第9話 雪の蜃気楼(2)
「部屋に上げろ。そんでとにかく部屋を冷やせ。それでどうにかなる」
有無を言わさないトラゾーの態度に、僕は言われたとおりに行動した。部屋の冷房の温度を限界まで下げる。冷凍庫から取り出した保冷剤やら氷やらを部屋の中央に並べ、その上にタオルを敷いて女性を寝かした。体中に冷えピタを貼って、扇風機の風を当てる。意識はあるようで時折「み、水……」と呻くので冷やした水を飲ませたりする。そんな看病……、看病? まあとにかく容態を見守ること数時間。ようやく意識がはっきりしてきたらしい。女性は口を開く。
「涼しい……。生きかえる……。文字通りに……」
「そ、そうですか……。それは良かったです……」
正直涼しいなんてものではない。ありとあらゆる手段を使って部屋を冷やしているため、真冬並みの寒さだ。僕はソファーの上に座って、引っ張り出してきた毛布を何枚も被っているがそれでもまだ寒い。吐き出す息は白く、指先がかじかむ。ここだけ真冬みたいだ。トラゾーも流石に寒いらしく、僕の膝の上で毛布に包まれながら丸くなっていた。
そして、この氷点下の中でこの世の極楽かのような安らかな表情をしている女性の姿は、明らかに普通の存在ではないことを如実に表していた。
「私は
「僕は天原草太。大学生です。こっちは化けにゃんこのトラゾー」
「よろしくセクシー」
女性は立ち上がることはまだ難しいようで顔だけをこちらを向けて名乗った。僕たちも自己紹介する。少し吊り目気味で無表情だけど整った顔立ちと雪のように透き通った白い肌。醸し出されるミステリアスな雰囲気と合わせて、涼風さんはクールビューティーと呼んで差し支えない、きれいな女性だった。……状況の異様さを抜きにして考えれば、だが。
「草太とトラゾー……。覚えた……。二人は命の恩人……。お礼を言わせてほしい……。ありがとう……」
「いや、そんなこと……。大丈夫そうで良かったです」
涼風さんは一度頷いてから感謝の意を伝えてきた。抑揚のないゆっくりとした喋り方。変化に乏しい表情からも察するに、感情があまり表に出てこないタイプの人なんだろうか。そう考えながら僕は答える。
「……もう隠せないから言うけど、私は普通の人間じゃない……。おばあちゃんが雪女で、私はそのクォーター……。だから暑すぎると体が溶ける……」
「溶けるんですか!? 体が!?」
「溶ける……。そういう体質……。冷やせば体は元に戻るけど……。だから暑いのは嫌い……」
「そ、そうですか……」
僕は口の端をひくつかせる。飼いにゃんこになろうとする化けにゃんこ。人間社会に溶け込んでいる河童ときて、次は人間と雪女のクォーター。最近僕の周りに妖怪関係の存在が集まりすぎている。僕が知らないだけで、人間に混じって暮らしている妖怪は意外に多いのだろうか。
「今日は野外で雑誌の撮影があって……。暑くて……。頑張って家まで帰ってきたけど……。あと一歩のところで溶けた……」
「溶けちゃいましたか……」
そこに僕が帰ってきてこの状況だ。タイミングが良かった。少しずれていたら僕は涼風さんだったものを踏みつけて玄関を開けていた。
「最近の夏は暑すぎる……。外に出るとすぐに溶けそうになる……」
「昔と比べると暑いですよね……。地球温暖化とかのせいなんですかね」
「……私も昔そう思って、温暖化反対のデモに参加したことがある……。でも周りの人たちの熱気で溶けそうになったからすぐ帰った……」
「それはそうした方がいいですね……」
「私もそう思う……」
涼風さんは僕に向かって親指を立てた。仰向けの体勢と一切変わらないクールな表情のせいで非常にシュールだ。一瞬微妙な空気が流れる。涼風さんは「?」といった様子で小首をかしげた。分かった。この人一見クールに見えるけど、感情が読み取れないから分かりにくいだけで、実際は天然な人だ……! 僕は寒いのに冷や汗を流す。
「最近暑いのは同意見だし、雪女が暑さに弱いのは本当だ。でも雪女は冷気を出したり、体温を低く保ったりできる。流石に溶けたりはしないはずだぞ。ばあちゃんからやり方を教わらなかったのか?」
緩んだ空気を引き締めるようにトラゾーが尋ねた。すると涼風さんはほんの少しだけ悲しげな目をして視線をそらす。
「……おばあちゃんとおじいちゃん、両親は小さい頃に交通事故で亡くなってる……。だからやり方が分からない……」
