第8話 雪の蜃気楼(1)
天原草太という人間は大学生である。幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられた。学費は祖父母が払ってくれているが、いつまでも甘える訳にはいかない。入学に際して僕は家を出た。大学近くのマンションの1K。そこそこ安い部屋を借りて住んでいる。当然生活費は自分で稼がねばならぬ。最近態度が大きい化けにゃんこを飼い始めたため、より稼がねばならぬ。そういう事情でバイトの時間を増やしたのである。
「あ、どーも」
「……どうも」
いつもより早く部屋を出ると、ちょうど隣人が同じように部屋から出てきたところだった。軽く挨拶を交わす。
気だるげに言葉を返してくれたのは腰まで黒い髪を伸ばしたスレンダーな体型の女性だった。大人っぽい美人である。一瞬視線を奪われてしまう。女性は額の汗を拭ってから、すぐに視線を切って共用通路を歩き出す。その足取りはふらふらしていてどこか危なっかしい。具合でも悪いのだろうか?
「今日も暑いな……」
僕は首を反らして空を見上げる。雲一つない青空。太陽が眩しい。
熱中症には気をつけよう……。僕はバイト先に向かって歩きだした。
「ああ~、暑いぃぃぃぃ……。溶けるぅぅぅぅ。溶けちゃうぅぅぅぅ……」
「熱中症どころの騒ぎじゃなかった!」
バイトが終わり、マンションに帰ると、先程の女性が僕の部屋の前でぶっ倒れていた。全身ピクピク痙攣させて助けを求めている。僕は急いで倒れている女性に近づき話しかける。
「ちょっと! 大丈夫ですか!」
「あ、ああ……。大丈夫じゃない……。た、助けて……」
「ですよね! ちょっと待っててください。すぐに救急車呼びますから……。うわっ何だこれ」
慌てて抱き起こしたところで僕は気付く。女性の倒れている場所を中心に大きな水たまりができている。女性の体もびしょびしょだ。……というかなんかすごく軽い……?
「あっ、ああっ! 人肌! あっ、熱いぃ!」
「ひっ」
ぐったりしていた女性の体がビクンと跳ね、僕の体の中で暴れはじめる。白目を剥いて黒髪を振り乱すその姿はまさしく悪霊のそれだ。あまりの迫力に喉から短く悲鳴が漏れる。この様子、尋常じゃない。
異常事態はまだ続く。女性の体、その僕の触れている部分から白い煙が上がり、ポタポタと水滴が水たまりに落ちていく。腕の中の重みはますます軽くなり、体が細くなっていく。え、嘘? 本当に体が溶けている……?
「うわああっ! と、溶けてるうっ!」
「何やってんだ。騒がしいな……」
「うわあっ!?」
思わずその場に尻餅をつくと頭の横で聞き慣れた声が聞こえた。勢いよく横を向くとドアの前にトラゾーの頭が浮かんでいた。怪奇、にゃんこの生首……!
「ちょっ! それどういう状況!」
「それを聞きたいのはこっちなんだが……。まあいいか。俺はこうやって壁や扉をすり抜けることができるんだよ。また一つ俺のことを知れたな。ところでその女のことはいいのか。なんか今にも死にそうだが」
「ああっ! そうだった!」
トラゾーの生首のインパクトに一瞬女性のことが頭の中から吹き飛んでいた。僕は救急車を呼ぶためにズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
女性の顔を見たトラゾーは「ふうん」となにかに納得したかのように唸ると、ドアをすり抜けて外に出てきた。そして前足をスマートフォンの画面に乗せてくる。
「そいつ隣の部屋の女だろ。だったら病院に行っても意味ないぞ。それより早く部屋に上げろ。本当に死んじまうぞ」
「えっ? どういうこと?」
言葉の意味がわからずに困惑する僕に、トラゾーは一度大きくため息を付いて言った。
「そいつは雪女……、だと思ってたが違うな。人間との混じりもの……。妖怪の血を引いた人間だよ」
「ええ?」
トラゾーのその言葉に僕は腕の中で気絶している女性の顔を見つめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます