第13話 雪の蜃気楼(6)
「暑さと疲労からくる熱中症ですね。今晩は念のため入院してください」
倒れたあと、涼風さんがすぐに救急車を呼び、僕は病院へと搬送された。おぼろげな意識の中で涼風さんが何度も呼びかけてきたことだけは覚えている。
対応してくれた救急医は素早く処置をしてくれて、ほどなくして僕の意識は回復した。ベッドの上で点滴を打たれながら問診を受けて、最終的に救急医が下したのがそれであった。
僕はまだ霞がかかったような頭で言葉を絞り出す。
「熱中症、ですか……」
「はい。まず間違いないかと。お話を聞く限り日中忙しくされていた様子ですし、疲労が溜まっていたんでしょう。あとは部屋を涼しくしすぎたのかもしれませんね。急激な温度の変化は体によくありません。外から帰ってきて家の中が涼しいと、水分を取ろうとすることを忘れがちになります。原因はおそらくこのあたりでしょう」
「そうですか……」
「点滴を打ったら意識も戻ったので、しばらく寝ていれば大丈夫だとは思いますが、なにかあったら呼んでください」
「分かりました……。ありがとうございます……」
弱々しくお礼を言うと救急医は大きく頷く。
「さっきも言いましたが、今日はここでお休みください。そして明日の……、いやもう日付が変わっているから今日か。とにかく内科に連絡して診察の予約を入れておきます。すぐによくなるとは思いますが、きちんと検査を受けて診断を受けたほうがいいでしょう。そのあとは担当医の判断に従ってください」
「はい。そうします……」
「では私はこれで。お大事に」
救急医はそれだけ言い残すとベッドの周りのカーテンを閉めた。とたんに僕の周囲は静かになり点滴が落ちる音だけが響く。その音を聞きながら僕は再び眠りに落ちた。
朝になり診察の時間が始まるのとほぼ同時に僕も検査を受けた。その結果はやはり熱中症。検査の結果に大きな異常はなく、その時には若干の気だるさが残っているぐらいに症状も良くなっていた。これ以上の入院は必要ないが、きちんと水分補給をしてしっかり休むこと。最後にそう言われ僕は病院をあとにした。
「……どうやって帰ろう」
病院を出てすぐ僕は立ち止まった。今日も日差しは強く非常に暑い。今のの体調で歩いて帰るのは厳しい。さりとてトラゾーや涼風さんに迎えに来てもらう訳にはいかない。僕は少し考えて、大人しくタクシーを使うことに決める。
タクシー乗り場に向かおうとすると、僕の前に1台の車が止まった。短くブレーキの音をさせて、停車した車の運転席の窓が開くと、そこに乗っていたのは高橋先輩だった。
「よっ! 草太大丈夫?」
「高橋先輩先輩……? もしかして僕を迎えに……?」
「そゆこと。外暑いから早く乗りなよ」
そう促されて僕は後部座席に乗り込んだ。ドアを閉めて、シートベルトをすると「それじゃ出発」と先輩がアクセルを踏み、なめらかに車が走り出す。
「先輩どうしてここに? 誰から僕のこと聞いたんですか?」
「いやー、昨日の夜家で寝てたらトラゾーちゃんが来てさ、それで事情を聞かされて。俺たちじゃ迎えに行けないから代わりに行ってやってくれって頼まれちゃって。それでお母さんの車借りてここまで来たってわけ」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
「もうびっくりしたよ。草太のこともそうだけど、夜起きたら窓からトラゾーちゃんの首が突き出てるんだもん。私、思わず叫んじゃった」
「すみません……」
僕のことを思っての行動なのだろうが、もうちょっとやり方を考えてほしいな……。僕は苦笑いを浮かべる。
「それで具合は? もう大丈夫そう?」
「はい。まだ少しだるいですけど休めばすぐ良くなると思います」
「そっか。なら一安心だ。もー、ただでさえ最近暑いんだから気をつけなきゃだめだよ。家帰ったらちゃんと休みなよ。あ、あとこれ帰ったら食べて」
僕のことをかなり心配してくれていたらしい先輩は胸をなでおろす。赤信号で停まっている間に助手席から飲み物や食べ物が入った袋を手渡してきた。お礼を言ってから僕は受け取る。
そうこうしているうちに僕の住むマンションが見えてきた。先輩はマンションの前で車を止めた。僕は車から降りる。
「こっからは一人で大丈夫そう?」
「はい、あとは僕一人で大丈夫です。本当にありがとうございました」
「後輩を助けるのが先輩の務めだから気にしないで。きちんと休みなよ。トラゾーちゃんや沙也加さんにもきちんと一言言っとくんだよ。じゃあね」
「はい。先輩も気をつけて」
そう最後にやり取りをして先輩は行ってしまった。車が見えなくなってから僕はマンションの方へと足を向ける。
