第15話 気になるたるみ トラゾーの爪切り
気になる……。僕はテーブルの上でぐうたらしているトラゾーを見ながら腕を組んだ。
7月末の夏季休暇も折り返しに入ろうとするあるの日のことである。その日はバイトもなく課題もやる予定もなかったので、部屋でくつろいでいた。トラゾーが我が物顔でテーブルの上を占領し、お昼寝をし始めたので、読んでいた本を片付ける。
だらしのない格好で寝息を立てるトラゾーのお腹。そこがテーブルの縁からはみ出し、てろんと垂れているのである。
あれは一体なんだろう。トラゾーと暮らし始めてから結構時間が経つが、まだ分からないことも多い。早速僕は取り出したスマートフォンで検索してみる。『にゃんこ お腹 たるみ』。
にゃんこのお腹のたるみはルーズスキンと呼ばれるものらしい。Loose Skin。日本語だとたるんだ皮膚とでも訳せばいいのだろうか。とにかくそれは野生の猫種にもある腹部の皮が余っている皮膚の事を言うらしい。そういえば祖父母と暮らしていた家でもにゃんこを飼っていたが、歩くとお腹が左右に揺れていた。あれはルーズスキンだったのだなと今更納得する。
ルーズスキンの役割はいくつかあるという。臓器のある腹部を守るため。足を動かしやすくするため。手に入れた獲物をたくさん食べるため。調べてみると色々な説がある。
「ん……?」
画面をスクロールしていくとある1つの項目が目に飛び込んできた。ルーズスキンはあくまで皮が余っている皮膚。触った時に脂肪があったら肥満の可能性があるということだ。他にも変な手触りがあったら病気の可能性もあるという。
「なるほど」
僕は顔を上げトラゾーを見る。夢でも見ているのかぐるると唸りながら眠り続けている。
トラゾーは大変なぐうたらである。1日の大半を寝て過ごしている。ご飯もしっかり食べる。ただあまり運動はしない。マンションの狭い部屋。運動不足になりがちである。それでも僕がいない間に近所の野良にゃんこの集会に参加しているらしいが、それでも僕が部屋にいる間はそういうことはしない。激しく運動をするのはおもちゃで遊ぶ時ぐらいだ。
以前動物病院で診てもらってから数週間が経過している。あの時は適正体重だったが、今は違うかもしれない。飼いにゃんこが太り過ぎたら飼い主の責任が問われるのである。
「よし」
僕はトラゾーが太っていないか確かめることにする。人差し指で垂れ下がっているお腹をつついてみる。お腹がわずかに揺れる。
次いで手のひらで余った皮を触ってみる。ふよふよとした不思議な感触が伝わってくる。そこには確かな温かさと柔らかさが存在した。だがしこりとか硬いものの感覚はない。少なくも肥満とか病気というわけではなさそうだ。僕はホッとする。
僕は両手を使ってテーブルから垂れるお腹を下からすくうように持ち上げて、上下に揺すってみる。波紋が腹部全体に広がりふわふわと揺れる。僕はそのまま垂れたお腹をテーブルの上へと戻した。しかしすぐにでろんとテーブルから垂れ下がり、元の位置に戻った。それを見た僕は思わず吹き出してしまう。
「人が気持ちよく寝てんのに、なにやってんだお前は……」
「あ」
トラゾーは起きた。呆れと怒りと眠気で飽和した声音だった。
「実はかくかくしかじかで……」
「ほう……、モフモフニャンニャンか……」
僕の説明を聞いたトラゾーは大あくびをしながらその場で立ち上がった。鋭い目つきが僕を突き刺す。
「あのな、俺だって自分の健康には結構気を使ってんだ。前に病院に行ってから体重は増えてないぞ」
「えー、本当に? 毎日お昼寝ばっかりしてるのに」
「本当だ。嘘だと思うなら体重計に乗せてみろ。維持された美しい数字が出るはずだ」
「そこまで言うなら……」
僕は洗面所から体重計を持ってきて、その上にトラゾーを乗せた。前よりも少し太っていた。
もう少し運動させよう……。飼い主として僕はそう強く決意するのだった。
また別の日のことである。バイトから帰宅し、作った夕食を食べている間、トラゾーは僕が買ってきたダンボール製の爪とぎに爪を立てて勢いよく前足を動かしていた。バリバリと大きな音が出る。
色んな動物がいるが、爪とぎをする動物を僕はにゃんこ以外では見たことがない。探せば他にもいるのだろうが、人間に身近な動物で爪とぎをするのはにゃんこぐらいのものではないだろうか。どうしてにゃんこは爪をとぐのだろう。疑問に思った僕は後片付けを終えたあと、またスマートフォンで調べる。