「……そうか。嫌なこと聞いて悪かったな……」
先ほどとは違った意味で微妙な空気が空間を支配した。沈黙が部屋を包む。トラゾーが顔を上げて「どうしたもんか」と視線で問いかけてきた。僕は意を決して口を開く。
「あの涼風さん。今はどうやって暮らしているんですか? 今の季節だとかなり辛いんじゃ……」
「……部屋にいる間は冷房をつけてる。でも電気代も高いからずっとつけていられない。そういう時は冷凍庫の中に入ってる……」
「冷凍庫……!」
「そう……。人が入れるぐらい大きいやつ……。内側からも開くタイプ……」
「な、なるほど……。お仕事の際はどうしているんですか?」
「……マネージャーは私が暑いのが苦手なの知っているから、かなり気を使ってくれる……。今回の撮影はどうしても断れなかったら、溶けないように暑さ対策してやりきった……。しばらくは撮影もない……」
「そうですか……」
「ただ最近、エアコンが壊れて修理中……」
「ええっ!? まずいじゃないですか!」
「それで最近隣の部屋がうるさかったのか。いつ頃直るんだよ」
「季節の関係で修理の依頼が多いから……数週間はかかるって言われてる……」
「えっ? じゃあ壊れてから今まではどうやって暮らしてたんですか?」
「バスルームで氷風呂を作ってそこで生きてる……。寝るときもそこに入ってる……」
「それはだめですよ! 寝てる間に溺れちゃうじゃないですか!」
「うん……。この前溺れかけた……」
「ほら、やっぱり!」
僕は大きく天を仰いでから腕を組んだ。正直今の涼風さんを放ってはおけない。このまま帰ってもらっても溶けるか溺れるかで死んでしまうのが目に見えている。せめてエアコンが修理されるまでは別の場所で寝泊まりした方がいい。僕はそう結論づける。
「しょうがねえな。じゃあ俺が体温の調節のやり方を教えてやるよ」
僕が口を開くよりも先に、トラゾーが
喋った。その言葉に涼風さんの目がわずかに開く。
「え……?」
「だから俺が教えてやるって言ってんだ。こう見えても600年も生きてるんでな。雪女の力の振るい方も知ってる。教えてやるから、お前はそれを学べ。そんでエアコンを修理している間は、この部屋に居候すればいい。お前もそう思ってるんだろ?」
トラゾーがそう話を振ってくるので僕は頷く。
「うん。僕もそうした方がいいと思う。涼風さん。エアコンが直るまでここで暮らしてください。今は大学は休みですけど、日中はバイトや課題の資料集めで僕はほとんど留守にしているので、その間にトラゾーに教えてもらえばいいと思います。冷房も自由に使っていただいて構いませんし。もちろんその分の電気代と生活用品分の金額は出してもらいますが……。どうですか? 悪い提案じゃないと思うのですが」
思いがけない提案に涼風さんは上体を起こして、震える声で言う。
「でも……命を助けてもらったのにこれ以上助けてもらうのは……」
「馬鹿。お前をこのまま帰して部屋のシミにしちまう方がよっぽど問題なんだよ。俺たちが殺人犯になっちまうだろ」
ふるふると首を振ってこちらの申し出を断ろうとする涼風さん。トラゾーはその様子に呆れたように続ける。
「それに力のコントロールをして、体質の問題を解決したほうが、お前にとっても有意義だろ。長い人生、こんなふうに他人に助けてもらえることなんてそうそうないんだ。周りからの善意は大人しく受け取っとけ」
それだけ言ってトラゾーはそっぽを向く。どうやら先ほどの失言に対する詫びの気持ちもあるらしい。素直じゃない……。僕は苦笑しながらトラゾーの喉を指でかく。
「良いの……? お世話になってしまって……?」
「はい。隣人同士、困った時はお互い様ですから。頼ってください」
それでも信じられないのだろう。重ねて涼風さんが聞いてくるので僕は笑顔で返した。化けにゃんこと暮らしているのだから、今さら雪女の末裔が増えたところでどうってことはなかった。
「……分かった。それじゃあしばらくお世話になる……。よろしくお願いします……」
「こちらこそ」
「ふん」
しばらく迷うそぶりを見せてから涼風さんは答えを出した。ペコリと頭を下げる涼風さんに親しみを込めて言葉を返し、トラゾーは短く鼻を鳴らす。
こうして奇妙な同居生活は膜を開けたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます