第17話 涼風沙也加の1日
「ん……」
涼風沙也加の朝は遅い――。朝8時半。ようやく彼女はベッドの上で目を覚ます。
沙也加は超のつく低血糖低血圧である。ゆえに目覚めは遅い。そして起きてからしばらくしないと立ち上がれない。しばらくベッドの上で舟をこぐ。
「そろそろ起きなきゃ……」
30分経ちようやく沙也加はベッドから降りた。今日は午後から屋内スタジオでの雑誌撮影がある。準備をしなくては。シーツを引きずりながら沙也加は洗面台へと向かう。
冷水で顔を洗うとようやく意識がシャキッとした。足に絡まるシーツと一緒に洗濯物を洗う。その間に浴槽にお湯をため、お風呂に入る。
「ふう……」
沙也加は湯船に浸かると恍惚としての息を漏らした。トラゾーとの特訓でぬるま湯程度なら体を溶かさずに入浴できるようになった。沙也加にとってこれは大変嬉しいことであった。これまでは冷たいシャワーを浴びるか氷風呂に入るしかなかったので、ぬるいとはいえお湯に体を浸せるのはとても革命的なことだったのである。全身の筋肉が弛緩していく感覚を沙也加は楽しむ。その間、どこからか鴉の鳴き声が聞こえてきたが気のせいだろう。
それでも暑さは苦手なので長時間入らずに出る。体を拭き、髪を乾かしてから止まっている洗濯機から衣服やシーツを取り出す。
ベッド、テーブル、テレビ。最低限の物しかない殺風景な部屋を通り抜け、ベランダの窓を開ける。強い日差しが沙也加はを照らすが、これぐらいではもう溶けない。今日もよく乾きそう……。風にはためく洗濯物を見てから沙也加は部屋に戻る。
「いただきます……」
午後11時。遅い朝食兼昼食を食べる。炊飯器から炊きたての白飯を茶碗によそり――これも特訓で食べられるようになった――、冷蔵庫から昨晩作り置きしておいたおかずを取り出す。先日朝起きられずに仕事前にご飯を食べられないことを草太に相談すると、作り置きするといいですよ!と教えてくれたのである。おかずも草太から教えてもらったものだ。教えてもらってばかりでは悪いので今度なにかお礼をしよう……。沙也加はそう決める。
午後12時。沙也加は仕事に行く準備を始める。部屋着を脱ぎ、外出用の服に着替える。
「沙也加、いるか……」
その時である。壁からトラゾーが顔を出した。沙也加は下着姿である。また師匠ノックしてない……。沙也加はほんの少し唇をへの字に曲げる。沙也加はトラゾーの顔を両手で挟む。
「師匠……。来るときはノックしてって言った……」
「す、すまん。許してくれ……」
「だめ……。これでもう3度目……」
弁明は聞かない。人間なら不審者である。沙也加はお仕置きを敢行する。顔をもみくちゃにしてから手を離すと息も絶え絶えと言った様子で口を開く。
「お前、今から仕事か……?」
「午後から雑誌の撮影……。だから今日は遊べない……」
「そうか……。邪魔して悪かったな……。今度からはノックする」
「そうして……」
トラゾーは壁をすり抜け戻っていった。申し訳ないけど、草太にまた言っておかなきゃ……。沙也加はそう思いながら準備を進めた。
「はいOK! じゃあ10分後に撮影再開ね」
午後4時。沙也加の姿はスタジオの中にあった。現場を取り仕切る責任者が手を叩くと沙也加の周りで動き回っていたスタッフが蜘蛛の子を散らすように離れていく。沙也加もポーズを取るのをやめいつもの表情へと戻る。
「お疲れ。大丈夫? 暑くない?」
沙也加が撮影スペースから戻って用意された椅子に座ると、丸縁眼鏡の小太りの女性が心配そうに飲み物を手渡してきた。沙也加のマネージャーである。沙也加が街を歩いていたときスカウトしてきたのも彼女であった。その時からずっと沙也加のマネジメントをしてくれている。沙也加の体質に理解を示す数少ない人間の1人であった。流石に雪女のことは話していないが色々と気遣ってくれるため、沙也加も彼女には心を開いていた。
「大丈夫…。最近暑さに強くなったから……。平気……」
飲み物を受け取って一口飲んでから沙也加はかぶりを振った。
「そう? でもなにかあったらすぐに言ってね」
「ありがとう……。私最近色んなこと頑張りたいと思ってる……。撮影ももっと頑張るから見てて……」
それでも心配そうな表情のマネージャーに沙也加は表情を崩さず親指を立てた。体調やスケジュールの管理。仕事の打合わせやセッティング。本当に様々な事を助けられていた。だから雪女の体質を克服して、変わっていく自分を見せて安心させたい……。沙也加なりの恩返しの気持ちであった。その言葉に感極まったのか、マネージャーは喜色一面の表情を浮かべた。
「もう! 嬉しいこと言うんだから……。なら私ももっと頑張らないとね。
でも最近の沙也加なんだか変わったわ。なんていうか表情がすごく柔らかくなった」
「え……?」
思いもよらない言葉に沙也加は困惑する。
「あら、気づいてなかったの? 前はもっと硬い感じだったけど最近は笑うことが多くなったわ。表情が豊かになったから今までよりも魅力的だって色んな人が褒めてくれてるわよ」
「そう、かな……」
両の手の指でそっと頬に触れる。自分でも気づかないうちにそういう部分にも変化が訪れていたようだった。
「いい変化よ。でも今までそんなことなかったのに、何かきっかけがあったのかしら?」
そう言われると答えは1つしかない。千夏、トラゾー、草太……。彼らとの出会いだ。その出会いが沙也加を大きく変えた。
「友達……ができたと思う……」
「あらそうなの。それは良かったわね」
「あと……師匠ができた……」
「師匠? 師匠ってなんの?」
そう言われても師匠は師匠である。複雑な事情があるのでうまく説明もできない。どうしたものかと沙也加が困っていると「涼風さん! お願いしまーす!」とスタッフが声を上げた。
「もう休憩は終わりね。次の撮影で最後よ。頑張ってね」
「うん……。頑張る……」
温かい声に押されて沙也加は再びに撮影に向かっていった。
「ただいま……」
午後7時。撮影は順調に進み、6時前には終了した。帰りにスーパーに寄り買い物をしていたらこんな時間になってしまった。沙也加は誰もいない部屋に入り電気をつける。
「料理をしよう……」
夜風に揺れる洗濯物を取り込んでからキッチンに立つ。今日の夕食はうどんであった。以前草太が作ってくれたのと同じである。明日の昼食も作る。そちらもうどんだ。明太子と天かす、半熟卵を乗せて冷たい麺つゆをかけたものだ。この冷たいうどんが沙也加は好きだった。手軽で時間もかからず、後片付けも楽。冷たくて食べやすいのも良いと沙也加は料理をするようになってからこればかり食べていた。
「レパートリーを増やそう……」
とはいえそろそろ別の料理を覚えたほうが良いはずである。今度草太に教えてもらおう……。沙也加は決意した。
夜9時。外にいたので氷風呂に入ってから就寝する。沙也加は寝巻きに着替えてベッドに横になる。
最近毎日が楽しい。友人が増えて、できることが増えて、なんでもない毎日がとても輝いて見える。
「おやすみなさい……」
明日はどんなことがあるだろう……。少しだけ胸を高鳴らせながら眠りにつくのだった。
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