第19話 魂は昇る(1)
どこかおぼつかない足取りの草太が駅を出た。草太は近くのタクシーを捕まえて、目的地を伝える。なんだ。迎えが来るんじゃないのか。
「じいちゃんは山魂祭の準備で忙しくて、ばあちゃんも僕が帰ってくるから部屋の掃除とかしてくれているみたい。だから仕方ないよ」
小声でその事を言うと草太も低い声でそう返した。そういう事情か。まあ年寄りに迎えに来させるわけにもいかないか。
やがてタクシーは一軒の家屋の前で止まった。その家は2階建ての和風建築だった。周りは石垣に囲まれており、まさしく日本の民家といった風体だ。
草太は料金を払ってから俺と一緒に荷物を車から降ろした。タクシーが走り去るのを待たずに敷地内に足を踏み入れる。
「おばあちゃーん。ただいまー」
玄関の引き戸を開けると草太は大きな声で自らの帰宅を告げた。しばらくすると廊下の奥から1人の老婦人が駆けてくる。
「草太、お帰り。元気にしてた?」
「うん。元気にしてたよ。おばあちゃんも元気そうだね」
気立ての良い雰囲気の老婦人は草太に対してニコニコ笑った。草太のばあちゃんか。たしかに全身から丈夫そうな雰囲気が出てるな。長生きしそうだ。
「草太が大学卒業するまでは、おばあちゃん頑張るよ。さ、疲れたでしょ。早く上がって」
「うん。でもその前に……」
草太は荷物を玄関に置いてから、俺の入ったキャリーバックを降ろしたてチャックを開けた。ようやくか。俺は外に出て木張りの床の上で体を大きく伸ばす。
「こっちはトラゾー。ほら電話で話したでしょ」
「あら、この子が。かわいいわねえ。触ってもいいかしら?」
おういいぞ。俺はばあちゃんか出してきた手のひらに自分から頭をこすりつけてやる。ばあちゃんは「あら、人懐っこいっ子」と頭や背中を撫でる。優しい手つきだな。俺もうこのばあちゃんのこと好きになったぞ。喉から甘えた声を出す。
と、その時だった。廊下の隅から1匹のにゃんこがこちらに向かって歩いてきた。ハチワレのにゃんこだ。俺と同じオス。毛の色あせぐらいからして長く生きてるな。あくまで通常のにゃんことしてだが。
いやそんなことよりもだ。実家でにゃんこを飼っているなんて聞いていないぞ。俺は抗議の意を持って草太の顔を見る。しかし草太のやつはばあちゃんと何か話していてこっちには気を向けない。こいつにとってはあのハチワレが出迎えにくるのが普通のことのようで、特に何か言及するものではないらしい。
だったらせめて先に話してくれよ。にゃんこというのは縄張り意識が強い生き物だ。そこに俺が無遠慮に足を踏み入れたら確実に喧嘩になる。どうすんだよ。いくら俺でも飼い主の実家で争いを起こすほのは気が引ける。こちらに近づいてくるハチワレを見ながら俺はどうしたものかと唸る。
ハチワレは俺の目の前で立ち止まった。だが予想に反して威嚇したり、攻撃してきたりはしない。むしろ俺の体の匂いを嗅ぎ始めたぞ。俺が目を白黒させているとハチワレは「ニャオ」と鳴いた。人間の言葉に翻訳すると「どうも。こんにちは」だ。俺は挨拶をされたらしい。
にゃんこというのはナゴナゴウニャウニャニャオニャオグルグル鳴いて話す生き物だ。人間にはただ聞いただけでは何を話しているのか分かるまい。ここからは俺が人間の言葉に翻訳しよう。おっぴろげ大サービスだ。
「どうも。私名前をハチって言います。よろしくお願いします」
「あ、ああ。俺はトラゾーだ。よろしくな。悪いな。勝手に入っちまって」
「大丈夫ですよ。ボンのお友達を追い払ったりとかできません。短い間ですけどよかったらゆっくりしていってください」
ハチはそう言って耳の後ろを足でかく。なんだ、こいついいやつじゃないか。お言葉に甘えてのんびりさせてもらおう。
「そう言うならそうさせてもらう。邪魔はしないからそっちもいつもどおりにしていてくれ」
「トラゾー?」
俺がハチにそう言うと草太の声が聞こえた。廊下の向こうに荷物を持ってこちらを振り返る草太の姿。話している間に置いてかれたか。「また後でな」とハチに言って俺は後を追う。
