82、思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり

「阿津くん」

 思わず声を掛けてしまった。私にできることなど何もないくせに。


「阿津くんは、いじめに遭っているのではないでしょうか」

 阿津くんのクラス担任に声を掛けたのは、彼がいじめられているのではないかと疑念を持ってから一週間も経ってからだ。

 私なんて受持ちクラスの学年さえ違うのに、差し出がましいんじゃないか。そんな馬鹿みたいな保身から、いや私の気のせいかもしれない、もしそうだとしても担任の岡先生がすでに手を打っているだろう、などと言い訳をして気付かぬ振りをしていた。しかし、そうすると余計に目に入るものなのか、間違いなく彼はいじめに遭っている。

 岡先生は生徒から人気だけれど、よくいえば大らかな人だから、もしかしたらクラスのいじめに気付いてさえいないのかもしれない。それで、思い切って声を掛けた。サバサバした人だから、私みたいにうじうじせず、あっさりいじめっ子を指導して解決してくれるに違いない。

 そんな私の期待に反して、岡先生は答えた。

「アツ? ……ああ、アツね。いや、特にヤツからは何も聞いていないですね。うちのクラスは元気な奴が多いから、じゃれあってるだけですよ」

「でも」

「本当にいじめで困ってるなら、本人から相談があるでしょう。大丈夫ですよ」

「ですが、宇木くんたちが阿津くんにしていることは、やりすぎだと思います」

「康二たちもクラスに馴染むようにとちょっかい掛けてやってるんでしょう。アイツ、暗いから。感化されて活発的になればいいですけど」

 頼子先生は心配性だなあ、はっはっは。と、岡先生は爽やかに笑った。私はもうそれ以上何も言えなかった。

 この人に言っても仕様がない。阿津くんも同じ気持ちだろう。

 岡先生は、きっと学生時代いじめる側だったのではないか。意識的にせよ、無意識にせよ。少なくともいじめられた経験などないに違いない。普段から無意識に人気者の生徒を贔屓している。人間だもの、それは構わない。けれど、生徒の名前くらいちゃんと覚えてほしい。親しくもないのに、勝手に下の名前で呼ばないでほしい。

 学年主任に相談しようか。いや、彼も岡先生と同じ人種だ。あまりしつこくすると、今度は私が先生方からターゲットにされる。

 はあ。

 溜め息と一緒に、阿津くんのことは見なかったことにした。彼が一学年の時に国語の授業を持ったきり、今は関わりがないのだ。一応担任に報告はした。できることはした。どうせあと半年で彼は卒業する。私には関係ない。

 そう思っていたのに、ひと気のない廊下を歩く阿津くんの背中に、思わず声を掛けてしまった。

「阿津くん」

 人はそう簡単には死なない。人は案外簡単に死んでしまう。

 阿津くんがどちらなのか、他人には知るよしもない。

 中学生の頃、私は耐えて耐えていじめを遣り過ごした。けれど、遠い塾で仲良くなった女の子は、ある日あっけなく命を絶ってしまった。塾ではいつも笑ってたから、私は彼女が学校でいじめられていることさえ知らなかった。

 だからと教師になったわけではない。一般企業の内定が取れずに、決まったのが教職だっただけだ。

 未だに人間関係は苦手だ。面倒な仕事を押し付けられることは多いし、派手な生徒に対しては内心一歩退いてしまう、三者面談なんてなくなればいいと思っている。夜中に独りでめそめそ泣いたりする。弱い私にできることなんて何もない。

 けれど、教師になったのだ。

 足を止めた阿津くんが視線を向ける。真っ黒な瞳。

「阿津くん、何か困っていることないかな」

 人間関係が苦手だから、上手い声掛けもできない。

「……何がですか」

 案の定、警戒させてしまった。

 何て言えばいいだろう。中学生の私なら、何て声を掛けてもらいたかっただろう。いじめはなくなってほしかった。けれど、大人に相談はできなかった。親を心配させるのが嫌だった。相手に伝わっていじめが激しくなるのが怖かった。放っておいてほしかった。でも助けてほしかった。

 今になっても正解は分からない。たぶん、これで解決するというたった一つの正解なんてない。だから、私は自分の手で探っていくしかない。

「私なら、岡先生には絶対に相談なんてしないから」

 本音のまま口にしてみる。無表情だった阿津くんが少しだけ驚いた様子を見せる。半身の彼を振り向かせるために言葉を重ねる。

「相談しても、あの人って余計なことしそうじゃない?」

 だから私が相談に乗るよ、とバシッと言ってあげられないのが申し訳ない。けれど、阿津くんの心に何かは届いたようで、泣き笑いのような表情をして彼は振り返った。

 今、私は塾で仲良しだったあなたのことを思い出しているよ。あなたが私を支えてくれたみたいに、私もこの子を助けてあげたいと、そう思っている。

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