第20話 魂は昇る(2)

 次の日。昨晩腹いっぱい食べて幸せなまま眠りに落ちた俺は昼過ぎに目を覚ました。いや、本当は何度か意識は覚醒していたのだが、昨日は狭いところに長時間いたり、あちこち歩き回ったりで疲れていた。ゆえに眠気という生物の本能に従い、眠り続けていたのである。

 とはいえ1日中眠っているのは体に悪い。いい加減起きるか。そう思って体を起こした時には、広間に敷いてあった布団は畳まれ、草太は姿を消していた。

 じいちゃんとばあちゃんの話を聞く限り、朝早くに調べたいことがあると言って、朝飯も食わずに出ていって、昼を過ぎた今も帰ってきていないらしい。台所のテーブルにはラップをかけられた1人分の昼食が置いてあった。どこほっつき歩いてんだあいつは。

 しかも草太は俺のメシを用意していなかった。仕方なく俺は持ってきていたお気に入りの皿を荷物の中から引っ張り出して、ばあちゃんに催促するしかなかった。ばあちゃんは「あら、ご飯を食べていないのね。ちょっと待ってて」と言って、すぐにカリカリと冷たい水を出してくれた。一瞬昨日みたいなごちそうが出てこないか期待したが、まあ流石にそれはないか。ああいうもんはたまに食うからいいんだろう。俺はいつものお味のカリカリを食べながら考える。ちなみにじいちゃんは俺を見るなり「おお、やっと起きたかにゃん吉。寝坊助め」と言って全身をワシャワシャした。もう突っ込む気も起こらん。

 俺は特にやることもないので、縁側で香箱座りした。庭には強い日差しが照りつけ相も変わらぬ暑さだ。だがここに届く風は涼しい。

 大正だか明治だかどっちの頃か忘れたが、文明の近代化を余儀なくされた日本のお偉いさんは欧州や西洋の建築様式を取り入れることを最重要課題とした。それはうまくいったわけだが、その手の家は熱を逃さない方法や素材で造られており、蒸し暑い日本の夏には恐ろしく不向きだった。現代の夏が暑いと言われる理由の1つはそこにある。

 では元々の日本の建築方式はどうだったのかと言うと、こういう家のように涼しい風を取り入れてそれを家の中で循環させ、外に風を流す造りになっていた。空気の入れ替えを常に行えるようになっているんだな。そのおかげで夏でもある程度涼しさを保てるようになっていた。

 なんでこんなことを言うのかというと、俺は部屋の中を無理やり冷やす人口の風に当たるよりも、こうして自然の風に当たって涼む方が好きなのだ。俺はじいちゃんに崩された毛並みをもとに戻すために、全身くまなく毛づくろいをする。

 それが終わるとやはり草太のことが頭に思い浮かぶ。あいつは俺の体調管理には人一倍厳しいため、メシを忘れるということはない。それなのに今日は用意をすることなくどこかに行ってしまった。それならそれでばあちゃんにでも声をかけておけばいいのだが、そういう様子でもなかった。やっぱり最近のあいつ、なんかおかしいぞ。何か変なことあったか?

 その原因を考えてみるが、思い当たることがない。少なくとも俺がいる場所ではおかしなことはなかったはずだ。そうなってくるとお手上げだ。大元の原因が分からなければ、周囲だってどうしてやればいいかなんて分からんのである。