にゃんこの爪とぎにも色々な理由があるらしい。爪の維持。縄張りを示すためのマーキング。リラックスや気分転換。自己アピール。今やってるのは維持と気分転換だな。
面白いこともわかった。にゃんこの爪というのは層になっているらしい。玉ねぎのようになっていて、古い層を剥がし、新しい爪を前面に出す。爪とぎはそのための行為でもあるらしい。
しかし爪をといでも長さや鋭さはそのまま。長さを適切に保ち、怪我や事故を未然に防ぐために爪切りを定期的にする必要があるのだという。
爪切り。もちろんにゃんこ用の爪切りも用意してあった。だが、トラゾーと暮らすようになってから一度も切っていない。成猫は3週間から1ヶ月を一定の目安に切るのだという。600年間 生きている化けにゃんこにそれが適用されるか不明だが、そろそろ切り時ではないかと思う。
「草太。そろそろ爪切ってくれよ」
「にゃんこが自分から爪切りをお願いしてきた……!」
「おう。なんか伸びてきてんなって思ってな。
って、そうか。お前にゃんこの爪切るの初めてか?」
「う、うん……」
「しょうがねえな。変な切り方されても困るから、俺が教えてやる。準備しろ」
「あ、はい」
まさかにゃんこから爪切りを教わることになるとは……。僕は爪切りを取り出しながら、この奇妙な経験に唸った。
「用意したけど次はどうすれば……」
「まずはソファーにでも座れ。そんで俺を後ろから抱えろ」
僕は言われたとおりにする。ソファーに座ってから腕を伸ばし、トラゾーを後ろから抱っこした。片腕でトラゾーの体を膝の上に固定し、もう片方の手には爪切りを持つ。
「よしよし。そしたら俺の足先を持て。そしたら肉球を押して爪を出せ。あんまり押さえつけたり強く持つなよ」
「分かった」
とりあえず右吾川の前足を持ち上げて、指の先で肉球を押す。すると鋭い爪がにゅっと伸びてくる。
「いいか。こっからが重要だぞ。俺の爪を見ろ。色が途中から変わっていないか」
僕は目を細めて足先を見る。伸びた爪は根元のあたりは透けてピンク色だが、先端に行くに従って白色に変わっていた。
「……うん。変わってる。」
「よし。ピンクの部分はお前達人間がクイックと呼ぶ場所だ。血管や神経が通っている。そこを避けて尖った部分を2〜3mmぐらい切れ。それだけでいい。
だが気をつけろよ。クイックの部分は絶対切るな。痛いし血も出るからな。深く切りすぎるなってことだ。もし深爪にしたら暴れるし、髭からビーム出すからな。じゃ、やってみろ」
「分かった……」
脅すように言うトラゾーの言葉を聞きながら、僕はごくりと喉を鳴らし、人生初のにゃんこの爪切りに挑む。
爪切りの刃を当てて1本目。パチンと音がして爪が切れる。無事1本目は成功だ。
そのままゆっくりと慎重に切り進め、両方の前足を終わらせる。
「いいぞ。この調子で後ろも頼む」
満足げなトラゾーに促されて、次は後ろ足。慣れてきたからか前足よりは幾分早く切れた。
「終わった……」
「結構うまいじゃないか。なかなか良かったぞ」
全部の爪を切り終えて息を吐き出す。トラゾーは上機嫌で僕の膝から飛び降りて、再び爪をとぎ始めた。にゃんこの爪切りでここまで緊張するとは。自分の爪を切るのとはまったく違った感覚だった。
「ちゃんとできて良かったよ。……これまではどうやって爪を切っていたの? すごく詳しかったし、600年間一度も切らなかったわけじゃないんでしょ?」
「ああ。知り合いに髪切りと
「……それって妖怪?」
「そうだぞ。髪切りが人間の髪を勝手に切っちまうやつで、網切が蚊帳とか干してある網を切るやつだ」
「シンプルに迷惑……! そういう妖怪もいるんだね」
「まあな。髪切りはこの近くで理容室やってるぞ。この前様子を見にいったらかなり繁盛してたな。合法的に人間の髪を切れるなんて最高だって泣いて喜んでた」
「人間に紛れてる妖怪多すぎない?」
妖怪というのは知らないだけで想像以上に身近に潜んでいるものなのかもしれない……。そう思った夏の夜であった。
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