「おっ、帰ったか」
僕は部屋に入ると玄関でトラゾーが寝そべりながら僕を待っていた。頭を上げて僕を見る。
「ただいま。高橋先輩から聞いたよ。ありがとう」
「礼はいい。お前、今日はもう休め。まだ少し顔赤いぞ」
「そうするつもりだけど……、涼風さんは?」
僕はしゃがんでトラゾーと視線を合わせる。涼風さんの姿が見えない。中に入ると思うのだが。
「……まあ、あいつはその、なんだ、中にいるよ。ただ今ちょっとな……」
トラゾーは少し声のトーンを落とした。僕はその様子には眉をひそめる。
「なにかあったの?」
「……お前が倒れたのは自分のせいじゃないかって落ち込んでるんだよ。自分が一緒に住んでるから負担になってたんじゃないかってな」
「そういうことか……」
僕は視線を外して廊下の奥を見る。僕が帰ってきても顔を見せないのは罪悪感があるからなのだろう。顔を合わせづらいのだ。
「でも、それは涼風さんのせいじゃ……」
だが、正直に言えば僕の体調不良が涼風さんのせいかと考えるとそれ違う。疲労の原因はバイトの時間を増やしたこととレポートの資料集めに奔走していたことだ。それは涼風さんとは何も関係なく、僕自身のためにやったことだ。あとは単純に僕の体調管理が行き届いていなかったから。涼風さんのせいではない。そもそも自分の部屋に住めばどうかと提案したのは僕だ。それでどうして涼風さんを責められようか。
「俺もそう思ってお前のせいじゃないって言ったんだけどな。あいつ、なかなか聞かねえんだ。昔、体質のことで色々あったらしいからそれで必要以上に気にしてるのかもしれん」
「そうか……。うん、分かった。僕が話してみるよ。僕の体調が悪くなったのは涼風さんの責任じゃないって」
「そうしろ。寝ながらでもいいからあいつの話聞いてやれ。特訓も良いところまで来てるんだ。ここで足踏みされたらたまらん」
トラゾーは立ち上がって廊下をトトト……と歩いていく。僕も靴を脱いで部屋へと上がった。
「草太……! おかえりなさい……」
僕を見ると涼風さんはソファーから立ち上がった。心配した様子で僕を見る。
「その、もう大丈夫……?」
「はい。軽い熱中症でした。水分とって寝ていれば元気になると思います」
「熱中症……。そうなんだ……」
僕は先輩からもらった袋をテーブルの上に置いて、ベッドを椅子代わりにして腰掛けた。トラゾーも僕の隣に飛び乗る。僕の説明を聞いた涼風さんは胸の前で指を絡ませながら意を決したように口を開く。
「ごめんなさい……。草太の具合が悪くなったのは、きっと私の……」
「先に言っておきますけど涼風さんのせいじゃないですからね」
僕は機先を制し、涼風さんの言葉を遮る。涼風さんはその吊り目を大きく見開く。
「長時間外にいたのはバイトとか課題のためです。それは僕の事情でやっていることだから涼風さんとは何も関係ありません」
「で、でも……買い物とか頼んだり、ご飯を作ってくれたりして、きっとそれが……」
「そんなこと言ったら涼風さんだって洗濯とか掃除とかやってくれているじゃないですか。むしろその部分では負担は減ってます。そもそもこの部屋に住めばいいって言ったのは僕なんだから涼風さんを悪く言えません。
逆にどうしてそんなに自分のせいだって思うんですか? 何か理由があるんですか?」
僕が尋ねると、涼風さんの体が一瞬ピクリと震えた。そしてソファーに腰を下ろしてゆっくりと話し出す。
「私……、昔からこの体だから運動とか暑いところが苦手で……、周りに気を使わせてて……。喋ったりするのも苦手だから……色んな人に迷惑かけて……。そんな自分がすごく嫌いで……、けどどうすればいいのか分からなくて……、私ずっとこうやって生きていくんだって思ってた……。
でも草太たちに会って、雪女の血を引いてるって知っても優しくしてくれる人がいるんだって知って嬉しくなった……。体質の改善の仕方も分かって、私変わりたいって思った……。今までできなかったことやってみようって……。そう思えるようになったの……。
でも、昨日草太が倒れて……、もしかしたら私がいるせいですごく疲れてたんじゃないかって思って……。そんなふうに迷惑かけちゃうなら、私ずっとこのままでいたほうがいいんじゃないかって考えたの……。そっちのほうがみんなにとってもいいんじゃないかって……。そう思ったの……。」
感情を吐露し終えた涼風さんの瞳は濡れていた。溜まった涙は今にも大粒の雫になって零れ落ちそうだった。
図書館で考えていたことを思い出す。異類婚姻譚。最後に残された者はどうなったのか。人と人ならざるものの末裔はどうなるのか?
