第12話 雪の蜃気楼(5)

 涼風さんとの同居が始まって10日が経過した。最初は慣れないことも多かったが生それももう慣れた。

「頼まれたものはこれで全部だったかな……」

 日が落ちて夕暮れから夜へと変わる時間帯。僕は手元のマイバックを見下ろしながら住宅街を歩く。

 今日は朝からバイトだった。僕はファミレスでアルバイトをしている――深蔓みつるさんの一件で訪れたとのは別の系列のチェーン店だ――。今日は近くでイベントがあったようで、その影響かいつもよりも客足が多く、ただでさえ忙しいこの季節。当然店内は人で溢れかえる。スタッフ側はてんてこ舞いだ。厨房で調理スタッフとして働いている僕も目の回る忙しさだ。そのままディナータイムに突入したが、僕の退勤時間が来てしまった。時間を伸ばしましょうかと店長に聞くと「いいよいいよ! この後別のバイトさん来るから!」と笑顔で返されてしまった。僕と交代するように出勤してきたアルバイトに今日すごく忙しいと思うから頑張って!と言い残して帰路についた。

 その帰り道にスーパーに寄って今日の夕飯の食材と涼風さんに頼まれていた生活用品、トラゾーのカリカリを買っていく。現状の涼風さんを外に出すわけには行かないので、買い物は僕の仕事だ。レポートの資料も集まり、その中から重要そうな情報を厳選した。あとはそれをもとにレポートをまとめるだけだ。明日は1日使って部屋で執筆作業をするつもりだった。

「暑いな……」

 夜になって気温が少し下がっても不快な暑さは街にわだかまったままだ。汗で肌に張り付くシャツをぱたぱたと扇ぐ。

 雪女の力を使いこなす特訓はうまくいってるようだった。最近は日中外出しているので直接見たわけでは無いが、冷気を身にまとうやり方も安定してできるようになってきたとのことだ。そろそろ部屋から出て、外で練習してもいいかもな――とトラゾーは床でゴロゴロしながら行っていた。冷房をつけた部屋のフローリングの床は冷たくて気持ちがいいとのことだ。

 涼風さんが自分の体質と向き合い、その問題を解決しようとしているのはとてもいいことだ。初めて会ったときのように溶けて死にかけることもなくなるだろうし、暑い日でも普通に外に出ることができるだろう。あとはエアコンが直れば涼風さんも今までよりも生活しやすい形で日常に戻れるだろう。

「ただいまー」

「草太、お帰り……」

「……おう帰ったか」

 僕が部屋に帰ると、涼風さんはソファーに座ってテレビを見ていた。トラゾーはテーブルの上で体を起こす。……トラゾーは寝ていたな。しきりに前足で顔をこすり、あくびをしている。

「お願いされていたものは全部買ってきました」

「ありがとう……。全部ある……。後でお金渡す……」

「良かった。もしかして部屋掃除してくれましたか? なんかきれいになってるような」

「草太がいない間にやっておいた……。洗濯物も畳んである……」

「いつもありがとうございます。すごく助かってますよ。洗濯物取り込むとき大丈夫でしたか?」

「それぐらいならもう大丈夫……」

 涼風さんはピースサインを作って突き出してくる。僕もピースして返した。

「ちなみに俺はだらけてぐうたらしてたぞ」

「いつも通りってことだね」

 僕はトラゾーの頭の上を撫でた。それにしても部屋の中は涼しい。汗もすぐ乾いてしまった。お風呂はご飯を食べたあとにするか。

「すぐにご飯つくりますね。もう少し待っててください」

「分かった……」

「俺は待てん」

 僕がキッチンに向かうと涼風さんコクリと頷いた。トラゾーはわがまま言ってるので、皿に買ってきたお魚味のカリカリを出してやると無我夢中でがっついた。食い意地のはってる化けにゃんこだ。

 買ってきた食材を並べてキッチンに向かう。今日はぶっかけうどんである。涼風さんは冷たいものが好きなので、最近は涼し気な料理が食卓に並ぶ。今日はぶっかけうどんである。茹でたうどんを冷水でしめて器に盛り、その上に刻んだオクラ、茹でたエビ、蒸した鶏の胸肉、きゅうりともやしを乗せる。めんつゆを回しかけたら半熟卵を中心に乗せ、最後に鰹節をかける。これで完成。簡単に作れて後片付けも楽なので大変お手軽である。

 それと一緒に明日のお昼も作っておく。涼風さんは体質の関係か朝に弱く超低血糖だ。なのでなかなか起きてこない。その為僕が留守にする間はこうして作り置きしておく。明日は部屋にいるつもりだが、今作っておいたほうが楽だ。

