第11話 雪の蜃気楼(4)

「よし。それじゃ言われた通りにやってみろ」

「分かった……」

 俺が促すと、沙也加はテーブルの上に置かれた水の入ったグラスを両手で包みこんだ。沙也加が目を閉じて精神を集中すると放出された冷気でグラスが冷やされ、びっしりと霜が覆う。だが中の水までは凍らない。沙也加は温度を一定に保ちその状態を維持する。しばらく経ちそれ以上の変化が起こらなかったのでもういいだろうと俺は判断する。

「まあこんなところだろ。もう力を抜いていいぞ」

「ふう……」

 俺がそう言うと沙也加は手を離す。グラスの霜は急速に溶け出していった。

 化けにゃんこでもあり飼いにゃんこでもあるモフモフでセクシーな俺……トラゾーは、沙也加に雪女の力をコントロールするための特訓をしてやっているところだった。場所は草太の部屋の中でこの前ほどではないが冷房が効いていて実に涼しく快適だ。

「師匠……。どうだった……?」

ソファー腰掛けている沙也加がテーブルの上で香箱座りする俺に視線をくれる。ちなみに俺のことは師匠と呼べと命じた。教える以上、そう呼ばれたほうがこっちも気合が入るんでな。俺は結構形から入るタイプだ。

「これだけコントロールできれば上出来だ。そろそろ次の段階に進んでいいだろ」

「次の段階……?」

 沙也加は相変わらずの変化に乏しい表情で首を傾げる。

「今までは他の物体に力を使って冷やしてきたが、今度はそれをお前の体にやるのさ。全身を冷たい空気で包んで外気の暑さを和らげて体温の変化を抑えるんだ。それができるようになれば過酷な暑さでぶっ倒れるってことはないはずだ」

 俺は垂らした二又の尻尾を左右に振る。まずは簡単なやり方から初めて、慣れたら応用と実践。すべてに通ずる基本的なやり方だな。

「これまで以上に気合入れろよ。これにやってたのと同じことを自分の体にやるんだ。下手したら怪我じゃ済まない。俺が見ててやるから本当にまずい時は止めるが、それでも万が一があるからな。お前自身が気をつけろよ。分かったな?」

「分かった……」

 俺が念押しすると沙也加はうんうんと頷いた。分かりづらいが真剣なことは確かだ。それでも特訓を始めたころと比べるとこいつの感情も結構読み取れるようになった。

「ま、最初のころよりゃ上手になった。あの時みたいに何でもかんでも凍らせるようなことにはならないだろ」

「うっ……」

 俺が冗談混じりにそう言うと沙也加はほんの僅かだが目を伏せる。1回目の特訓の際、沙也加は力を暴走させてグラスどころかテーブルを半分ぐらい凍らせた。俺がいたので事なきを得たが、あれはやばかったな。ただその時とは違って、ある程度は力をコントロールできている。もうそんなことにはならないだろう。

「気にすんな。最初は誰だってあんなもんだろ。今のお前はちゃんと頑張ってここまで来た。あともうちょっとだ。最後まで気を抜かずにな」

「……うん。師匠、ありがとう……」

 そうして沙也加は微笑んだ。それを見た俺はテーブルから飛び降りる。

「じゃあ続きは明日からやるとして……、そろそろあれをやってもらおうか」

「分かった……」

 俺が催促すると沙也加は俺のお気に入りのおもちゃを取り出した。棒に紐でネズミの人形がくっついてるやつだ。沙也加はそれを俺の前で左右に振る。空中で揺れる獲物に600年間生きてきた俺の野性が刺激される話していたもう我慢ができねえぜ! 俺は人形に飛びかかり、沙也加に操られるおもちゃを追いかけ回す。この瞬間だけは俺は飼いにゃんこではなく、たくましい雄にゃんこだ。

「よし……。モフれ」

「分かった……」

 遊びまくって疲れた俺はテーブルの上で横になる。無防備なモフモフセクシーボディを沙也加のの細い指がまさぐる。沙也加の指は冷たくて、これが運動して火照った体に気持ちいい。

 沙也加は手のひらで包み込むように優しく頭を撫でたり、強めに顎の下を指でかいたりしてもてなしてくれる。よし、いいぞ。次はこのあたりだ。俺はヘソ天して腹を出す。

 冷房の効いた部屋で美女に遊んでもらい、モフモフしてもらう生活はどうだって? 最高だよ! この世の極楽浄土だな。これだけでも飼いにゃんこになり、師匠を買ってでたかいがあるというものだ。役得というやつだな。俺は非常に満足して、喉をゴロゴロと鳴らした。

