83、世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
「どうしたの、迷子?」
そう声を掛ける前に、私は一度その場を通り過ぎていた。
親切がかえって仇になるような世の中だもの、関わらぬのが一番だ。なんて一瞬でも考えた自分に舌打ちをしながら引き返した。迷子をそのままにしておくなんて、それこそ変な人に連れ去られたりするかもしれない。えーん、えーん。幼い女の子がこんな風に泣いているのに放っておくなんて。
目の高さを合わせて声を掛けると、女の子は泣きやんだ。
泣きやんだけれど、反応はない。
俯いたままじっと黙っている。伏せた目で、私の足元を凝視して様子を窺っているようだ。
「迷子なの? ママと来たのかな。おばちゃんが一緒に探してあげようか」
なるべく優しくゆっくり発音したけれど、女の子は固まったままだ。自分には子供がいないから、正しく接することができているのかどうかも分からない。こちらの方が途方に暮れてしまう。
誰か助けてくれと思うものの、先程までちらちらと迷子の方へ視線を向けていた人達も、誰かが声を掛けたということで安心したのか、立ち止まる人はいない。
声を掛けたことを後悔していた。貼り付けた笑顔が強張る。
頭の片隅で、帰社後すぐの会議のことを考える。そう油を売っている暇もないのだ。
女の子はじいっと俯いて黙り込んだまま動かない。今、小さな頭で一生懸命に考えているのだろうか。この大人は信用できるのか。ママには知らない人についていくなと言われている。でも。
悪いけど、悠長にこの子が結論を出すまで待っていられそうもない。無理矢理迷子センターまで手を引いていったら大泣きするだろうか。そうなれば、誰か「親切な人」に通報されるだろうか。釈明のために時間を取られたら、完全に会議には間に合わない。それどころか警察で事情聴取を受けているとなれば、変な噂が立ち、社内外の信用にも影響するかもしれない。
やはり声など掛けなければよかった。他の人と同じように通り過ぎればよかった。きっと親切な「誰か」が何とかしただろう。もう二度と自ら面倒に足を突っ込むことはやめよう。
今更放っておくわけにもいかず、女の子の目の前にしゃがんだまま「不安だよね」「大丈夫だよ」と話し掛ける。ともすると吐き出しそうになる溜息を必死に堪えて。
どうしたものか。とりあえず一旦会社に連絡したいが、この子の目の前で電話するのもな。誰か、警備員を呼んでくれたりしないだろうか。
「なっちゃん!」
その時、雑踏から声が上がった。女の子がはっと顔を上げる。大きな買い物袋を抱えた女性が駆け寄ってくる。
「ママ!」
女の子の表情がぱっと明るくなる。
母親はなっちゃんの頭をぽんぽん叩いて、ほっと安堵の息を吐く。
「だめじゃない、勝手にいなくなっちゃあ。ママすごく探したんだから」
いやお母さんこそ子供から目を離さないでくださいね。なんて野暮なことは言わない。幼い子供を連れて外出するのも大変なのだろう。
母親はなっちゃんの手を掴んで、なっちゃんも母親の手をぎゅうっと握り返す。
私も急いで会社に戻らなくては。立ち上がると、ずっとしゃがんでいたから膝が痛い。よろよろしていると、ついと手を引っ張られた。
見下ろすと、なっちゃんが小さな手で私の指をきゅっと握る。涙に濡れた透明な瞳で私を見上げる。
「おばちゃん、なっちゃんと一緒にいてくれてありがとお」
そう言ってにこっと笑った。
母親も慌てて「すみません、ありがとうございました」と頭を下げる。
「いえ、見つかってよかったです。なっちゃんもよかったね」
微笑み掛けると、素直にこくんと頷く。
固く手を繋いだ二人を見送って、私は反省した。あんな小さな迷子を見捨てようとしたなんて、だめな大人だ。もっと優しい人間にならなくては。
そんな殊勝な気持ちを持ったのも一瞬のことで、次の瞬間には私は会社へ向かって全力で走り出していた。
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