75、契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
「すぐに迎えに来るからね」
母はそう言って私を祖母に預けた。
「ねえ、ママはいつ迎えに来てくれるの」
幼い私はしつこく祖母に問うた。
「俊子ちゃんが良い子にしていたら、じきに迎えに来るだろうよ」
そう言っていた祖母も、私が十歳の時についに匙を投げた。
「いつまでもあんな母親を待つのはやめなさい」
いつにない恐ろしい剣幕で言われて、以来私は祖母にその質問をすることをやめた。母のことは口にしなくなった。
けれど、口にしないだけで、私はいつも待っていた。母が迎えに来ることを。
母が家を出たのは、私が物心付くや付かずやの三歳の時だったので、ぼんやりと母なる存在を思い浮かべることはできるものの、その顔も声も温もりも何も思い出すことはできない。どこかへ連れて行ってもらった記憶も、遊んでもらった覚えも、乳を飲ませてもらったのかどうかさえ分からない。「すぐに迎えに来るからね」というその言葉さえ、母の声で思い出すことはできない。何度も何度も反芻して間違いなくかつて母はその言葉を私に残したのだと信じているだけ。けれど、私は母を待っているのだ。まるでシンデレラが王子様を待ち焦がれるように。ずっとずっと心の奥深くで待ち続けている。
そういう性分が身に染み込んでしまったのか、長じて私の恋愛はいつも不幸なものばかりだった。
私はいつも待つ身だった。相手は、妻子ある男だったり、夢を追い続けるバンドマンだったりした。たくさんの女の中の一人で、男の気の向く時だけ呼び出されて関係を持って、挙句詐欺まがいの仕打ちを受けたこともある。
けれど、構わなかった。小さな頃から待つことには慣れていたから。そんな私に祖母は哀れむような視線を送った。けれど、私はてんで平気だった。そんな相手に引っ掛かるたび、なんとなく母に近付いたような感覚を得ていた。
ある日、祖母が倒れた。入院先の白いベッドに横たわる祖母は、急に老けたように弱々しく感じられた。母代わりに厳しく私を育ててくれた祖母も、いつの間にかもう七十の齢をゆうに超えていた。
見舞いを終えて病室を出ようとする私の裾を、祖母がつと掴んだ。
「待つ身はつらいよ」
消え入りそうな声だった。
はっとした。待つ身は私だけだと思っていた。けれど、祖母もまた待っていたのだ。
実家暮らしでいながら、思春期を過ぎてからというもの、私は男を追いかけてばかりで、家に帰るのが深夜になることも、無断外泊もしょっちゅうだった。けれど、祖母はいつも私を待っていてくれた。食事の仕度をして、うちの鍵を開けて。
母が捨てたのは、私だけではなかったのだ。祖母もまた、母に捨てられた身なのだ。
それで、これ以上もう失うことがないようにと、ずっと私を待っていてくれたのだ。待つ身がいかにつらいか、私が一番よく知っている。
以来、私は馬鹿な男にのぼせるのはよして、真っ直ぐに祖母の待つ家に帰るようになった。私が帰ると、祖母はとても嬉しそうな顔をする。いつも母の幻を追いかけて、目の前の祖母をちゃんと見ていなかった。今からでも遅くないだろうか。
「ただいま」
私が祖母に言う。
「おかえり」
祖母が私に言う。
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