76、わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波

 波止場に立つのは私だけになってしまった。

 船は水平線の先に消えて、もう見えない。けれど、私はいつまでも沖を眺めていた。

 青い空。雲がなければ空と海の区別がつかないほどに青く抜けた景色。旅立ちの日がこのような好天気に恵まれてよかった。私の心とは正反対の晴天で。

 二ヶ月前、彼は出立の日時を私に告げた。それが早いのか遅いのかは分からない。彼は決まってすぐに報告したというけれど、海外赴任がそんな急に決まる事があるのだろうか。分からない。長く付き合っているのに、彼の仕事のことを何も知らないのだ。彼は自分のことをあまり多く語らない。私も。

「一緒に行こう」とは言ってくれなかった。私から言わねばならなかったのだろうか。でも、言えるはずない。怖いもの。望む答えが得られるとも分からないのに。

 最低でも三年。もしかするとそれ以上長くなるかもしれないと彼は言った。

 そんなに悠長に待っていられる年齢でもない。彼もそれは分かっているはずだ。

 そう考えながら溜息を吐く。どうして私は女なのだろう。結婚や出産やそんなことを何も考えず、ただ彼を待つことができないのか。

「急だね」

 色んな思いを飲み込んで、私の口から出たのはただそれだけだった。

「うん」

 彼もそう答えただけ。あとはカチャカチャとスプーンを動かす音だけが響く。

 結局、その話はそれきりで、彼が慌しく海外生活の準備をしているうちに、二ヶ月などあっという間に過ぎて、彼を乗せた船は出港していった。

「それじゃあ」

「うん。気を付けてね」

 私は、待つとも待たないとも言わなかった。彼も問わなかった。

 特に今の仕事に思い入れがあるわけでもない。長く勤めて楽というだけだ。転勤の多い彼と結婚すれば、いつか辞めることになるだろうと漠然と考えていたりもした。とはいえ、抱えている案件もある。二ヶ月足らずで全部引継いで退職という訳にもいかない。

 高齢の親も心配だ。国内ならまだしも、海外だと何かあった時に気軽に帰ってくることもできない。それに、英語圏ならまだしも、赴任先はタイだという。言葉の通じぬ国での生活。治安は? 病院は? 子供ができたら? 不安は尽きない。私がこういう性格だと知っているから、彼も答えを急かすことはしなかったのだろう。きっといっぱいいっぱいになり、出発前にケンカになってしまったろう。

「向こうで生活が落ち着いたら手紙を送るから」

「……うん」

 そう言って、彼は私に考える時間を与えてくれた。

 けれど、私が彼からの手紙を開くことはないだろう。

 空を見上げる。今日が晴天でなかったら、こんな決断はしなかったかもしれない。だが、一度ひとたび心を決めてしまえば、あとは早かった。

 彼からの手紙が届くより先に、私は日本を飛び立った。

 私の内にこんな情熱があったなんて、彼は知りもしなかったろう。私自身驚いているのだから。

 私が彼の胸に飛び込んだちょうどその時、実家に私宛の郵便物が転送されてきたと母からメールがあった。手紙には、彼の署名が埋められた婚姻届が封入されていたと。

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