「草太の部屋掃除しておいたから、昔みたいに使ってね。寝る時は下の広間でも部屋でも好きな方でいいからね」
「ありがとう。そういえばおじいちゃんは?」
俺が追いつくと2人は2階に続く階段の前で話している最中だった。俺は草太の足元で立ち止まる。
「山魂祭の準備に行ってるわよ。そろそろ帰ってくると思うけどねえ。おばあちゃんも今日はちょっと忙しくて……。ごめんね。構ってあげられなくて」
「良いよ。あんまり気にしないで。僕部屋に荷物置いたら母さんと父さんにお線香上げるよ」
「そうね。きっとお母さんとお父さんも喜ぶわ。今日はごちそう作るから楽しみにしててね」
「うん。分かった」
ばあちゃんはそう言うと廊下を歩いて行ってしまった。ごちそうか。俺も期待してもいいだろうか?
「トラゾーはどうする? 僕と一緒に来る?」
「いや、少し家の中を見て回るぞ。ずっと狭いところに押し込められていたから体を動かしたくてな」
「そっか。あんまり変なところに行かないでね」
「行かんわ」
俺はととと、と廊下を進んでいく。
廊下を少し進むと横から涼しい風が吹いてきた。そっちを見ると庭が見えた。どうやらこの廊下は障子で仕切られた広間に面しており、広間がそのまま縁側へと繋がっているらしい。今は障子戸も開け放たれている。
俺は広間に足を踏み入れる。畳張りの広間は来客用に作られたようであり、かなり広い。さっきばあちゃんが言ってたのはこの場所だな。俺もここで寝るか。冷房の人工的な風とは違っった涼しさがある。気持ちよく昼寝もできそうだ。
「ん……?」
そうやって広間を観察していると、隅に仏壇が置かれているのが見えた。俺が近づくと、仏壇の隣に写真が2つ置かれていた。遺影だ。
左側は女性の写真。右側は男性の写真。その隣に少しスペースが空いていた。2人ともかなり若いな。男性の方は誰かに似ていた。草太だ。正確には草太が似ているのか。つまりこの写真の2人は――。
「この人たちが僕の父さんと母さん。ちゃんと挨拶してくれた?」
後ろを振り返ると草太が広間に入ってくるところだった。視線は両親の写真に向けられ、少し懐かしそうに見つめていた。
「今ちょうどしてたところだ。毎日俺が世話を焼いていますってな」
「それはどうも。じゃあ僕も毎日トラゾーに迷惑かけられていますって報告しようかな」
「好きにしろ」
草太は俺に向かって微笑むと仏壇の前に立った。マッチで火立てのろうそくに火をつけると、線香差しから1本手に持ち、ろうそくに近づける。香炉に線香を立てると一筋の煙とともに独特な香りがあたりに漂う。
最後におりんをりん棒で叩いて合掌し、静かに頭を下げる。心の中で何を両親に伝えているんだろうな。想像するしかないが、たまの帰省だ。ちゃんと話せよ。そう思いながらなんとなく横を見て俺はギョッとする。
そこにはハチがいた。ハチは無言でじっと草太の背中を見つめていた。その表情には何かを訴えかけるような気配があった。俺が知らないだけで草太との間に何かあったのだろうか。ただならない雰囲気だ。
「草太、帰っとったかあ」
また声がした。そっちの方を見ると白髪交じりの髪の薄い年配の男が立っていた。顔にしわこそ出ているが、その顔はどことなく草太に似ている。
「おじいちゃん、ただいま。あとおかえりなさい」
「ただいま。お父さんとお母さんに挨拶しとったか」
「うん。おじいちゃんは?」
「山魂祭の準備の途中で一度帰ってきたわい。道具取ったらすぐ戻る。そのまま提灯持って山下るでの」
「そっか。忙しそうだね」
「そんなんでもないわい。むしろ悪かったの。迎えにも行けなくて」
「気にしないで。準備があったなら仕方ないって」
「そうか? まあゆっくりしてくとええよ。一人暮らしで頑張っとるわけだからたまにはちゃんと休むとええ」
「うん、そうする」