人間社会で生きるのはやはり難しいのだろう。人間社会とは大多数が生活しやすいようにできている。それはつまりそこに含まれていない存在は生きにくいということでもある。涼風さんの送ってきた人生はまさしくそれだろう。受け継いだ雪女の体質というハンデ。それを誰にも言えない苦しみ。人間が作り出した仕組みの中で涼風さんは苦しんできたのだ。
もしかしたら異類婚姻譚の最後が別離で終わるのは、読む者にそれを伝えるためであるのかもしれない。人間の世界では妖怪は生きていけず、その子孫たちは生きることに苦しみも背負う。人とそうでないものが安易に交わってはいけない。不幸になるだけだから。そういう説話としての側面もやはりあるのだろう。
だがそれが涼風さんが自分を責める理由になるだろうか。少なくとも涼風さんは自身の抱える問題と向き合い解決しようとしている。変わることで人間社会に順応しようとしている。そうした涼風さんの思いや行動を否定できるほど、現代社会は非情ではないはずだ。そうだと僕は信じたい。
「……涼風さんはすごく頑張ってると思います。僕はあんまり見ていないけど、トラゾーから雪女の力の制御の特訓のことは聞いているし、昨日だって料理をやってみたいって言っていたし……。
変わりたいって思っても行動に移せる人の方が少ないと思います。全部だから自分のせいだって思わなくてもいい。頑張ってる涼風さんはすごく素敵です」
だから僕は自分の気持ちを正直に伝える。だってそうだろう。自分のあり方を良い方向に変えようとする姿は、どんな人間だって立派なもののはずだ。だから涼風さんは自分の思うように自分を変えていけばいい。それで困る人なんていないんだから。
僕の言葉を聞いた涼風さんは驚いたように僕の顔を見上げる。
「素敵……、え……? 私が……?」
「はい。僕はそう思います」
「そんなこと……、今まで誰にも言われたことないから……分からない……」
涼風さんは考え込むように目を伏せて……、しばらくしてまた顔を上げる。
「草太……、師匠……。私やっぱり変わりたい……。もしかしたら迷惑かもしれないけど、きちんと自分の体質をなんとかしたい……。それで」
「それでいいと思いますよ。別に迷惑だなんて思わないし」
「というか最初っから言ってるけどな。お前が力を制御できなくて溶けて死んじまうほうが迷惑なんだ。大体迷惑なんて誰だってかけてる。お前だけじゃない。今回は草太だってそうだ。だから俺たちが気にするなって言っているうちは好きなだけ頼ればいいんだよ」
トラゾーが話はこれで終わりだと言わんばかりに、強引にまとめる。言い方はあれだが、要は気にするなと言っているのだ。僕はトラゾーの背中を撫でる。
涼風さんは目元の涙を指ですくい取ってから、その唇に笑みを浮かべる。
「うん……。じゃあこれからもよろしく……」
「こちらこそ」
僕も口角を上げて笑顔を作った。涼風さんも微笑み返す。すると涼風さんはおもむろに立ち上がった
「それじゃあ……、今日は草太の看病をする……」
「えっ? いやでも、涼風さんは特訓が……」
「今は草太の体のほうが大事……」
ずいと近づいてくる涼風さんの有無を言わせぬ迫力に僕はたじろぐ。
「そうしろよ。今日は俺もその気になれん。お前もこういうときには周りに甘えろ」
どうしたものか悩んでいるとトラゾーが前足を伸ばして僕の額を軽く叩く。……それもそうか。涼風さんにああ言った手前だ。僕も他者の厚意は素直に受け取ろう。
「じゃあお願いします。涼風さん」
「任せて……」
僕が頭を下げると涼風さんは張り切って返事をしてくれるのだった。
