74、憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

 冷戦が続いている。

 ここ一年程、妻とは顔を合わせれば言い争いになってしまう状態だったので、妻が突っかかってこなくなったことに、始めは安堵していた。喧嘩さえしなければ、そのうち自然とまたもとの仲に戻るだろうと。

 けれど、違った。

 例えば、変わらず食事の用意はしてくれるが、同じ時間に食卓を囲んでも一切会話はなく、食べ終わるとすっと席を立ってしまう。当然会話など交わすべくもない。

 妻の世界に、もう僕は存在しないのだ。

 こんなことならば、喧嘩していた頃の方がまだましだった。その時、妻は間違いなく僕に向けて言葉を発していたのだから。

 そもそも関係が悪くなったきっかけが何だったのか思い出せない。何か明確な出来事があったのか、それとも倦怠期のような感じで自然とこのような状態に陥ってしまったのか。妻に訊くことはできない。僕が理由を解していないと分かると、一層彼女の癇癪に触るだろう。そうしてただ時間が解決することを願って日々をやり過ごしていたら、この有様だ。何が彼女の逆鱗に触れるか分からないから、迂闊に話し掛けることもできない。

 ひとり取り残された食卓で、心当たりを辿る。

 浮気? 妻がいるのに、そんなことするはずない。また、彼女に疑われるような行動もない。ここ一、二年は仕事に忙しかったし、残業や休日出勤が嘘でないということは、給与明細により明白だ。となれば逆に、彼女に淋しい思いをさせていたのか? いや、彼女は自分の時間を楽しめるタイプだし、現にたまに早く帰宅した時には「もっとゆっくり帰ってきていいのに」なんて冗談めかして言われたものだ。ならば、妻に男ができて僕が邪魔になった? いや、それも考えられない。僕が不規則な帰宅をしてもまったく動揺する素振りなどないし、何より夫婦だからこそ分かるのだ。それは妻も同じだと思う。

 結婚五年目。ともに来年四十になる。子供はない。仕事や何やで夫婦の時間を持てなかったということもあるが、子供は自然に任せようというのは結婚前から話していたことでもある。それに、子供がなくてもいいというのは、むしろ妻が先に口にしたことだった。「子供を設けるためにあなたと結婚するのじゃない。大好きなあなたと生涯をともに歩むために結婚したいの」、彼女は恥ずかしそうに、けれどはっきりとそう言った。思い出してぐっと胸が熱くなる。どうしてこうなってしまったのか。

 一人で考えても答えは出ない。

 食器を片付けて、いつもならそのまま風呂に入り、妻が寝た頃を見計らって寝室に入る。けれど、今夜は風呂に入る気にもならず、重い気分のままそっと寝室のドアを開けた。

 消灯され真っ暗な寝室で、静かにすすり泣く声がする。暗闇に目を凝らすと盛り上がった布団が微かに震えている。妻が、泣いている。

 最近の僕ならば、まずいところへ出遭でくわしてしまったと、そっとドアを閉めていたと思う。けれど、疲れていた。ベッドまで行き、流石にそのまま布団に入るのも気が引けて、そっと布団の背を撫でた。すすり泣きが一瞬びくっと止まった。そして僅かな間を置いて、再び布団は僕の手の下で小さく震えた。妻の温もりを感じるのもずいぶん久しぶりな気がした。妻もまた同じだろう。

 妻はよく人から強い人間だと思われる。彼女が泣いている姿など誰も想像できないだろうし、実際小学校に上がってからは家族の前でさえ泣いたことがないと言った。僕にはそれが信じられなかった。僕にとって彼女はとても泣き虫な人だったから。「私が安心して泣けるのはあなたの前だけ」だと彼女は言った。なのに、いつから彼女の泣き顔を見なくなったろう。その間、彼女はずっと独りで泣いていたのだろうか。

 掌に伝わるすすり泣きは止みそうにない。泣いている理由は分からない。彼女自身さえ分からないのかもしれない。僕らがなぜこんな風になってしまったのか。

 この先僕らの関係がどうなるのかは知るべくもない。ただ分かることは、今も彼女は僕の前では泣くことができるということだけだ。だから今はただそっと彼女の震える背中を撫でる。

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