じいちゃんはにかっと笑った。気のいいじいちゃんって感じだな。そんなじいちゃんの目が俺を捉えた。
「それでそっちの猫が……」
「電話で言った、トラゾーだよ」
「そうか。たしかにこれは顔が大きいのお」
じいちゃんは俺の前でよっこいしょとしゃがんで俺の頭を撫で始めた。その撫で方がかなり乱暴だ。こらやめろ。そんなん強くしたら毛並みが乱れるだろうが。逃げようとすると「こら、にゃん吉逃げるな」と手を伸ばしてくる。にゃん吉って誰だよ。
「そうだ、じいちゃん。お祭り僕も見に行ってもいいかな」
「ええよ。最近は山魂祭目当ての観光客も多いからの。見に来るだけなら全然ええよ」
「ありがとう。先輩にお祭りの写真送って上げたくて、何時ぐらいに行ったらいいかな」
「それなら6時半ぐらいに境内まで上がって来ればええ。開催の儀をやっとるからの。記者とかカメラマンとかも来るらしいから何枚か写真取ったって大丈夫だわ」
「じゃあそれぐらいの時間に行くね」
「おう。それじゃあじいちゃん戻るからの。遠くから来て疲れてるだろうからよく休んでからおいでな」
最後にそれだけ言い残してじいちゃんは広間を出て行った。後には孫と毛並みの乱れたにゃんこが、畳の上でぐったりしているだけだ。
「お祭りの時間までに羽根を伸ばそうかな。トラゾーは?」
「見てわからないのかよ。疲れた」
草太は畳の上に足を投げ出して横になった。俺もヘソ天して横になる。
ハチの姿はいつの間にか消えていた。
「じゃあ行ってくるね」
午後6時。俺と草太は家を出た。ばあちゃんに見送られて家を出る。
「あれ、お前も来るのか?」
玄関を出て振り返るとハチが歩いてくるところだった。ハチは俺の隣まで来ると鳴く。
「ボンのことちょっと心配なので。途中までついていきます」
「そうか。まあ好きにしろよ」
飼い主のために安全な家から出てくるとは見上げた忠誠心だ。飼いにゃんこの鑑だな。俺はハチのことをちょっと尊敬する。
「トラゾー、行くよー」
俺たちを待ってくれていた草太が呼びかける。俺たちは2匹並んで草太についていく。
車道に面した歩道を歩いていると5分ほどで小さな山が見えた。標高200mもない山だ。日が傾き夜の闇が迫る中、その山の麓から頂上付近までポツポツと光が一直線に並んでいる。
「あの山か」
「そう。あそこの山の一番上のあたりに山の神様を祀っている神社があるんだ。お祭りはそこから始まるんだよ」
「真ん中のあたりで光ってるのはなんだ?」
「階段の途中に広場があるんだよ。毎年そこで出店とか屋台とかがあるんだやってるんだ」
「なるほどな」
そうこうしている内に山の階段の前まで来る。石畳の階段近くの木にライトが付けられて階段を照らしている。さっきの光はこれか。あたりには祭りの参加者や見物人が行き来している。それよりも俺が気になったのはその傾斜だ。かなりきついぞ。短い距離とはいえここを登るのはきつそうだ。げんなりしていると隣のハチが鳴いてくる。
「トラゾーさん。私ここで帰ります」
「おい、逃げるなよ。2匹で頑張って登るぞ」
「あー、そういう意味じゃなくて……。私ここを登るのが早すぎるんです」
「速すぎる? だったらさっさと登っちまえばいいだろ」
「……私途中までって言ったじゃないですか」
「言ってたな……」
家を出るときにそう言っていた。しかし何もここで引き返さなくたって……。俺が恨みのこもった目で見ると、ハチは真剣な表情で見つめ返してきた。
「トラゾーさん。ボンのことよろしくお願いしますね」
「なんだよ、急に……」
「私、普段は遠いところにいますから、ボンになにかあっても助けてあげられないので……」
そういうことか。まあ俺も飼いにゃんこだからな。あいつが金を稼いでいるから俺もぐうたらしていられるんだし。飼い主がなにかあったら助けてやるよ。
それに家を出ていった飼い主をここまで心配するとはにゃんことして立派と言わざるをえない。泣かせるじゃないか。その心意気に免じて引き受けてやる。