 残った鶏肉ときゅうり、もやしを盛り付けゴマダレをかける。即席棒々鶏の完成である。僕はそれを冷蔵庫に入れる。

「ん……」

 その時、一瞬体がぐらついた。気づけばまた汗が出ている。部屋の中は涼しいのにどうしてだろう。今日は忙しかったし、うどんを茹でるときに火を使ったからそれでかもしれない。きっとそうだ。僕はそう自分にそう言い聞かせた。

「お待たせしました。今日は冷たいうどんです」

 僕はそう言ってテーブルに配膳していく。事前に涼風さんがテーブルを拭いてくれていた。トラゾーはもう食べ終わったようで部屋の隅のにゃんこ用ベッドで寝ている。

「「いただきます」」

 僕たちは手を合わせから橋を取る。涼風さんはうどんを啜ると口を開く。

「おいしい……。草太は料理が上手だね……」

「そんなことないですよ。これぐらいなら誰でも作れると思います。すごく簡単ですよ」

「そうなんだ……。私、料理ができなかったから今まで出来合いのものしか食べてなかったの……。でも体温の調節ができるようになったら、料理もやってみようと思ってる」

「それいいと思います。そうなったら僕が教えますよ。僕、結構料理上手ですから」

「うん……。お願いするね……」

 僕の提案に涼風さんは微笑んだ。最初のうちは表情が読めなかったが、今はもう分かるようになっていた。

 すると涼風さんは真剣な表情になって箸を置いた。ただならない雰囲気になにか変なものが入っていただろうかと僕は心配になってしまう。けれど次に涼風さんが言ったのは僕の不安とはまったく違うことだった。

「草太……。実は今日修理業者が来て……、来週直しに来てくれるらしいの…」

「じゃあ来週には涼風さん、自分の部屋に戻れるんですね。良かった!」

「うん。師匠もそろそろ一人で外に出てもいいだろうって……。だからこのタイミングしかないと思って」

 涼風さんは一旦言葉を切ってペコリと頭を下げた。

「色々助けてくれてありがとう……。二人のおかげで、私すごい助けられた……。ずっと悩んでいた体のこともなんとかなりそうで、いっぱい感謝してる……。本当にありがとう……」

 涼風さんは更に頭を深々と下げた。僕は慌てて両手をブンブンと振る。

「いや、むしろ家の事色々やってもらってむしろ感謝しているのは僕の方ですし、そもそも困っていたらお互い様ですよ!」

「そう……?」

「はい! お隣さん同士ですから困ってたら相談に乗ります。今後もなにかあったら頼ってください」

「そう、なんだ……。じゃあ……」

 涼風さんはちらりと僕の顔を上目遣いで見る。

「草太もなにかあったら私を頼って……。それが私のできるお礼……」

 そう言って唇に笑みを浮かべる涼風さんの姿に――僕はすごくドキッとしてしまったぞ。今の涼風さんはいつもより綺麗だった。それこそ伝承に出てくる雪女のような……。僕はなんだか体が熱くなった気がして、わざとらしく話をそらす。

「あはは、じゃあその時は僕も助けてもらいます。さ、早く食べましょう」

「うん……」

 僕の態度に疑問をいだいたのか涼風さんは一瞬怪訝そうな雰囲気になるが、また食事を再開する。

 顔の火照りはしばらく収まりそうになかった。


「うぅん……」

 その日の夜、僕は息苦しさから目を覚ました。体を起こすと、どうにも力が入らない。倦怠感がすごい。なんだか頭が痛い気もする。

「うわ……」

 薄手のシーツをめくると僕の体は汗でびっしょりだった。水を飲んでから、シャワーを浴びて着替えよう。そう思ってベッドから立つと、視界が飴細工のようにぐにゃりと歪んだ。

 僕はそのまま床に倒れてしまう。「なんだよ……」「なに……」とトラゾーと涼風さんの声が聞こえる。僕は返事ができない。息が苦しい。頭が痛い。喉が渇く。体が熱い。全身から力が抜けて、立ち上がれない。

(あ……。これ……、本当にやばいやつだ……)

 混濁する意識の中で、その思考だけが冷静だった。僕の異変に気づいた涼風さんが悲痛な声で呼びかけてくる。

「草太……! しっかりして、草太……!」

 必死に呼びかける涼風さんの声も虚しく、僕の意識は遠のいていく。

 部屋の床の冷たさを感じながら僕は意識を手放した。



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