81、ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

 朝、目覚めると、もう隣に彼の姿はない。声も掛けずに出て行ったようだ。

 カリカリとドアの方から音がする。

 のそりと起きて、サイドテーブルにちらと視線を遣るも、置手紙の一つもない。スマホに着信もない。

 部屋の扉を開けると、カリカリとドアを引っ掻いていた犯人が「クーン」と視線を上げる。

「おはよう、モコ。すぐに朝ごはん用意するからね」

 頭を撫でると、ブンブンと短いしっぽを振る。

 こんなに愛くるしいのに、モコは人間が苦手だ。私以外に懐かない。今付き合っている彼も、モコを見たことさえない。来客があると、モコは誰にも見つからない場所に隠れてしまうから。

 前の前に付き合った男が、私が見ていないところでモコに乱暴なことをしていたのが原因だ。

 今の彼にもモコのことは話した。けれど、「邪魔されないからちょうどいい」と笑っていた。

 彼とは別れた方がいい。そう分かっている。背伸びして付き合った彼とは、食事をして体を重ねたら、もう他には共通の話題さえない。

 私のことも、モコのことも大切にしてくれる人でなければ。

 モコの家なのに、モコが逃げ隠れしなきゃならないなんて。せめて、うちに男を連れてくるのはもうやめようと思う。

 もっとモコを大事にしなければならない。モコは本当は寂しがり屋で、来客がない時は必ず私のベッドに潜り込んできて、体をぴったり寄せて一緒にくうくう眠るのだ。なのに、彼が来た時、モコは独りぼっちで寝てるのかと思うと、とても心苦しい。申し訳なくて、食事中のモコに抱きつこうとしたら「ウー」と唸られた。親しき仲にも礼儀あり、食事中は手出し厳禁なのだ。

 彼と別れたら、もう男はよそう。仕事に生きよう。モコを幸せにするために働く。

 さいわい勤務先でも茲許リモートワークの制度が整い、在宅勤務できる日も増えた。昼間に散歩に連れて行ってあげることもできる。

 さて打合せの時間だ。

 部屋に戻り、パソコンでテレビ会議に接続する。

「おはようございます。本日もよろしくお願いします」

「おはようございます。こちらこそよろしく」

 画面にテディベアみたいな柔和な髭面が映る。実定さねさださんは現在の案件で頻繁にやりとりしているデザイナーで、見た目に似合わぬ繊細なデザインが好評を博している。

「ワン!」

 打合せを始めるや、台所にいたはずのモコがトコトコ走ってきて、足元に飛びつく。

「モコちゃんですか?」

 毎度の光景に、実定が笑う。

「ええ、はい。ごめんなさい。この子、人見知りのくせに、実定さんの声が聞こえるとどこからでも飛んできちゃって」

 モコを膝の上に抱っこしながら答える。熊のぬいぐるみにでも見えるのか、モコは画面に向かって嬉しそうにしっぽを振る。

「構いませんよ。うちも……、ほら来た」

 画面の向こうでも、一瞬フレームアウトした実定がトイプードルを抱いて戻る。

「トッピーくん、おはよう」

「こいつも、有明さんの声が聞こえると飛んできます。モコちゃんに会いたいんだな」

 トッピーもしっぽを振っている。

 私達は仕事の話もそこそこに、犬の話から始まり、最近読んだ本の装丁や、観た映画など、話に花が咲いて雑談が尽きない。互いの膝の上では飼い犬が大人しく座っている。

「あ。もう次の会議の時間だ」

「ごめんなさい、また長話をしてしまって」

「いえ、こちらこそ」

「では、また」

 終了ボタンを押そうとすると、モコとトッピーが「クーン」と切ない声を出す。何だかこちらまで寂しくなってしまう。彼も同じように感じたのか、別れ際に声を掛けられた。

「あの、もしよければ、今度一緒にランチでもどうですか。犬も一緒に入れる店を探すんで」

「ぜひ」

 だなんて、返事はそっけなさ過ぎやしなかっただろうか。

 彼がどんな表情で食事に誘ってくれたのか、こちらの方が動揺して見ることができなかった。たんに、モコとトッピーを会わせてやりたいと思っているだけなのかもしれないのに。

 彼はこの後、犬も同伴できる店を一生懸命探すのかしら。別に公園でお弁当を広げるだけでもいいって言えばよかった。実定となら、それでも楽しい時間を過ごせると思った。

 仕事に生きると誓ったばかりなのに、私はちゃっかり彼の薬指に指輪がないことを確認していたりするのだ。

「あー、モコぉ。私って馬鹿だねえ」

 胸に抱いたモコの背中にもふっと顔を埋める。ランチデートの話を理解しているのか、モコは嬉しそうにしっぽを振った。そうだね、彼ならきっとモコのことも大事にしてくれる。

 まだ何も始まってもいないのに、確かにそちらに柔らかな光が見える気がする。

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