「任せとけ。あいつになんかあったら俺が助けてやるよ」
「心強いですな。それじゃああとはお願いします」
それだけ言うとハチはどこかへと歩き出す。
「トラゾー、早く!」
頭上から草太の声が聞こえた。俺が「うにゃおーん」と鳴いて背後を振り返るとハチの姿はもう影も形もなかった。逃げ足が早い……。
結局階段は草太に抱っこして登ってもらった。草太の足元で周りの人間に聞こえないように小声で「疲れた。抱っこしろ」と言うと渋々草太は俺を持ち上げた。ハチには悪いが飼いにゃんこになにかあった時は助けるのが飼い主だ。今回は俺が助けてもらおう。「重い……。帰ったら絶対ダイエットさせる……」と不吉なことを無視した。
草太は1度も休まずに石畳の階段を登りきった。鳥居をくぐり境内に入るとそこにはもう大勢の人がいた。小さいが立派な神社を真ん中にして、俺たちから見て右側に氏子と思われる人間が、左側に記者やカメラマンといった人間たちが集まっていた。草太は氏子の中にじいちゃんを見つけると声をかける。
「おじいちゃん来たよ」
「草太、来たか。にゃん吉も一緒か」
にゃん吉じゃない。
「まだ始まらないよね。僕たちどこにいればいい?」
「こっちは氏子の家長や関係者の集まる場所だから、あっち側で見とったらええよ」
じいちゃんは境内の反対側を指差す。
「あとちょっとしたら開催の儀が始まるからの。それが終わったらじいちゃんについてきてもいいし、上から見ててもどっちでもいいからの」
「うーん、先輩に写真撮って送りたいから上から見てるよ。おじいちゃんは先に帰ってて」
「分かった。あんまり遅くなったらいかんぞ。
そろそろ始まるわい。また後での」
「うん、じゃあまた」
時間か。草太はじいちゃんから離れて記者や見物客の中に混じる。
「それでは山魂祭、開催の儀を執り行いと思います」
境内の端から神職の格好をしたおっさんが神社の前に立って宣言する。俺は小声で草太に聞く。
「あのおっさん、この神社に仕える神職か? 社務所が見えないんだが」
「この神社普段は無人で自治会が管理してるはずだから、そこの会長さんだと思うよ」
なるほどね。地方ではそうやって維持されている神社が多いのは俺も知っていた。氏神になるような神社が無人ってのは少し珍しいが、まあそういう値域もあるということだろう。
開催の儀は粛々と進んでいった。会長が祝詞を上げたり、地区の代表が言葉を述べたり、氏子から米や酒、地域で採れた収穫物を奉納したりだ。俺はちょっと退屈で小さくあくびをしてしまう。草太は俺を下ろして、スマフォを使って周囲の記者や見物客と一緒に写真を撮っていた。
「では最後に山の神からの恩寵を下賜いたします。氏子たちは1人ずつ前へ」
会長がそう言うと氏子たちが前に出て提灯を受け取っていく。
「あれが魂を表したもの、もしくはご先祖の霊を先導する光ってところか」
「どっちかって言うと後者かな。山の神は光を使って魂を導くんだ。だからあの提灯も神さまから借りた明かりっていう
「ふーん」
そうなるとこの後の展開は分かるな。全員に提灯が行き渡ると会長が口を開く。
「ではこれより山の神と先祖の霊が通る道を開きます」
そう言って境内に一礼して会長は戻っていった。仮にも神職の格好をしてるやつが参道を塞ぐなよとずっと思っていたのだが、わざとだったんだな。面白いやり方だ。
するとどこからか藁で出来た馬が現れた。胴体から生えた4本の木の棒を大人が持って、ゆっくりと参道を進んでいく。藁で出来た精霊馬か。じゃあ帰りは藁の牛だな。そんなことを考える俺の前で関係者や氏子たちが列になって続く。氏子たちが境内から出ると、記者や見物客が最後に続く。
「この後は家に変えるのか」
「そうだよ。先祖代々の霊を家長が家まで連れて行くんだ。それで今日はとりあえず終わりかな」
階段を降りながら俺たちはヒソヒソ話す。すると記者や見物客の殆どが列から離れて中腹の広場へと向かっていく。最後までついて行って取材しないのか?