それから数日間、僕が体調を整えている間に、涼風さんの部屋のエアコンの修理は業者によって終わった。雪女の力を使っての体温の調整も、外に出ても使用できるほどにうまくなった。「ここまでできれば大丈夫だろ」そうトラゾーのお墨付きもでた。そうなればもう同居を続ける理由はない。涼風さんが自分の部屋に戻る時がきたのだった。
「今までお世話になりました……」
僕とトラゾーは自分の部屋に帰ろうとする涼風さんを玄関口で見送っていた。すっかり元気になった僕は
「隣同士ですから、これからもなにかあったら頼ってくださいね。料理も教えますから」
「ありがとう……。草太も大変な時は相談して……。私も話ぐらいは聞けると思う……」
「ま、たまにはこっちに遊びに来いよ。こんだけ近いしな。俺も壁をすり抜けて、お前の部屋に遊びに行くからな」
「師匠……。来る前は壁にノックしてね……」
「この体じゃ無理だから体当たりする」
近所迷惑だなあ。僕がそう思っていると涼風さんはしゃがんでトラゾーの頭を撫でる。そうしてから再び立ち上がった。
「じゃあ二人ともまたね……」
涼風さんはそう言って部屋を出ていった。隣からドアが開く音と閉じる音が聞こえる。
こうして一夏の同居生活は終わりを告げるのだった。
――そう思っていたのだけれどこの話には続きがあった。涼風さんが隣の部屋へと帰った次の日。僕は部屋でレポートを書いていた。トラゾーはおもちゃで遊び疲れて昼寝中だ。すると玄関からチャイムの音。誰だろう。そう思いながらドアを開けて出てみると、そこにいたのは涼風さんだった。
「こんにちは、草太……。昨日ぶり……」
「こんにちは。今日はどうしたんですか?」
「うん……、お礼を渡しに来たの……」
そう言って涼風さんは紙袋を渡してきた。紙袋には和菓子屋の名前が書いてある。
「それ、羊羹……。冷やすと美味しいから食べて……」
「ありがとうございます。いただきますね」
僕はお礼を言って受け取る。だが、涼風さんはその場から動こうとしない。どうしたのだろう。
「これからお散歩に行こうと思って……。その前に来たの……」
「そうなんだ。そういえば今日はいつもと服装が違いますね」
今日の涼風さんは白いワンピースを着ていた。派手な装飾のない質素なものだったが、涼風さんの雰囲気や長い黒髪とのコントラストと相まって、お忍びで遊びに来た深窓の令嬢のようだった。
「うん……。これ、前の撮影の時に着た服をもらったの……。涼しいからお気に入り……」
「すごく素敵です。きれいだと思いますよ」
僕が素直な感想を述べる。お気に入りの服を着て散歩か。きっとこれまではできなかったことだろうからぜひ楽しんできてほしいな。僕はそう思う。
すると涼風さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「草太ならそう言ってくれると思ったから……、これを着て見せに来たの……」
「えっ?」
その発言の真意を掴みそこねて固まっていると、涼風さんは一歩こちらに踏み出してきた。そしてそっと僕の耳元に顔を寄せる。よく見なければ分からないほど細かな雪の結晶を放つ黒髪が視界で揺れる。
「私のこと素敵だって言ってくれてありがとう……。すごく嬉しかったよ……」
そう耳元で囁いて涼風さんは顔を離す。その一瞬、頬に柔らかいなにかが触れる感触。
思考が停止し、しばらく動けなかった。涼風さんはそんな僕を見てくすりと笑みをこぼし、無言で手を振って扉の向こうへ姿を消した。扉が大きな音を立てて閉まっても、僕は動けなかった。
こうして雪女の末裔との共同生活は本当の意味で終わりを告げた。
僕の頬に雪のような冷たさと、確かな熱を残して。
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