「多分ですけど、ご両親のことじゃないですかね。ボンの悩みは」

「うおっ」

 いきなり声をかけられたので驚いて振り向くとそこにはハチが立っていた。どっから現れたんだ、あいつ。気配が全然しなかったぞ。

「おお、ハチか。脅かすなよ……。あっ、そうだお前、昨日ばあちゃんの作ったごちそうは食ったのか? お前昨日こっち見てただけで食べに来なかったろ」

「ああそのことですか。ボンやトラゾーさんが帰ってくる前に食べましたよ。味は楽しめました。相変わらず料理の上手な人ですよ」

 なんだやっぱりそうだったのか。俺は安心する。昨日の予想は正しかったらしい。

「でもなんでそんなことを聞くんですか? 私が食べても食べてなくてもトラゾーさんには関係ないでしょうに」

「なんでってお前、俺たちだけ食ってお前だけ食べてなかったら、お互い嫌な気持ちになるだろ。それだけだよ」

「……私みたいな猫にもトラゾーさんは優しいですなあ。それで話を戻しますが」

 そういえばそうだった。俺は広間に飾られている2つの遺影に視線をやる。

「草太の両親のことだろ。5歳の頃に亡くなったっていう……」

「そうです。それで話をする前に聞いておきたいんですが、ボンからご両親のことをどれぐらい聞いてます?」

「……ほとんど知らん。あいつそういうことあんまり話さないからな」

 俺は正直に話した。あいつの口から両親のことが出てきたことはまったくと言っていいほどなかった。

「そうですか。じゃあ私が話します。トラゾーさんはボンのこと大切に思ってくれているみたいだから、ご両親のこと全部話します」

「……別にあいつが物凄く大事ってわけじゃないけどな。聞いてやる」

 ハチの様子がかなり真剣なものだったので、俺は背筋を伸ばすのだった。


「ここか……」

 目的の場所について僕は歩みを止めた。

 そこはなんの変哲のない車道だった。目印になるようなものは何もなく、通り過ぎていく車を歩道側からただ見つめる。

 僕はここに来る途中で買った花をその場に置いて、静かに手を合わせた。そうこの場所こそが両親が事故にあい、命を落とした道路なのだ。昔は献花してくれる人も多かったそうだが、今はもうそういう人はほとんどいない。10年前の事故だ。それも仕方ないか。

 黙祷をやめ、僕は立ち上がる。しかし目的を終えても僕はその場を離れることができない。先程までと同じように走っていく車を見つめるだけだ。

 地縛霊という言葉がある。強い恨みを持って死んだ人間がその土地に縛られた存在だ。だが、ここに来ても悪寒だとか背筋がゾクッとする感覚とかはない。両親がそういう存在になってしまったということはなさそうであった。

 昨日から僕は変になってしまっていた。両親と仲直りできなかった後悔。その感情は仏壇や墓の前で手を合わせ、心の中で呼びかけていればすぐにおさまる程度のものだった。これまでは。

 だが、僕はもう知ってしまった。この世には人ならざる者がいて、思った以上に身近な存在だということを。

 霊や魂は見えないだけで存在している。その言葉は僕の心を千々に乱した。もし両親の魂は僕のことをどう思っているのかと。

 これまでずっと思いながら考えないようにしていた事柄がある。それは僕が我儘を言わず喧嘩などしなければ、両親は死なずに済んだのではないかという疑惑だ。僕が駄々をこねたせいで外出の出発が遅れた。それがなければ本来の時間に家を出ることができて、事故には巻き込まれず両親は今でも生きていたのではないか……。そういう想像だ。もちろんそれで事故を回避できたかは分からない。やはり運命は変わらず両親は死んでいたかもしれない。だがそういう可能性があると気づいたとき、僕はそれ以上思考することをやめた。それを認めてしまったら両親の死のきっかけを作ったのは僕ということになるから。

 だが先の言葉はこの事実を否応なしに僕に叩きつけてきた。両親はこの事に気づいていて僕のことを恨んでいるのではないか? 1人だけのうのうと生きている僕を見て憎んでいるのではないか? そういう悪い考えが頭の中を埋め尽くす。

 だがそれと同時に両親はそんな人物ではないという思いもあった。もう朧気になってしまった思い出の中の両親はいつだって優しかった。喧嘩の原因だって僕に非があるわけで2人が悪いわけじゃない。僕を置いて出かけたのだって、ほとぼりが冷めてから僕と話そうとしてくれたからであって。両親は僕に恨みや怨念を向けるような人たちじゃない。そう信じたい思いがある。

 だがどちらの想像が正しいかどうかは結局のところ分からないのだ。見えない、聞こえない、触れられない、話せない。そんな存在にどうやって事実の確認をとれというのだろう。そんなことは不可能だ。

 今までは心のなかで一方的に語りかけていればそれで良かったのだ。だが霊と魂の存在を知ってしまった以上、もうそれはできない。知覚できないだけでいるのは確かなのだから、僕の気持ちは知っているはずだ。それは仏壇や墓の前でさんざん伝えている。それに対して両親の魂が僕にどんな思いを持っているのか分からない以上、心を平静に保つすべがない。どうしても相手の反応を考えてしまう。僕は完全に混乱状態に陥っていた。

 両親の気持ちが分からない。自分の気持ちが分からない。どうすればいいか分からない。分からないだらけで僕は平静を装うことだけで精一杯だった。線香を上げた時、心の中では何も考えることができなかった。おじいちゃんが提灯を持って山を下る時、その後ろに両親の姿が見えたらどうしようと思った。広間で寝ている時、両親の霊が姿を表すのではないかと思って気が気でなかった。そうして気持ちを向ける先をなくした僕は、僅かな記憶を辿って両親と過ごした場所を巡って、その痕跡を探していたのだった。外を彷徨うその姿は正しく迷い子だ。その終着点がここだった。両親は即死だったという。そんな状況で土地に焼き付くほどの強い感情など残せるはずもない。