「おい、あいつらは……」
「あー、うん。僕と同じかな。行けばわかるよ」
草太も列から外れて広場に行く。広場になんかあんのか? 俺は抱っこされたまま広場に入る。
円形の広場には屋台や出店があって家族連れやカップルとかが遊んでいた。中央には水槽とビニールプールが設置され、金魚すくいとヨーヨー釣りに子供が群がっていた。漂ってくる食い物の匂いが嗅覚を刺激する。だが今夜はごちそうという言葉を思い出し、腕の中から飛び出そうとする本能を抑える。「なんか凄い爪立ててくる……! あっ、あそこ。僕の行きたいのあそこ」
広場の一角。そこには人が集まっていた。ざわざわ騒ぎながら何かをしきりに撮っている。
「すみませんよっと」
草太は人込みを抜けて最前列に出る。眼下に広がった光景に俺は息を呑んだ。
暗くなった町の中を光の列が進んでいく。例えるならそれは地上の天の川のようだった。天の川を構成する光は少しずつ離れていき、移動するとふっと消えていく。ああして魂はそれぞれの家へと帰っていくのだ。その幻想的な光景に俺は少し感動していた。
「みんなこれを撮っているんだ。SNSだと結構有名らしいよ」
「実際綺麗だと思うぞ。俺もこの600年で色々見てきたが、こういうのは初めてだ」
写真ではなく動画を撮ることにしたらしい草太がスマフォを構える中、俺はその光景から一瞬たりとも目を離さなかった。
やがて最後の光が消えた。暗闇に包まれた町はしかしたしかに、光すべて受け入れたのである。そしてそれは帰ってきた先祖の霊が、すべて子孫のもとへと訪れたということに他ならなかった。
周囲の人間たちは三々五々散っていく。風情のない奴らめ。余韻をもっと楽しめよ。俺は感動に水を差されたような気がして少し気になった。
「そろそろ僕たちも帰ろうか」
周りに誰もいなくなってから草太はそう言った。俺は腕の中から降りて、帰りは歩くことにする。
その道すがら俺は気になることを聞いておく。
「明日以降はなんかあるのか?」
「得にはないかな。送り盆の夜に家長が提灯を持って山に登るんだ。境内まで登ったら提灯をお返しして、あとは山の神様にお願いするって感じ。あーでも……」
「なんかあんのか?」
草太は腕組みしながら唸るなら
「うーん。言い伝えっていうか迷信みたいなのがあってね。送り盆の夜から次の日の朝まで山には入っちゃいけないんだ。あと、家から絶対に出ちゃいけない。家の出入り口を全部塞いで寝なきゃいけない」
「そりゃまた厳しいな。理由はだいたい想像つくが」
「一応説明しておくと、お祭りの後はたくさんの魂集まっているから山にいると間違ってあの世に送られたり、悪い魂に連れて行かれちゃう。だから全ての魂の送還が終わる次の日まで山には入っちゃいけない。
家から出ちゃいけないのは迷った魂や悪い魂が残っていて、連れ去られたり襲われたりするから。家の出入り口を塞ぐのもそれと同じで、他所の家の魂が入ってこないようにするため。だから戸をたたかれたりしても開けちゃいけないんだ。入ってきちゃうからね」
「ありがちだな。すこし探せばどこにでもありそうな説話だ」
「そうだね。でもこの地域の人たちはみんなそれを守っているから、送り盆の夜は外に出ちゃだめだよ」
「そうするよ……うわっと」
