに寝息を立てていた。僕はトラゾーのお腹を揺すって起こす。

「トラゾー、ちょっといい?」

「ん、おおどうした……。何かあった、か……!」

 目を覚ましたトラゾーの眠たげな顔が口を半開きにした驚きの表情に変わる。……なんでそんなフレーメンな反応を?

「……臭い」

「え?」

「お前、臭いぞ!」

 そう叫ぶとトラゾーは勢いよく立ち上がり僕の周りを歩き回りふんふんと鼻を鳴らす。生暖かい鼻息が全身に当たる。

「ご、ごめん。さっきシャワー浴びたからそれでかも」

「違う! シャワー浴びたから匂ってるんじゃない! シャワーを浴びたから気づかなかったんだ!」

 トラゾーは困惑する僕を正面から見上げる。

「お前、この匂いどこでつけてきた。こんな穢れた腐った匂い、俺でも嗅いだことがない。明らかに何かヤバイ奴の匂いだ。何かあったな!」

 僕はようやく理解する。トラゾーの言っているのは僕が今まさに相談しようとしていることに関係していることだ。

「トラゾー。僕、図書館で変なのにあったんだ」

 僕がそう言うとトラゾーは鋭い目つきになった。

「最初から全部話せ。このままだとお前がかなりヤバイぞ」

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