「よし……。おやつをくれ」

「それはだめ……」

「なんだと……」

 だが俺の弟子はただのイエスマンではなかった。首をゆっくりと横にふる。

「草太におやつはあげちゃだめだって言われてる……。師匠は食べすぎるから体によくないって……」

「ぐう……」

 思わずうめき声が漏れる。先日病院に行った際、約束通りおやつをもらえたのだが、それはたったの煮干し一本であった。病院で散々怖い思いをした俺はそれに納得できず、草太が寝静まった深夜、戸棚の中のおやつ漁りを敢行したのである。しかし不審な物音に目を覚ました草太に発見されあえなく御用。現行犯逮捕と相成った。それ以来草太のおやつの管理は非常に厳しいものになっている。

「どうしてもだめか?」

「草太にはたくさんお世話になってるから……、約束を裏切れない……。だからだめ……」

 沙也加は心苦しそうに両の人差し指でバッテンを作った。そうかい……。俺はなんだか虚しくなってテーブルからソファーに飛び移った。沙也加の隣で力なく横たわり、そっぽを向く。すねたぜ。ふて寝してやる……。

「ただいまー! お土産持ってきた! ……って何ふてくされてんの、トラゾーちゃん?」

 その時である。玄関のドアが勢いよく開かれると何者かが部屋に入ってきた。千夏だった。手に紙袋を持って、元気のいい声で挨拶してくる。沙也加は突然の闖入者に目を丸くしている。俺は体をごろんと回転させ千夏の方を向く。

「……なんだ千夏か。何の用だ?」

「何の用だって失礼だなー。せっかく北陸から帰ってきてお土産渡すために直で来たのに!」

「だったらせめてチャイムを鳴らせよ。勝手に入ってくるな」

「事前に草太には連絡取ってありますー。それに私とトラゾーちゃんの仲でしょ。あ、お土産どこ置く?」

「どんな仲だよ……。テーブルの上にでも置いとけ」

俺が気の抜けた声を返すと千夏は「はーい」と明るく返事をして、お土産の入った紙袋を置いた。

「……それで、今日来たのはもう一つ理由があって……。うわすっごい! 本物の涼風紗弥加さんだ……!」

 千夏はぐいっと沙也加との距離を詰める。初対面の人間に急に近寄られたせいか沙也加の体が強張ったのがわかった。

「私、草太の大学の先輩で高橋千夏って言います。草太から沙也加さんのこと聞いてからどうしても会いたくて来ちゃいました! あっ、大丈夫です。雪女のこととか絶対! 誰にも話さないので! そういうわけでよろしくお願いします!」

「え……? あ、はい……こちらこそよろしくお願いします……?」

 沙也加は勢いよく差し出された手をおずおずと握った。「わっ! 本当に握手してもらえちゃった!」と顔を赤くした。恋する乙女か、お前は。

「いや~、私以前から沙也加さんの大ファンで、沙也加さんが載ってる雑誌は全部持ってるんですよ!」

 千夏は背負ったバッグから数冊の雑誌を取り出してテーブルの上に広げた。俺が気になって身を乗り出すと、それはファッション雑誌のようだった。そして表紙を飾っているのは服装こそ違うがすべてに同じ人物だ。沙也加だ。ポーズを決めて着飾った沙也加が写っている。

「そういやモデルやってるって言ってたな……。有名なのか?」

「そりゃもう! ミステリアスな表情でどんな服でも着こなしちゃうクールなモデルだってめっちゃ人気だよ! 私も好き! SNSとかもやってないから私生活が謎に包まれている部分も仕事だけで勝負してる感じで、今の時代だとそこがかっこいいって評判だし! まさか草太の隣に住んでてしかも雪女の血を引いてるってことを知った時は驚いたけど!」

「めちゃくちゃ早口だな……」

 千夏の勢いに俺は思わず身を引いてしまう。憧れの存在に会えたことで、ブレーキが壊れたらしい。ただ数日一緒に暮らして俺は知っているが沙也加は感情を表に出すのが苦手なだけだ。それが雑誌の読者には好ましい部分として伝わったのかもしれない。もしくはそういう部分を売り出す方向で事務所やらマネージャーやらが仕事を取ってきているのかもしれないが。