突然俺と草太の間を強い風が吹き抜けた。後ろを振り返るとそこには闇がわだかまっているだけだった。
天原家に帰るとごちそうが俺たちを待っていた。広間の中央にテーブルを置き、その上に天ぷらや刺し身、煮物や味噌汁、ローストビーフや唐揚げなどといった美味そうな食い物が所狭しと並んでいた。全部ばあちゃんが作ったものだという。料理上手いな。
腹をすかせた俺が前足をテーブルに引っ掛けて頭を出して見ていると「トラゾーちゃんも食べる?」とばあちゃんが俺にも皿にとってくれた。草太も流石に今日はうるさく言わず、無事俺はごちそうにありつけた。ローストビーフは柔らかく味が染みている。キスの天ぷらは衣はサクサクで身は淡白ながらも味がしっかりしている。料理の腕もそうだが食材の質もいい。ばあちゃんは目利きも確かのようだ。
俺が皿の上のものを食い終わった時にはじいちゃんは瓶ビールを何本も開けて上機嫌だった。草太に大学は楽しいかと聞いたりしている。草太も嬉しそうに答え、ばあちゃんが驚いたりする。楽しそうだな。まさしく幸福な家族って感じだ。息子夫婦をうしなっているとはとても思えなかった。
じいちゃんが持ってきた提灯は仏壇の前に置かれていた。草太の両親の遺影の前にはごちそうの一部が置かれている。遺影の顔も3人の団らんを見て心なしか嬉しそうな顔をしているような気がした。
1つだけ気になったのはハチがいないことだった。あいつ帰ってきてるよな? そう思ってあたりを見回すと廊下の向こうからその目を光らせてこっちを見ていた。俺と目が合うとどこかへと歩いていった。ごちそう食わないのか? それとも俺と草太が帰ってくる前に食ったのか? ばあちゃんはトラゾーちゃんも食べるかと言っていた。きっとあいつも食ったんだろ。そう思うことにする。3人はハチに気がつくことはなかった。
「あー美味かった。もう腹いっぱいだ」
「みたいだね」
俺が広間でヘソ天していると風呂上がりの草太がパンパンの腹をさすってきた。すでにごちそうとテーブルは片付けられ、草太の布団が敷かれていた。
「お前のばあちゃんのメシ美味かったぞ。俺ずっとここにいてもいいくらいだ」
「流石に今日は特別だよ。毎日あんなに豪華じゃないさ」
「それ抜きにしてもだよ。お前ばあちゃんにもっと感謝しろ。お前がそこまで立派に育ったの、ばあちゃんのメシのおかげだぞ」
「……それはどうも。感謝なら昔からしてるよ」
家族を褒められて照れくさいのか、草太は俺に背を向けて寝る準備をする。俺はごろりと転がって草太の背中を見る。
やっぱり今日のこいつは変だ。電車の中でもそうだが、その後もかなり無理をしている気がする。なんというか頑張って元気をだしている感じだ。空元気と言ったほうがいいか。体と心が一致していない。そんな印象を受ける。
俺は電車の中で感じたのと同じ不安に襲われる。こいつ本当に大丈夫か? 何を抱え込んでる?
「電気消すよ」
「……ああ」
俺の心配などつゆ知らず草太は広間の電気を消す。月の明かりが差し込み、リーリーと虫の鳴き声が闇に染み入る。
こうして帰省初日の夜は更けていくのだった。
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