「帰ろう……」

 行くあてをなくした僕はその場から背を向け、来た道を戻る。

「……」

 一度立ち止まり、僕は何かを期待して未練がましく振り向く。そこにあるのはアスファルトから立ち上る熱気と、それによって起こされた陽炎と逃げ水だけだった。今の日本ならどこでも見ることができる現象だ。僕の望んだ事象は何1つない。何1つも。

 僕は前を向き、体を引きずるように歩き始める。ここに来たときよりもその足取りは重くなっていた。

 僕の歩く先、青空には大きな入道雲が立ち塞がっていた。


「そういう事情か……」

 ハチからすべての事情を聞いた俺は思わずため息を吐く。両親の事故。仲直りの機会を永遠に奪われたこと。そこに電車の中の俺の発言だ。あいつがなんであんなに様子が変なのかも大体の理由は想像がつく。大方俺の言葉で余計なことを考えているんだろう。……ということは俺にも責任の一端はあるのか。

「トラゾーさん。ボンのこと助けてやってくれませんか。

 私はボンが小さい頃から見てきました。ボンは良い子です。我儘だってあの時の1回だけだし、子供だったら誰だって親に迷惑をかけるでしょう。その当たり前のことでボンが苦しい気持ちになっているのが、私耐えられません……。

 でも私にはボンを助ける力はありません。でもトラゾーさんなら力になってあげられるんじゃないかって思うんです。

 このとおりです。ボンのことを助けてあげてください」

 ハチはそう言って背中を畳につけ無防備な腹を晒した。一見ふざけているように見えるが、これは恭順の姿勢だ。ハチなりの誠意の現れなんだろう。

「そんな格好しなくていい。お前には言ってなかったが、今回の件は俺にも原因があるはずだ。だからあいつのことは俺に任せろ。俺が話をする」

 俺はそう言ってやった。両親のことを言わないあいつも悪いが、それを知ろうとしなかった俺にも原因がある。なんの気無しに言った言葉があいつを迷わせているんだろうしな。なら飼いにゃんことして俺が人肌脱ぐべきだろう。俺が解決する事柄のはずだ。

「……流石です。その堂々とした佇まい。化け猫だけはありますね」

 立ち上がってきたハチは感服したようにサラっととんでもないことを言った。

「……お前、それいつから……」

「お祭り行く時、話してたでしょ」

 俺は何も言えなかった。そういえばあの時、俺は普通に草太と話した。そしてそこにはハチもいたのだ。うっかりしていた。気が緩んでいたのかもな。というか草太も草太だ。ハチがいるんだからもっと気をつけろよ。そういうことにまで頭が回らないぐらいには余裕がなかったのかもしれないが。

「ごめんなさい。本当は会った時には気づいてました。一目見て普通の猫じゃないって思って、それで匂いを嗅いだらこれが化け猫かあってなって。思わず口が半開きになりそうでした。」

「人の体臭でフレーメン反応起こしてんじゃねえ」

 俺が軽くパンチしてやるとハチはひらりとかわした。こいつ素早い。……というか草太が化けにゃんこと暮らしてることには何も言わないんだな、こいつ。

「しかしまあ、お前もいいやつだよな。飼い主のためにそこまでするなんて。あいつここに帰ってきてからお前のことなんて全然構ってないのに」

「……ボンもいっぱいいっぱいなんですよ。それに家を出てもボンが僕のことを忘れていないってことはちゃんと伝わってきましたから」

ハチはどこか遠いところを見るような目つきになる。草太との思い出を振り返ってるのかもしれない。……しかし、草太がそういうことをいつ伝えたんだろうな。俺のいないところで何か言ったんだろうか?

「それじゃあボンのことはお願いします。私はこれで」

「あっ、おい待てよ」

 ハチは安心した顔で広間を出ていってしまう。俺が追いかけて廊下に出ると……ハチはどこにもいなかった。逃げ足の早いやつだな。俺はそう思いながら縁側に戻った。


ほどなくして草太は帰ってきた。さらに様子をおかしくして、昼は食べたか聞くばあちゃんに「んん……」と言葉か唸りか分からない返事をし、2階にの自分の部屋でボーっとしていた。夕食も食欲はあるようだがじいちゃんに「お墓参りは送り盆に行こうと思うが、草太もそれでいいか?」と聞かれると体をびくりと震わせて「うん、いいよ」とだけ言った。明らかに挙動不審だ。じいちゃんばあちゃんも心配そうに顔を見合わせる。こりゃ早くなんとかしないとな。

 とはいえ周りに人がいると俺も草太と話せない。なので夜寝る前に話をするかと思ったが、あいつは俺に何も声をかけずにさっさと寝てしまった。こいつ、俺を避けてやがる。

 仕方ない。話は明日するしかないだろう。今日は寝坊したが、いつも朝起きるのは俺のほうが早い。明日、ちゃんと話をしようじゃないか。俺はそう思いながら眠りについた。


 


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