「服は用意してくれたのを着てるだけだし……、髪もセットしてもらっているだけで……、写真も言われた通りにポーズを取っているだけ……。SNSは使い方がわからないからやってないだけで……。そんなにすごくない……」

「そうなんだ! ところで私、このページの沙也加さんめっちゃ好きなんですよ!」

「……照れる……」

 謙遜する――というか事実なのだろう――沙也加に対し、千夏は強引に話を続ける。沙也加は頬を赤くしながら答えた。肌が白いせいか顔が赤くなるとすぐにわかるな。俺は新たな発見をする。

 邪魔しないでおくか……。その光景を見て俺は体を引っ込めた。なぜなら千夏から質問攻めされる沙也加の口元が、本当にごく僅かだが綻んでいるのがわかったからだ。恥ずかしくても嫌ではないのだろう。千夏もかなり気安い態度だが、あれで礼儀はわきまえているからな。変なことは言わんだろう。沙也加がゆっくり返答するのを見ながら俺は再びソファーに寝転ぶ。

 しばらくすると聞きたいことも終わったのか、千夏は雑誌を閉じると、スマートフォンを取り出した。

「あの、最後にお願いがあるんですけど、写真撮ってももいいですか?」

「……いいよ。でもネットとかには……」

「上げません! 私専用! 私専用の沙也加さんですから!」

 お前専用ではない。

「じゃあなんか良いポーズでお願いします」

「えっと……。じゃあこれで……」

 千夏のいい加減な指示に沙也加は少し考えてから、無表情でピースサインを作った。事前に撮りたいポーズぐらい考えとけ。で、沙也加はそれでいいんかい。俺はあくびをしながらだらける。

「うわっ本当に撮っちゃった。私これ家宝にして大事にします!」

「うん……。喜んでくれたなら私も嬉しい……」

 なんか二人ともそれで良さそうなのでもういいか。俺は体を思いっきり伸ばした。

「あっ、そろそろ私帰って資料まとめなきゃ!」 部屋の時計を見た千夏はおもむろに立ち上がった。もうそんな時間か。そろそろ草太も帰ってくるころだな。

「私時々ここに遊びに来てるんで、なにか力になれることがあったらいつでも言ってくださいね!」

「うん……。ありがとう……」

「はい! じゃあトラゾーちゃん! 沙也加さん! 草太によろしく伝えてね! お邪魔しました〜」

 千夏は荷物をまとめると来たときと同じように騒がしく帰っていた。ドアが閉まり、静寂。ようやく部屋は静かになる。

「元気な子……。面白いね……」

「本当にな。台風みたいな娘だよ」

 また一人と一匹に戻った室内で、沙也加がくすりとつぶやいた。俺はなんだか力が抜けて寝返りを打つ。あいつがいるとこっちまでエネルギーを使わさせられる。まああれぐらいのバイタリティとフットワークの軽さがなければ、あちこち飛び回ってフィールドワークなんてできやしないか。

 そう思っていると沙也加の手が伸び、俺の背中を撫でた。優しい手付きだった。

「師匠……。ありがとう……。草太と師匠には本当に感謝してる」

「なんだよ、急に……」

 俺が首だけで振り向くと沙也加は優しげな眼差しで俺を見つめていた。

「……私昔からこの体質だったから……、大変なことも多くて……。それが辛くて苦しくて……。でも誰にも言えなくて……。どうすればいいかわからなかった……」

 沙也加の手は背中から俺の腹に移る。ほんの少しのくすぐったさを俺は感じた。

「でも二人は私のことを知っても真剣に話を聞いてくれて……。すごく良くしてくれて……。体のこともだんだん受け入れられるようになって……。だから私の中には二人への感謝でいっぱい……。ありがとう……」

「……馬鹿。そういうのはちゃんと最後まで特訓をやり終えてから言うもんだ」

「うん、そうだね……」

「あと、その気持ち、草太にもちゃんと伝えとけ。今の生活環境を維持してるのあいつだからな」

「うん、そうする……」

 それだけ言って沙也加は俺の体を一定のリズムで撫で続ける。俺はそれがなんだか心地よくて、疲れていることもあってか、緩やかに眠りに落ちたのだった。

 


 

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