100、ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

 素晴らしい人生だった。

 平凡な家庭に生まれた。家族から愛されて育ち、幼馴染と将来を誓い合った。

 けれど、五歳の時に誘拐された。海外に連れ出されたため、必死の捜索も虚しく行方不知れずとなった。

 海外の大富豪の養女として育てられたが、破産とともに地下組織に売られた。上流家庭の礼儀作法を身に付けていたため、スパイとして重宝された。生まれは伊賀忍者の末裔だったので体術も申し分なかった。

 漫然と任務をこなす日々だったが、ある任務で機密情報を入手するため国家元首の邸宅に潜入した際、盲目の少女と出会った。彼女は幼い頃に誘拐され、海を渡る途上で視力を失ったらしい。日本から来たという彼女の話を聞くうちに、自らも同じ境遇であったことを思い出した。

 目の見えない少女に、自分も日本人であるということを信じてもらうのは少し骨が折れた。けれど、納得してからは実の姉を慕うようによく懐いた。無邪気な笑顔にはじめて愛おしいという感情を覚えた。少女を救いたいと思った。

 組織を抜け、邸宅から少女を連れ出すと、数々の魔の手から追われることとなった。

 世界情勢を一転させるほどの極秘情報の鍵を少女が握っているらしい。日本で暗躍していたエージェントが極秘情報を手に出国した。一人の少女を連れて。それが必然だったのか、ついでの手土産のつもりだったのかは分からない。船は座礁し、エージェントは死んだ。遺されたのはただ一人、少女だけだった。

 事件のショックからか、断片的な日本の風景を覚えている以外、少女に誘拐以前の記憶は一切ない。しかし、唯一の手掛かりとして、少女は世界中から狙われている。

 それを解決しない限り平穏は訪れない。

 糸口を求めて、世界各地を転々とした。単独活動とは異なり、少女を庇いながら行動するのは骨が折れた。ヘマをして、国際警察インターポールからも追われることとなった。特に、ゼニガタという男は執念深く、日本まで追いかけてきた。

 ついに、極秘情報を記したチップが少女の体内に埋められていると判明した。

 しかし、それを取り出す術がなかった。ゼニガタの協力を仰ぎ、日本の医療機関で摘出のための手術を行う。少女が重大な病に蝕まれていることも発覚した。チップの情報は少女の脳波により維持されている。病巣とチップの摘出のため八時間に及ぶ大手術となった。ゼニガタと共闘して、手術中に押し入ってこようとする敵たちを蹴散らした。

 少女は視力とともに記憶を取り戻した。

 極秘情報を日本から持ち出したエージェントこそが、少女の父親だった。難病に冒された少女を救うためには、国家精鋭の医療チームによる施術が必要だったから。

 取り出したチップはゼニガタに渡さず、その場で破壊した。彼は何も言わなかった。

 代わりに「帰って来い」と言った。両親も帰りを待っていると。俺も。お前を見つけるために国際警察に入ったのだと、幼馴染はぎゅっと体を抱きしめた。太陽のにおい。懐かしさに思わず彼の背中に伸ばし掛けた手を、何とか堪える。この手はあまりにも汚れてしまった。

 するりと彼の腕から逃れ、代わりに天涯孤独の少女を託す。奇しくも自分と同じ名前を持つ少女を、両親の元に送り届けてほしい、自分の代わりに慈しんでほしいと。

 そうしてまた日の当たらない世界に帰る。日陰で泣いている誰かを助けるために、この人生を捧げる――。


 本当に、人生は素晴らしかった。

 映画館を出てもまだふわふわした高揚感みたいなものに包まれて、すぐに電車には乗らず、一駅歩いた。

 なのに、家に着いて玄関ドアを開けて、散かった室内を目にするや、がくんと気持ちが落ち込む。あのドラマチックな人生との落差ときたら!

 何もなかった。学生時代も会社勤めでも目立たないタイプで、家族の中でさえ成績優秀な姉の陰に隠れていた。

 たった一度の恋も、友人から同じ人を好きだと言われて身を引いてしまった。「友人から告白された」と彼から相談を受けた時、「いい子だから大事にしてあげて」と答えた。「本当にそれでいいの」と彼は険しい顔をした。私はそれ以上何も反応できなかった。結局彼は友人とは付き合わなかったけれど、私と付き合うこともなかった。

 相談所で出会った男性と結婚もしたけれど、結局一年も経たず離婚してしまった。

 とやかく言われるのが億劫で、実家には戻らず、一人暮らしを始めたけれど、張り合いもなく怠惰な日々を送っている。実家にいる時は、母から近所の噂話を聞かされるのに辟易していたけれど、今は電話が掛かってくるとちょびっとだけ嬉しい。父から送られてくる家庭菜園の写真にもいちいちコメントを返している。寂しいのだよ。

 けど、それでいいのだ。

 これが私の人生なのです。ぴかぴかに磨いた浴室でゆっくり湯船に浸かりながら思う。ハーゲンダッツを食べながらお風呂に入るなんて、一人じゃないとできない。みるみる溶けちゃったから、もうしないけど。

 上がって、夕飯も食べずに晩酌を始める。明日も仕事だけど、腹立つことがあったし、致し方なし。梅酒ロックにナッツを摘まみながら、タブレットを開く。最近SNSを始めた友人の投稿をチェックして、そのままあちこちのサイトを見て回る。よくもまあ皆これだけ書くことがあるなと感心する。

 友人から、あんたも書いてみればと誘われたけれど、断った。私には何もないから。けど、人の書き込みや創作物を見て回るのは好きなのだ。そう言うと、見てくれる人がいるから書けるのだと、私の存在をありがたがってくれる。

 そういえば、と鞄を探る。さっき映画館で渡された名刺。上映終了後、知らない男の人から食事に誘われて、断ると、「良ければ連絡ください」と名刺を渡された。映画館に寄った時によく見掛ける顔で、趣味が似てるのだろうと思いはしたが、言葉を交わしたこともない相手に気を許すほど世間知らずじゃない。ノリトク・ヒロキ。一応名前だけ確認して、ぽいとゴミ箱に放り込む。

 ああ、明日も仕事だ。しがない会社員なので、上司の命により、前任者が何度もチャレンジして断られている取引を私が引き継ぐことになった。よりによって取引先の担当が前夫だとかもう最悪だ。飲まなきゃやってられない。けど、失敗した前任者がかわいがってる後輩なので、頑張るっきゃない。仕方ない。

 本当に私の人生、面白いことが何もない。

 けど、我ながら毎日頑張って生きている。そう思えばこそ、何もないなりに、案外いい人生を歩んできているのではないか。そうに違いない。せめて私自身だけはそう思っている。

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