第3話 河童の皿流れ(2)

「って言うことがあったらしいのよ」

 目の前に座る女性――高橋千夏はそう締めくくるとテーブルに置いてあったペットボトルの中身を一気にあおった。

「なるほど……?」

 僕は真顔で呟いた。額から汗がしたたり落ちる。おそらくそれは暑さによるものだけではないはずだった。

 トラゾーと出会ってから一週間がたったある日、同じ民俗学科に属する大学の先輩に呼び出された。そして大学内の食堂でこうして向かい合っている。

 普段は腹をすかせた学生たちによってごった返す食堂も今は夏季休暇であるため僕たち以外には誰もいない。いつも値段の安い食事を提供してくれるおばちゃんたちも厨房にいない。食堂内はしんと静まり返っていた。

「そういうわけでさ。二人でその池にフィールドワークに行こう!」

「話が急……!」

 一息ついた高橋先輩は口角をにゅっと上げて明るい笑顔でそう言った。ボブカットと小柄な体格から活発で快活な印象を与えるこの先輩は、その印象通りの人物であった。今のように唐突に提案してきていやようなしに僕はそれに巻き込まれるのだ。大学生になってから半年。僕はもう高橋先輩の突拍子のなさに慣れはじめていた。

「いや、私だって本当に河童がいるとは思ってないよ? 子供たちの勘違いかもしれないし。でもそういう噂があったら真実を確かめるのも民俗学を研究する者の使命だと思わない?」

「何言ってるんですか……? 河童はいますよ……?」

「えっ? どしたの急に? 熱中症?」

 高橋先輩は一転心配するような表情になる。気は確かである。化けにゃんこがいるなら河童もいる。当然の帰結だ。

「分かりました。一緒に行きますよ。出発はいつですか?」

「待って待って! 私が言うのもなんだけど展開が早いって!」

 席を立つ僕を先輩は慌てて止めてくる。

「何!? いつもは色々言って渋るくせに今回はどうしちゃったの!?」

「最近常識が一変する出会いがありまして。それでですかね……」

「後輩が世界の真実を知ったような顔に……!」

 僕がフッと笑うと先輩はその場にがっくりと崩れ落ちた。相変わらずオーバーリアクションな人だ。

「というか河童云々以前にそんな危ない場所に先輩を一人で行かせられるわけないじゃないですか。そりゃ僕だって行きますよ」

 僕はため息交じりに本当の理由を言う。さっきの話を聞く限り、その河童は人に危害を与える存在のようだし、河童じゃないならとんでもない不審者だ。僕が断ったら一人で行くつもりだろうし、だったら僕も一緒の方がましなはずである。

「えっ? 嘘、草太にこんな心配されるなんて初めて……。もしかして私の事……?」

「それはないです」

「あっ、そう?」

「はい」

「そっかあ……」

 先輩は少し残念そうな表情をする。なんでそんな顔をするんですか……?

「じゃあ一旦別れて準備してから公園に集合ね。時間は午後3時ぐらいで!」

「了解です」

 最後にそう短くやり取りをして僕たちは別れた。


「まあいるだろうな。河童は」

 マンションに戻るとテレビのニュースを見ながらトラゾーは答えた。テレビからは最近近くで起こった連続強盗事件の事を話していた。トラゾーはテーブルの上で香箱座りだ。

「やっぱりかあ。トラゾーみたいなにゃんこもいるもんなあ」

「おう、まあな。河童なんてお前らが知らないだけでそこら辺にいるぞ」

「そんな虫か何かみたいに……」

 僕が長靴や懐中電灯などを用意していると、一度大きく伸びをしてからテーブルから飛び降り僕の足に擦りついてくる。ズボンに抜け毛がつく。

「何? どうしたの?」

「モフれ。もしくは遊べ。そうでなかったらおやつを寄越せ」

「今は忙しいんだよ。あとおやつはダメ。出て行く前にあげたでしょ」

「ケチめ。お前がいない間誰がこの部屋を守っていると思ってるんだ。せっかくその池にもついて行ってやろうとしてるのに」

「はいはい。電線にとまってるカラスを追い払ってくれてありがとうございます。……ごめん。今なんて言った?」

 僕は思わず手を止めてトラゾーの顔を見る。ついてくるつもりなの?

「だから俺が一緒に行ってやるって言ってんだ」

「ええ? どうして?」

「お前な。人間が妖怪に勝てるわけ無いだろ。しかも河童だぞ。干からびるまで相撲を取らされて尻子玉を取られておしまいだ」

「何それ、怖……」

「そうだぞ。妖怪なんてそんなもんだ。影と闇の中に生きる。人間とは根本的に違うんだ。俺みたいに人間の文明社会に馴染もうとする奴の方が珍しいんだ」

 僕を見るトラゾーの目が鋭くなった。瞬間部屋の温度が数度下がったような感覚に陥る。時折放たれるトラゾーのこういう気配には、600年生きてきた人ならざる者の威厳と格が確かにあった。

 今のトラゾーの姿を見ると化性や妖怪という存在は、姿を見せないだけでこの世界にちゃんと存在しているのだと実感させられる。

「ついてきてくれるってことは僕たちを守ってくれるって事?」

「せっかく見つけた飼い主に何かあったら嫌なんでな。まあ妖怪じゃなければそれはそれでよしだ。あとはちょっと個にゃんこ的な事だ」

「個人的って言いたいの?」

 僕は笑いながら手を動かし続ける。少なくとも僕が飼い主の間はトラゾーは人間側に寄ってくれるらしい。僕は準備を整え、玄関で靴を履く。

「じゃあ行くか」

「うん。ところでもし河童が襲ってきたらどう対抗するの?」

「髭からビームだ」

「髭からビーム」

 オウム返しする僕の後ろでドアが大きな音を立てて閉まった。

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