第2話 河童の皿流れ(1)
「よっちゃん本当に行くの?」
鬱蒼と茂る林の中にまだ幼い少年の声が響いた。「当たり前だろ。ここまで来て帰れるわけ無いだろ」
よっちゃんと呼ばれた少年は弱気な声を出す友人に顔だけ振り向きながら力強くそう言った。
二人は家の近くにある公園、その敷地内にある林の中を歩いていた。まだ夕方で日も高く、本来は明るいはずなのだが木々に光は遮られ薄暗い。その上、風通しがよくないのかとても蒸し暑く、湿った空気が肌を撫でる。まとわりつく不快感を振り払うように、額を流れる汗を拭いよっちゃんは声を張り上げた。
「たかしだってこの先の池の河童の事は知ってるだろ」
「知ってるよ……。ここの公園の池には河童が住んでるってやつでしょ」
「そうだ。だから俺たちが河童を見つけてみんなに自慢するんだ!」
要はそういうことであった。夏休み中に偶然河童の事を知ったので一夏の冒険を……。ということである。それにしては周囲の風景はあまりにも不気味だったし、たかしと呼ばれた少年が怖気づくのも当然であった。
「河童なんているわけないよ。なんかここすごく暗いし、なんか怖いよ。ねえもう帰ろう」
「駄目だ。もうちょっと行けば池があるんだからそこまでは絶対に行く!」
引き返そうと提案するがヨッチャンの決意は固いようで怯えるたかしを置いてずんずんと進んでいく。一人になりたくないたかしは仕方なくその後ろをついて行った。
しばらく進むと視界が開け、木ばかりの風景が変わった。二人の目の前に開けた土地が広がり、そこに一つの池があった。
その池はひと目で分かるほど汚れていた。水は緑色に濁り、生臭い匂いが二人の鼻をツンとつく。
「よし、じゃあ行くぞ……」
「うん……」
ヨッチャンとたかしはおそるおそる池へと近づいていった。池の周りには木はなく、日の光が差し込んでいるはずなのに林の中よりも暗いような気がした。一歩また一歩と草むらをかき分け進んでいくたびに異臭は強くなり、思わず二人は鼻を指でつまんでしまう。
それと同時にヨッチャンは形容し難い不安に襲われていた。林の中にただ唯一ポッカリと空いた穴のようなこの場所に立ち入ってから、自分たちは入ってはいけない場所に足を踏み入れてしまったのではないかという畏れの感情が頭をもたげてきたのだ。しかもそれは池に近づくほどに強くなる。冒険を始めた頃の勢いはすっかり霧散し、今はただ漠然とした不安と恐怖が胸の内で渦巻いていた。もう帰りたい……。ヨッチャンは弱気になる。
ただそれでも言い出しっぺは自分であるのだし、背後のたかしに格好の悪いところは見せたくなかった。ヨッチャンは見栄と義務感で歩いていく。
そうして池のほとりにつくと二人は足を止めた。遠くから見たときは大きいと思ったが、近くで見るとそうでもない。小学校のプールの半分にも満たない大きさだ。ほとりを沿って河童を探してみても何も見つからない。腐った魚のような匂いに耐えながら池に顔を近づけてみても、濁った水面には反射した自分の顔しか映らず何もいない。池に飛び込む小動物すら見かけない。その内に二人は気づく。この池はどうしようもなく死んでいるのだと。
「ヨッチャンもう帰ろうよ。これだけ探してもいないんだから河童なんて嘘だったんだよ。暗くなってきたし、早く帰らないとお母さんに怒られちゃう」
たかしはもう十分だろうと怯えの感情を隠さずに言った。ヨッチャンが顔を上げると日が落ち始めてきたのか空が少しずつ暗くなっていた。そろそろ引き返さないと林の中で迷子になるかもしれない。
「そうだな! そろそろ帰るか! クラスのみんなには河童はいなかったって言おう!」
ヨッチャンはわざと大きく声を出した。それを聞いたたかしはほっと息を吐き出し安堵の表情を浮かべる。
それを見たよっちゃんも内心では胸を撫で下ろしていた。ようやくこの不気味な場所から離れられる……。その気持ちを友人に見せなかったのは、クラスの中心にいる自分がそんな情けない姿をできないという子供らしい小さなプライドからくるものだった。
そうして二人が池に背を向けたその時だった。
ザパア……。
背後から決してするはずのない水音が響き渡った。ヨッチャンとたかしの体が金縛りにあったかのように動かなくなる。
ペタ……、ペタ……、と何かが歩いてくる音。ピチャピチャと水が滴り落ちる音が二人の耳朶を打つ。絶対にに振り向いてはいけない……。そう思いながらも二人はゆっくりと振り返った。振り返ってしまった。
そこにいたのは人の形をした何かだった。長身痩躯のその全身は真緑。手と足の指の間の水かき。口は鳥のくちばしのように突き出ていて、両目は黄色く細い黒の瞳が無感情に二人を見つめていた。
そして何より目を引いたのは背中の巨大な甲羅と頭頂部の丸い皿。目の前の存在を形容する言葉は一つしかない。すなわち、河童。
そして河童はゆっくりとヨッチャンとたかしに手を伸ばして……。
「うわああああああああっ!」
木々の間を悲鳴が駆け抜けていった。
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